里桜の開花は冷害で遅れ、七月中旬に漸く満開を迎えた。やっと咲いた花弁も心なしか消沈しているようで、隙間が目立ち、色艶も落ちているようであった。今年も冷夏である。日中に陽が照っていれば必要はないが、陽脚が落ちると綿入れを着て過ごさね寒くてたまらない。先の大暴風雨の襲来で田畑は冠水し、作物は育たない。飢饉は容赦なく続いていた。更に追い打ちをかけるように天然痘患者が出始め、町は不気味なほど静まりかえっている。花を楽しむ余裕は誰の心にも無かった。
 銀時は中庭に降りて、診療所とは中庭で隔てられている安普請の本錬造の建物を睨み据えた。視線を落とし、そこから一歩も近づけない自分の不甲斐なさに奥歯を噛み締め合掌する。松下村診療所の隔離病棟では天然痘患者達が呻き身悶えしながら死を待っていた。天然痘は死病である。治す術はなく、感染する病だった。医者も不用意に近づくことができずにいる。
 病縟に臥している松陽の容態も横這いである。付近に点在する集落への通い療治ができなくなったので、銀時は吉村医師と共にするようになった。
 背中に柳行李を背負い、歩きなれた山道をゆきながら銀時は己の無力さを痛感していた。己だけではなく、医術の不完全さ、病の奥行きに医術が到底太刀打ちできていない無情さに暗い気持ちを感じていた。学問を学び、医学を識るにつれ、人間の脆さを識るのだった。助けられない命が余りにも多すぎた。
 急勾配に差し掛かった時、吉村に一休みしようと声を掛けられ、腰を落とした。晴天を忘れてしまいそうな曇り空のせいで、薄暗い山道の空気は湿気を含み不快だった。
 地蔵の脇に大きな岩が転がっており、岩は腰掛けるのに丁度よかった。岩の平の部分に乗り上がり、軽く足を揉む。峠を二つ超えていたので、結構な距離を歩いてきた。
「人痘法って識ってるか?」
 吉村に話しかけられ、銀時は首を傾げる。口数の少ない男であるが故に、二人は通い療治の間、あまり言葉を交わしてこなかった。
「天然痘は一度罹ると、再罹患しないことは識ってるな」
 銀時は頷いた。
「ああ、それは識ってる」
「人痘法とは、健康人に天然痘の痘漿や痘痂を接種し、軽度の天然痘に罹らせ免疫を得ようという方法だ」
 吉村は無表情に云った。銀時は驚きを感じていた。俄かには信じられないと思っても、確かに天然痘に罹り、治癒した者が再び罹った例を見たことがない。その為、隔離している天然痘患者の世話は、幼少時代に天然痘に罹り奇跡的に快癒した女中の一人が請け負っていた。顔面に醜い痘痕があるが、身体はいたって健康である。
 そんな画期的な予防治療があるのならばなぜ広まらないのか、なぜ吉村が実施しないのかを訊くと、
「人痘法は一定程度、天然痘への免疫に役立った。だが、真正の天然痘に罹患する危険も高いんだ。しかし、発想は決して間違っていないはずだ。俺はいつか、安全な接種が成功すると信じている」
 銀時は意外な気がした。吉村がこういった願望を語るような男だと思っていなかったからだ。寡黙で、己のなすべき事だけを淡々と熟す男だと銀時はずっと解釈していた。将来的天望よりも結果論に重点を置くその頑なな姿勢は堅物であった。吉村は徹底した現実主義者である。治せない病は、治らないと一刀両断した宣告をし、患者がどんなに頼んでも治療を施さなかった。銀時は反感を持ったこともある。だが、死地に向かう患者に一縷の望みでも与えれば絶望もまた深い。早いうちに死への覚悟をさせる方が賢明ともいえる。
「お前が元服する頃には、天然痘の接種が、当たり前の世の中であればいいと思ってる」
「そうしたらもう直ぐだな。あと、五年か」
 銀時が云うと、吉村は表情を緩めた。
「そうだ。―――――――――――銀時、お前はふてぶてしいし、向こう見ずなところがあるが、俺はお前を買っている。将来のお前が楽しみだと先生とよく話すんだ」
「ほんとかよ」
「憎たらしいガキだけどよ、銀時、お前は不思議だよ。重病の患者がな、お前と接すると安らぐと言っていた。身体を病めば、気持ちも病む。なかなか笑えない。だけどお前は、患者の身体は治せなくとも、気持ちの方を治療してやってるんだ。同情するわけでもない、気休めを言うんでもない。それはお前の持って生まれた素質だよ。俺はずっと、病を治すことばかりを、医術を研鑽することばかりに重点を置いてきた。新しい医療技術を齷齪と求めていた。だけどな、最近、治療とは患者の身体だけを治すことばかりでもない気がしているんだ」
「でも、病を治せなきゃどうしようもないだろ。俺は、俺の今できることをやってるだけだ。そんな大層なもんじゃねぇよ」
 吉村は不器用に微笑った。 「銀時、きっとお前は良い医者になるよ。もっと学問を研究し、経験を積め。舶来の医術を学び、一人でも多くの患者の命を救ってやれ。どんなに辛いことがあっても」
 銀時は面映く、憎まれ口を叩いた。だが、吉村は銀時を愛情の籠った眼で見下ろしていた。