坂田銀時は通い慣れた畦道を駆けていた。畑仕事の途中で抜け出してきたので、身体のいたるところに土がこびり付いている。頬は泥で汚れていた。不意に気がついて拭っても、手にこびりついた泥が擦り付けられるだけである。
 周囲は豊かな田園が広がっている。田園の向こうの山並みは幼い銀時の前に、時に壁のように立ちはだかる事もあれば、穏やかに寄り添う事もある。大空と山の稜線は不思議な彩色でいつでもそこにあった。鋳銭司村は肥沃な土壌を持つ土地である。海、山、川に囲まれて気候も温暖であり、風水害や地震も少ない地形ゆえに一年を通して概ね穏やだ。
 銀時は畦道を曲り、入母屋造りの農家の縁側に回った。縁側の襖は開け放たれている。
 村田孝益は坂田銀時の姿に気がつくと苦笑した。孝益に視診されていた患者も、坂田さんとこの銀坊がまた覗いておると失笑したが、どちらの表情も決して嘲った色を含まなかった。
「銀坊、そんな処でこそこそしてねぇで、こっち来い」
 孝益が手招きすると、板戸から顔をちょこんと覗かせて隠れるようにしていた銀時は、診療室に入りこんだ。孝益の脇まで来ると、患者の顔色をじろじろと眺め考え込む素振りをしてから「血の道が悪い」と口にする。孝益真似である。孝益は可笑しそうに笑って、
「そうだぞ、銀坊。お前は筋がある」
 と褒め、頭を掻き混ぜるようにして撫でた。銀時は頭を揺さぶられながらも、誇らしげに胸を張った。
「助さん、漢方を処方するから続けて飲んでくれ。あと、成るべく暖かくして、あまり海の風には当たらないようにな」
 銀時は胸の内で、漢方、処方、暖かく、海の風と繰り返す。齢五つの銀時には目に映る事、聞いた言葉、全てを覚えたい知識欲で溢れていた。
 爽やかな風が室内を擽るように吹き抜けた。つられるように戸外に目を向ける。鋳銭司村は美しい。銀時は幼い瞳に映るこの美しい景色を毎日飽きもせずに確認しては「綺麗だな」と見惚れた。春に山を彩るは山桜、夏の夜には蛍の幻想的なあかり、秋は鮮やかに木々がもみいづる。探せば楽しみは幾らでも見つかった。田や畑仕事の手伝いの暇を見つけては山登りをして、瀬戸内海の向こうにある世界を想像したりしていた。銀時は掌から溢れるほどのこの世の不思議に、まだ知らぬ未知なる世界に明るい希望を抱いていた。殊更、銀時が興味を抱いたのが村医である村田孝益の診察だった。体調を崩した村人は「孝益さんに看てもらわなきゃな」と口にする。人は何故病むのだろうか、そしてどういった仕組みで治るのだろうか。銀時の素朴な疑問だった。血の道、中気、疳という病気は漢方を処方し、生活の習慣で改善していく。治癒という言葉は銀時にとって、尊く高尚で素晴らしい単語だった。
「また来ていたのか」
 心底うんざりしたといった風な声を投げかけてきたのは孝益の息子、村田蔵六だった。銀時と同じ年齢だが、蔵六は幾分こまっしゃくれている。子供らしさがなく、父親の孝益に似ずひどく無愛想だった。銀時は蔵六の容貌を見るたびに、何故顔の造りがそうも下方に寄っているのだろうと不思議がった。大頭で広額、眼は長く大耳である。鼻梁は高いが、それ以上に目を覆うような双眉が濃く目立つ。もう少し要領良く広い貌に余裕を持って配置されれば良いものを。こっそりと瓢箪という綽名をつけていた。蔵六は畑仕事を終えて来たのか、頬に付着している泥を肘で拭うと薬箱を取り出してくる。そうして、薬一つ一つの効能と名称を暗唱しだした。銀時は羨望の眼差しで蔵六を見守った。蔵六は銀時の視線に気づき、冷たい一瞥を投げてから、鬱陶しそうに背を向けて暗唱を続けた。
 次の患者を孝益が迎えた。銀時はそのまま留まっていたかったが、畑仕事の途中で抜けてきたので、これ以上さぼれば両親に大目玉を喰らう事になる。仕方なく、引き上げることにした。
 畦道を駆けながら、「治りましたよ」と口の中で繰り返す。何時か大きくなったら、銀時の元に飛び込んできた患者に「治りましたよ」と云うのが銀時の密かな夢だった。定期的に流行る麻疹も数年前に流行したコロリという脅威的な病も想像の中で銀時の手によって治癒されていた。田や畑仕事も嫌いではない。自らの手によって伸びやかに青々と育つ野菜や麦も銀時は好きだった。村田の家は村医だが、田畑仕事もやっている。銀時は底抜けの明るさで、何とかしてこの村の村医になり、田畑仕事も兼ねるのだと決めていた。
 帰途の途中、見慣れぬ男女とすれ違った。男は腰までの髪の毛を結もせず垂らし、芥子色の小袖に袴姿の出で立ちである。羽織は薄い水色だ。年齢は銀時の父親よりも幾分年若く思えた。女は少女であった。藍色の着物を着ていて、矢張り、見かけぬ顔であった。男は銀時に気がつくと拍子抜けするぐらい優し気な笑みを浮かべた。少女の方は無表情だが、瞳に力があった。銀時は、その瞳に当てられてたじろいだ。追い抜かしてから振り向くと、二人は村田の家の方に歩いて行くようであった。そして、男の腰に差料があった事をその時になって気がついた。
 畑に戻ると、母親に小突かれた。父親は苦笑し、母親を宥めてくれた。作業に戻りながらも、あの畦で通り過ぎた二人は誰だったのだろうかと、度々考えた。鋳銭司村は小さな村だし、人の出入りは殆どない。不意に少女の真っ直ぐな瞳を思い出しては不思議な気持ちになった。銀時が異性の女の子に対して、妙に気掛かりになるのはこれが初めてだった。
 この時期、享保の改革や天明の大飢饉等の影響により藩の財政は逼迫し、多額の借金が嵩んでいた。藩は専売制を徹底させ、農民の商品経済を藩の厳重な統制の下に置き流通を抑制していたので農家の暮らし向きは相当苦しかった。だが、空腹の胃を抱えても、明るい日差しが銀時の白い肌と珍しい髪の色を照らしていた。

 翌年、銀時は六歳になった。
「銀時、少し休むぞ」
 父親に声をかけられ、ヒエ引きの手を止めた。腰を伸ばし、眼を細める。水田は青々とした緑に覆われている。夏風が涼しげに吹き抜け、稲が一斉に揺れるさまは壮観である。銀時は汗を拭うと、今度は父親と母親のどこか陰が過ぎる横顔を眺めた。近頃、村の大人衆は頻りに集会所で寄合を開くようになっていた。銀時の胸にも不穏な予感が兆し始めている。両親から漏れ聞こえる話を夜な夜な盗み聞くうちにどうやら世情が不穏なものになっていることに感付いていた。食糧事情もこのところ前よりも格段に悪くなっていた。銀時は育ち盛りである。いつも胃は、切ない空腹を訴えていた。
 銀時の目から見て、両親は他の親と比べ寛容だった。仕事ばかりさせるのではなく、遊ぶ時間も随分と与えてくれた。暮らし向きは決して楽ではないのに、出来る範囲で不自由させないように計ってくれてもいた。
 銀時が腰を下ろすと、母親が握り飯を渡してくれた。父親と母親に挟まれ、銀時は白米に齧り付く。父親の荒れた手が銀時の頭に乗った。日に焼け随分と皺の刻まれた父親の顔を仰ぎ見て、銀時は胸が苦しくなるような心地がしていた。風景は長閑なのに、長閑さに寂寥が混じっていた。
 父親が低い声で呟くように云った。
「銀時、人の勤めは生きること、それだけだ。お前の生きる時代は困難な時節かもしれん。だが、生きよ。褪せるでないぞ」
 銀時は風に揺られても折れることのない稲を見つめながら、静かに頷いた。まだ幼い銀時に父親の言葉は難解だった。だが、なんとなく云わんとしている事の小さな気配が少しだけ分かった気がしていた。
 まもなく吉敷郡小鯖村の皮番所での御用達商人と農民の紛争が発端となり、百姓一揆が勃発した。銀時はこの直後に両親に命じられ、村田孝益の周旋もあり長州萩城下の松本村村医者で療養所を開いているの吉田松陽に預けられることになった。一揆は忽ち瀬戸内海沿岸地帯の三田尻、山口、小郡を中心に広がり、九月には瀬戸内海沿岸の他の地域、中部山間部、日本海沿岸地帯へと波及し、代官らの取締りも効果を示さず、一門寄組以下正規藩兵が城下入口の警固と鎮圧に出動した。銀時はこの事件を人の口から後に聞いた。
 銀時は松下診療所の門を叩いて驚いた。出てきた男が去年の夏に畦ですれ違ったあの男だったのだ。男はあの日と同じ芥子色の小袖を着て独特な穏やかな笑みを浮かべていた。
「君でしたか」それが、銀時に掛けられた松陽の第一声だった。「ここは厳しいですよ」
 大丈夫です、と松陽に答えたのは銀時を随伴した孝益だった。「小さい頃から丈夫な子供ですし、少し悪戯好きですが、なかなか筋があります。よろしくお願いしますよ、松陽先生」
 銀時は松陽を凝視していたが、孝益に小突かれ慌てて頭を下げた。
「お引き受けしましょう」
 村に帰っていく孝益の後ろ姿を見送りながら、銀時は両親の事を思った。孝益の背中が小さくなっていくにつれ、嫌な予感が胸を占め、喉に熱いものがこみ上げてくる。そして、それは決して杞憂ではなく、覚悟をしておかなければならないことだと銀時は既に気がついていた。
 孝益の陰が消えてもそのままでいる銀時の頭に、松陽が手を置いた。温もりを感じて、銀時は俯く。銀時は気持ちの折り合いをつけるまで門の前に立っていた。松陽はその間ずっと銀時に寄り添っていてくれた。
 翌日から郷愁を覚える暇もないほど忙しくなった。朝は明ける前から起床し、掃除し、湯を沸かし、薪を割る。済むと、松陽に随って患者の部屋を回り、指示に従い独楽鼠のように動いた。やっとの思いで女中の用意した朝飯を掻っ込むと、患者の食事を配膳する。昼にかけては松陽の弟子に医学を学び、握り飯を拵えて近所の剣術道場に赴く。身体が動けなくなるまでしごかれて帰宅すると、出納帳の整理が待っている。それが済めば、村に問診に出掛けていた松陽に学問を学び、夕飯を患者に配膳し、風呂に入りやっと横になることができる。息をつく暇もないほどの目まぐるしさに両親への危懼はいつのまにか薄れていた。それ以上に覚えなくてはならないこと、しなければならないことががありすぎたのだ。剣術道場に通うようになったのは松陽に村医は体力大事であると勧められたからであった。道場の師範代は松陽の幼馴染で、穏やかな風貌の松陽とは異なり、熊のような恰幅のよい豪快な男だった。銀時に剣術の才能を見い出すと、他の塾生が気の毒に思うほど格別に可愛がった。
 銀時はこの忙殺された日常に不満はなかった。不満を感じる暇も無かったと言っていいかもしれない。それに、銀時以上に松陽や古参の弟子、女中は忙しかった。銀時が床についてもまだ起きて作業をしていた。銀時は松陽の下で学び働くうちに様々なことを学んだ。剣術は才があったのか忽ち上達し愉しくなったし、学問を学んだことにより世の関わり方や時勢の捉え方、物事の考え方を学んだ。何人もの患者の死とも向き合い、医学が万能ではないことも知った。
 
 両親の訃報は、銀時が松下診療所の生活に漸く慣れてきた頃に運ばれてきた。
 阿知須にある井関川の河川敷に松陽を伴い銀時が向かったのは訃報の知らせを受けたその日の正午である。松陽は弟子に事細かに問診や診察の手順を伝えると、旅支度を整えた。どこかで覚悟していたとはいえ大きな衝撃を受けていた。現実味のない不可解な思いが胸中を駆け巡っては、もしかして死体は両親ではなく、人違いであるのではないかという僅かな期待が度々去来した。だが、銀時が認めた書簡の返事は一向に両親からこなかったことからも可能性は低いといえた。銀時の両親は村の首長の遠い親戚でもあったので、鋳銭司村で一揆を起こしたとすれば、責任を科せられ懲罰を受ける可能性はおおいにあり得た。そうなれば死罪は免れないであろう。何より、両親が銀時を遠ざけたことが事態を物語っている。銀時が両親を思い出すときに浮かぶ風景は水田に稲を植える姿であった。汗を拭い一心に植えていく両親の横顔を見て銀時は育った。両親の顔を思い浮かべると、訃報はやはり何かの間違えであるような気がしてならなかった。
 道すがら銀時は暗澹たる気持ちを抱えていた。松下診療所の患者の死も悲しかったが、それとは全く違う今まで感じたことのない寂寥感に苛まれた。松陽は銀時に特別慰めるようなことを口にしなかった。その斟酌が何よりもありがたかった。
 萩城下の松本村から阿知須までは凡そ十五里の距離である。山間を縫うようにして歩き、幾つかの峠道も越えねばならない。途中、麓のとある村の宿場に立ち寄って一泊し辿り着いたのは翌日の午であった。周防灘に面している阿知須は回船業の発達した港町だった。江戸や大坂への物資の輸送基地であり、米や雑穀の輸送や赤間で仕入れた米を広島で売り、綿を買い入れるなどの売買が盛んで商人の多い栄えた土地である。家屋は密集し、井関川沿いの地区は頑丈な塀で覆われた居蔵造の家が並立している。銀時は気圧された。松下診療所の団子岩の丘からは武士の住まう城下町が見下ろせるが、松下診療所は山の南の麓の木々に囲まれた静かな場所にある。生まれ育った鋳銭司村も長閑な田園地帯であった。港街は随分と違う。
「この先ですよ」
 町家の外れた河川敷にきて銀時は立ち竦んだ。筵が並べられ、不自然なかたちに盛り上がっていた。銀時の喉には吐き気のようなものがこみ上げてくる。心臓が早鐘を打ち、夢の中のように足取りがもたついた。北東の風が吹いている。逃れたい気持ちが切羽詰まって迫上がり、下半身が震えた。松陽は川原を下った。
 筵の一つに取り縋って嗚咽している女がいる。女の胸には赤子が不思議そうな顔をしていた。手を合わせ読経している男もいる。銀時は怖気づいていた。
 松陽が筵をめくり、銀時を呼ぶ。銀時は自分を叱咤し、夢遊の足取りで近づいた。
 父親の死骸を眼にした瞬間、戦慄した。嗚咽を漏らし思わず眼を背けようとした銀時に、日頃温厚な松陽が珍しく儼たる口調で「見なさい」と強いた。刀で斬られたのだろう遺体は身体を横向きに頭から一刀両断されていた。銀時はこみ上げる吐気を抑えながら父親の露出している体内に目を向けた。松陽は父親の損傷した臓器、一つ一つに指先を向けて、繰り返し臓器の名を諳んじた。
「銀時、見ておきなさい。君が生きる上で必要な基礎となるはずだ。覚えなさい。人間の身体の構造を知らなければ医学は進歩しません」
 銀時は気が遠くなりそうになりながらも、二本の足で朦朧と大地を踏みしめていた。集る蠅を払いながらも松陽は銀時に山脇東洋の「蔵志」や杉田玄白の「解体新書」に載っていた臓器の仕組みを説明する。銀時は父親の死顔を見ないよう努めた。両親が拓いてくれた道を進むための苦行であった。
 松陽の療養所に帰った銀時は熱を出し三日間寝込んだ。四日後の夕七つ、漸く上半身を起こした銀時に粥を持ってきたのは孝益の家から帰る途中にすれ違った少女だった。気になっていたが、一向に姿を見なかったため、再び会うことを諦めていた少女であった。勝気な瞳を瞬いて銀時を瞶めると、湯呑を渡し、
「お粥は食べれる?」
 と訊いた。
「うん」
 返事はしたが、起き抜けで空腹なのかそうでないのかよく分からなかった。突然のことで驚いた反射で返事をしていた。身体は倦怠く、熱かった。心は平生だったが、やはり頭があまり働いていないせいかもしれない。だが、銀時は少女の後ろ姿を眺めて、気持ちが凪ぐのを感じていた。傍にいて欲しいと思った。
 少女は直ぐに戻ってきた。銀時は、熱っぽい瞼で少女にをじいっと瞶めていた。少女は小ぶりの土鍋を銀時の枕元に置くと、そのまま座っていた。しばらく二人はそのままでいた。
 少女は膝を抱えたまま、ずっと銀時の傍にいてくれた。