蘭方医学を鳴滝塾で学んだ萩藩出身の吉村良善は、穏やかな風貌だが、眼光だけは野性染みて鋭い男である。
「先生、だから無理をするなとあれほど言っておいたのに」
 溜息をこぼしながらも、松陽に対する敬意が含まれた口調であった。照れたように松陽は良善にお手数かけましたと謝ると、顔色の優れないままに銀時に訊いた。
「ところで、私に何か用だったのではないですか?」
 銀時は病名が訊きたかった。松陽の身体がどうであったのかが知りたかったが、取り返しのつかない病だと思うと怖かった。松陽は出会った頃から痩身である。顔色もそこまで血色がいい訳ではなかったので気がつかなかったが、よく見ると、窶れている。ここのところの忙しさは異常だったにせよ、身体の線が細くなりすぎていた。
「松吉がこの雨で城下の町が洪水になるだろうって……」
「もっと早く言いなさい!」
 瞬間、激昂した松陽が慌てて立ち上がろうとするのを、良善が慌てて制した。銀時は少し安堵する。
「先生、駄目です。ここは他の者でしますから。丈夫な身体ではないのです。私が指示を」
「そうだよ、先生。そんな顔色で……」
 松陽は一瞬、思い悩んだようであったが、やはり体調が思わしくないのであろう。険しい表情で頭を軽く下げた。
「では、お願いします。一刻も早く伝えてください。城下は川に挟まれています。洪水にでもなれば、たくさんの人の命が失われます」
「先生はくれぐれも寝ているよう、頼みますぞ」
 良善は釘を刺し、銀時に診療所内の男衆を溜まり場に集めるよう云いつけた。銀時は不安の拭うように飛び出していった。
 下働きや農夫、近隣の男や町医などに声をかけると、三十数人程が集まった。溜まり場は若い壮健な男達が市井の地図を囲み、誰それがどこの通りを廻るかを検討していた。中心に立ったのは良善や松下村診療所の医師たちである。往診や薬問屋での仕入れにより萩市内に精通していた。
「くれぐれも河川の近くの家から声をかけてくれ。市井の人々にも協力を仰ぎ、なるべく川から遠ざかったところに避難するよう呼びかけること。子供や老人は診療所に避難するよう、ここは解放する。いいな、危なくなったら逃げろよ。水位にはくれぐれも気をつけろ」
 男たちは豪雨の中を駆けた。雨は身体を激しく叩き、息もできぬほどだった。前へ進もうにも風に煽られて思うように走れない。傘も提灯も飛ばされそうだった。力いっぱい叫んでもごうごうと唸りを上げる風が声を吹き飛ばした。急に着物を引っ張られた。何かと思い振り向くと、人が立っていた。目を凝らしてよくみると、トシが強風に目を細めているのだった。銀時は仰天し、
「何してんだ! 戻れ!」
 怒鳴ると、トシの眼がキッと銀時を睨んだ。
「一緒に行く! 一人でも多い方がいいでしょ!」
 トシも怒鳴り返す。怒鳴るか、耳元で喋るかしなければ忽ち声は風雨に掻き消されてしまうのだった。
「だめだ、ばか! 戻れ!」
「いやだ、ばか! 戻らない!!」
 風に煽られて立ち止っていられない。銀時は、トシを睨み据え、「知るか!」と叫び、細い手を握った。「絶対離れるなよ!」と叫ぶと、掌をきつく握り返された。
 松本川は増水し、穏やかな川の面影はなく、全てを飲み込まんとする勢いであった。荒れ狂う暴雨に立ち向かい、松本橋を渡り切り、振り返ると、川の水位は橋の床板の僅か下まで迫っていた。恐怖が込み上げ、トシだけでも戻した方がよくないだろうかと思案したが、トシは銀時を引っ張るようにして「早く!」と叫んだ。銀時は「くそっ」と怒鳴ると、川沿いの屋敷の戸を叩き避難するよう叫び回った。事情を説明し、早く逃げるよう促しても家財道具を運び出そうとする者が多く、そんなものは捨て置いて逃げろと叫んでも聞かない。御託を並べる者に銀時は歯噛みをする。
 着の身着の儘逃げ出そうとする人は驚くほどに少なかった。協力を要請しても自分達のことだけで手一杯であるという返答である。銀時は憤慨しながらも、自分の担当とする地区に注意喚起を叫び続けた。前方の灯りが見え隠れしながら近づいてきたのは漸く全ての屋敷を回り終えたころである。
「銀時、橋が崩れる、急げ!」
 診療所の近隣に住む顔見知りの男であった。声が暴風に浚われて、途切れ途切れにしか聞こえない。
「まだ、全員避難できていない!」
「だめだ! もう渡らないと間に合わない!!」
「もう一度、引き返す! トシを頼む!」
「なんでトシが!? だめだ! 引き返そう、銀時!」
 トシを強引に男に預け、踵を返そうとすると襟首を掴まれた。勢いもあり、転倒する。振り返ると、トシが濡れた顔で睨み据えていた。
「銀時、絶対に離れるなって言った!」
 睨んでいたが、いつも強気な瞳は泣き出しそうに歪んでいた。
「銀時、戻ろう。医者は一人でも多く必要だ」
 男は銀時の耳元でを諭すように云った。一度、走り回ってきた屋敷の方に視線をやり、銀時は苦い顔で頷いた。トシの掌を再び握りしめる。ぐっと力をこめて握り返してきたトシの手は、微茫に震えていた。
 三人は固まって走った。橋は、灯りが揺れていた。提灯を持った男たちが、人々を誘導しているのだ。殺到した人々が我先にと駈けていく。人の波に押されて転倒した老婆に、銀時と共に走ってきた男は肩を貸して「先に行け!」と銀時に怒鳴った。銀時はトシだけでも橋の向こうにやって、また戻ってくると叫び、駆けた。トシの腕を自分の腕と絡め、人の濁流に足元をとられないように必死だった。圧迫され、蹴られ、悲鳴の渦の中を必至に向こう岸へと急いだ。
 一際激しい絶叫が聞こえたのは橋の半分を過ぎたところを渡っている時であった。人の壁で何が起きたのか分からなかったが、急に脚を取られた。一瞬の出来事であった。身体が引っ張られ、慌ててトシを抱きしめ眼に飛び込んできた欄干に捕まった。傍を急いでいた人々は、絶叫し、手を伸ばす暇も無く、激流に呑み込まれていった。
「トシ、俺にしがみつけ! 絶対に離すな!」
 銀時は濁流に耐え、両手で欄干を掴み、腕の力を振り絞り、欄干の上に身体を持ち上げた。さっきまで橋を渡っていた人々は誰もいなくなっていた。水位は橋の床板を超え、欄干をも呑み込もうとしている。銀時は、今にも崩壊しようとしている一尺少ししか無い欄干の幅に立ち上がると、トシに「走ろう」と声をかけた。トシは顔色を失ってはいたが、しっかりと頷いた。しかし、走るのは不可能であった。暴風に煽られていたし、視界も悪く、濡れて滑る不安定な足場では一歩一歩足を踏みしめ歩くことしかできなかった。二人は少しずつ渡った。銀時はトシが倒れぬよう、注意深く、水位とトシの足元を睨んでいた。水位は欄干の少し下まで迫っていた。岸まではあと少しの距離だというのに、途方もなく遠く感じる。普段なら十歩程で辿り着く距離である。
 トシの細い足首が不安定に揺れるたびに銀時は肝を冷やした。 「トシ、前を見ろ! もう少しだ! 大丈夫だぞ!」
 叫び励ましながらも、冷汗が止まらなかった。唸る濁流は足元に迫っていた。二人はすり足で平衡を取りながら進んだ。岸で誘導の男たちが口々に叫ぶ声は聞こえたが、何を叫んでいるのか聞き取ることはできなかった。いつの間にか強風の音も、荒れ狂う濁流の音も耳から遠ざかっていた。トシの足元だけを瞶めていた。トシだけは何があっても助ける、とそれだけしか頭になかった。
 トシの足元が消え、銀時の身体も引きずられた。
 渡り切ったのだ。
 岸にいた男衆に引っ張られ、背負われていた。振り向くと、橋は濁流に呑み込まれ、岸に迫っている。銀時は誰かもわからぬ男の背中で眼を閉じた。身体の芯が鉛のように重かった。脱力感が全身を襲っていた。胸の鼓動だけが銀時に生きている実感を知らせていた。

 松下診療所に戻ると、疲れた身体を休ませる暇はなかった。半ば放心していても、身体は動いた。溜まり場には多くの負傷者が呻き、嗚咽が聞こえた。トシの手を引き、自室に入ると、着物を着換え、鼠色の半纏を羽織った。自分が着るには小さくなった着物をトシに渡し「着換えろよ」と云うと、トシはこくんと頷いて、銀時の着物を抱いて出て行った。
 第一診療室には、吉村医師と水原医師が負傷者の診察を手分けして行っていた。吉村は銀時に気がつくと「第四に回ってくれ」と声をかけた。
 第四診療室では松陽が怪我人の治療に当たっていた。銀時は松陽の身体に懸念を抱いたが、そんな事を云ってもいられなかった。板戸や人の背中に背負われてくる怪我人は引っ切り無しにやってきて、人手はいくらあっても足りないのだ。銀時は怪我人の治療を始めると、忙しさの渦に呑まれていった。何も考えられない心境であったから、するべきことだけをこなせばいいという状況は、銀時の精神的に丁度良かった。怪我人を前にすると、身体は嘘のように動いた。大暴風雨は診療所の外で、夜通し絶え間なく続いていた。
 天保七年の申歳の大水は、城下町萩の大半の家屋が水没し、溺死者二百人にも上る死者が出た。多くの窮民が生じて、翌日の雲一つない快晴の空は疲労困憊した人々を嘲笑うかのようであった。町では暫く読経が聞こえぬ日はなかった。打ち揚げられた遺体は処刑場の裏手の穴に投げ込まれ、異様な空気が萩の城下街に流れていた。
 銀時は徹夜明けの眼をしょぼつかせながら、ようやく一区切りついて自室に戻ってきた。太陽が真上に昇る時刻であった。
「銀時」と、トシの声が襖越しに聞こえた。消沈した声色だった。「銀時、ごめん」
「トシも寝ずに働いたのか?」
「うん」
「疲れたな」
「うん」
 銀時は襖に視線を向けて、笑った。銀時の胸に溢れたのは安堵である。トシを護れてよかった。トシが無事でよかった。銀時は昨夜に抱いたトシの身体の感触を思い起こしては気恥ずかしく赤面し、やはりまた、安堵するのであった。
「トシがいたから、死なずにすんだ。ありがとうな」
 トシの嗚咽が襖越しに聞こえた。銀時は仰向けになり、穏やかな表情で眼を閉じた。