松下村診療所に入所を必要とする患者はこのところ増加の一途を辿っていた。主な原因は食糧難である。天保の飢饉は防長だけではなく、日本全国に及んでいた。天保元年以降から毎年のように風雨洪水、干ばつ、蝗害等による凶作に見舞われ、重税に苦しめられた人々の鬱憤が一気に爆発し百姓一揆や打ち毀しが各地で頻発した時世である。銀時の両親もこの生命を賭けた暴動の渦の中で命を散らした。銀時の生まれ育った鋳銭司村も貧しさに喘いだ村だったが、両親の遺体が安置されていた阿知須町も放火の後や打ち毀しの傷跡が生々しく残っていた。銀時が気がつかなかっただけである。銀時は松陽のもとで学ぶうちにそういった事情を追々知っていったのだった。銀時は無知であった。銀時に成る丈不自由させないと気張っていた両親の愛情を知り、感謝と寂寞を感じるのであった。
 あの頃、村田蔵六が銀時に冷たい視線を向け「お前は何も分かってない」と侮蔑を含み云ってきたことがあった。それが今になって羞恥として思い起こされるのだ。銀時は恵まれた農家に育った。村の子供たちは皆、小枝のような手足に、眼は落ち窪み、頬骨が目立っていた。銀時は幸運であったのだ。
 松陽に従って、萩の周辺の寒村に往診に出ると目を覆いたくなるような惨状がどの村にもあった。年寄りや子供は痩せこけて死に、峠を超えるとたくさんの人が行き倒れていた。河原には死体が打ち捨てられて、間引きも横行し、病人は荒んだ眼を投げやりに落としていた。
 碁盤ヶ嶽と唐人山に挟まれた小さな集落では筵までも粉状にして食していた。銀時は若い女房の触診をしたが、女は力無く項垂れ「医者ってのは病を治すんだろ、原因ははっきりしてるじゃないか。病に罹ってからではなく、罹らないように税を軽くしてくれよ」と恨み事を云われた。
 土色の顔をしたこの女房に、藩主毛利斉広が将軍徳川家斉の娘和姫を娶り、外様大名の立場上、必要以上に盛大な華燭の典を挙げ、膨大な数の祝賀の贈答を贈ったことを知ったら発狂しかねない気がした。そして、和姫が輿入れ半年後に逝去し、盛大な結婚式に次いで盛大な葬式を営み多大な出費が出たことを知ったら―――――――――――
 乾いた咳をする女に薬を渡すと、女は受け取ったものの、その薬を夜着の脇に放り投げてから一言も言葉を発さず横になった。
 かよい療治から戻ると、銀時は松陽を手伝って救荒書の刊行化を急いでいた。四年の飢饉で餓死者を一人も出していないという米沢藩の評判を聞きつけ、松陽が門人の一人を出羽国の米沢藩に向かわせたのだ。門人は「かてもの」という手引書を写して持ち帰ってきた。これは寛政期に米沢藩の重臣莅戸善政が執筆した飢饉の手引き書である。かてものはその名称の通り、飢饉時に代用食となる糧物が解説された書で、救荒作物がいろは順に特徴と調理法について解説されている。餓死者は実際のところ、栄養失調よりも食糧不足状態で普段は食用しないものを口にした結果による中毒死が多かった。
 松陽はこの書を参考に、長州藩内で手に入る草木果実を調べ上げ、また、乾燥させて日持ちをさせることのできる穀物がないか各地に門人を送り調査させた。急いで執筆した書であったが、何とか容になったのは四月の下旬だった。
 疫病の流行もあり、二月に入ったあたりから松下村診療所は目が回るほどの忙しさであった。銀時は道場に通うことを暫く止め、診療所での仕事に専念しようとしたが、松陽はよしとしなかった。医者たちは毎日、寝不足の眼を瞬いていた。トシも毎日のように手伝いに来て少しでも暇があると、西洋の書物を手にとっては熱心に読み耽っていた。ある日ふと気がつくと、トシは産科を担当している医師に蹤いて患者の部屋を回るようになっていた。
「トシは将来、女医になれるかもしれませんね。腕がいいと、産科の水原先生が褒めていましたよ」トシは松陽に褒められると嬉しそうに、にっこりと微笑んだ。「お母上の具合が快くなったら加賀流を学びに遊学するのもありかもしれません」
 銀時は何故か焦った気持ちになった。
「でも、先生、水原先生の鉄製鉗子の技術はたいしたものですよ。わざわざ、そんな………」
 松陽は狼狽える銀時にこっそりと笑うと、トシに何やら耳打ちをする。トシはより一層、嬉しそうな顔をした。

 肌に湿気がまとわりつく季節になると入所患者の容体はようやく落ち着いてきたようだった。曇天の空はいまにも落ちてきそうなほど灰色の雲が敷きつめられていて憂鬱にさせる。小雨だった昨日の雨は今日になって勢いを強くした。ここ数年、未曾有の異常気象が続いていた。五月上旬に雹が降り、四月から空が晴れ間を覗かせたのは数える日数ほどしかない。常時、細い雨が降っている有様だった。気候も不順である。夏になっても肌寒く、地方によっては大暴風雨で土砂崩れや洪水の恐怖に曝されていた。
「まずいな」
 呟いたのは下男の松吉である。濡れた身体を三和土で拭いながら小さい眼を不安そうにしょぼつかせていた。この雨の影響で溜まり場には診察を待つ患者は二、三人しかいない。銀時は雨の様子を見に出てきたところだった。
「なにが?」
 訊くと、トシが診療所の方から出てきた。手には湯の入った桶を抱えていた。
「この雨だ、おそらく洪水になる。ここはまだ免れるだろうが、城下は持ちこたえられん。あそこは沼や湿地を埋め立てているから地盤が脆い。しかもここんとこ雨が続いているからますますいかん。この雨は長く強く降る。先生に知らせて、城下の連中を避難させたほうがいい」
 銀時はトシと眼を合せ、頷き合った。
「俺、言ってくる。トシは薬園の連中に知らせてくれ」
「分かった」
 トシは足早に外に駆けていく。銀時は溜まり場を抜けて、松陽の診察室の戸を叩いた。中からくぐもった返事があり、這入ると、銀時は松陽を見て息を呑んだ。
「先生!」
 胸を抱えるようにして、松陽は蹲っていた。身体に触れると、尋常でない程の熱さである。鈍く顔をあげた松陽は茫洋とした表情で「銀時」と呟いた。顔は青ざめ、透けてしまいそうだった。
「先生、大丈夫か!」
「大丈夫ですよ」
 口元を押さえている腕を掴むと、混乱を抑えるために深呼吸した。松陽はそんな銀時の様子をなぜか眩しそうに目を細めて瞶めた。
「先生、とりあえず横になろう。吉村先生呼んでくるから」
 部屋を出ようとする時、背後で松陽の咳を聞き、松陽がよく乾いた咳をしていたことを思い出した。癖のようなものです、と笑っていたが、本当は、善くない病気だったのではないだろうか―――――――――。 銀時は顔を歪ませて、駆けた。松陽はたくさんの病人の命を救ってきた、善行しかしてない先生が死ぬような病気になるわけがないのだ。張り裂けそうな胸に、必死に言い聞かせた。銀時は人一倍、死に対して敏感であった。それはこの男の天性の勘である。病人の死を何人も見送った銀時は、己の予感が的中する恐怖を感じていた。
 雨はますます強くなったようだった。薬園の園夫達が全身ずぶ濡れで帰ってきた。竹細工の背負いかごには十分に成長していない薬草が溢れんばかりに詰められている。身体を拭いていたトシは、銀時が慌てて番医の詰める部屋に駈けていくのを不思議そうな顔で見送っていた。