銀時は暇を見つけてはトシを人丸神社に誘った。診療所から半刻もかからないそのこじんまりとした神社は、飛鳥時代の歌人柿本人麻呂を祀っていて、小さいながら格式高い。神楽殿には錦絵が飾られている。雨曝しになっていてだいぶ年季は入ってるが、逆にそれが一種の古の風を感じさせた。田床山の裏手にあって、神社そのものは目立たず参道も狭い。暗くなると地の民でも迷いそうだった。神社の脇には赤い塗装で塗られた鳥居に囲まれた参道があって、石畳を駆け上がったその先に、本堂の外にお参りできる小さい祠がある。入り口にはいかにも霊験がありそうな巨大な楠木が生えていた。
 楠木は、今盛りとした葉を揺振っている。銀時とトシは人気がない境内を散策した。
 数年前は桂小太郎や高杉晋助も一緒に歩いたものだったが、今は銀時とトシしかいない。
 世の情勢は動いていた。長州藩でも風向きが変わろうとしていて、昨年には大塩平八郎が熾した江戸幕府に対する反乱の影響で長州にもまたもや大規模な一揆が勃発した。その最中に、新しい藩主、毛利敬親が襲封した。そして今年の五月に敬親に見出され、郷土でありながら村田清風が地江戸仕組掛に抜擢登用され、財政改革に着手しだした。
「近頃、診療所が騒がしいな」
 トシが云った。トシの母の容態は愈悪く、診療所の人手不足もあって最近は連日診療所に詰めていた。幼少の頃から医師の男衆に囲まれて育ったせいか、言葉遣いも男のようだ。
「清風さんが登用されたことが大きいんだろうな。藩は今、身分に関わらず実務に通暁した有司を積極的に登用しているらしいから、今までじりじりしていた中下級の藩士、それから農民までもが活発になってる。松陽先生の教えは必要不可欠なものだからな」
「でも、先生、大丈夫なのかな……」
 一時期よりは安定しているものの、松陽の体調が快癒に向かっているとは誰の目にも見えなかった。銀時は傍目からはらはらして見守るしかない。幾ら止めても松陽は微笑って大丈夫ですといなしてしまうし、診療所は毎日忙しすぎて目が回るほどだ。いつも松陽を看視できるわけではない。時勢が先生を寝かしてはおかないのだ。松陽は十歳の頃から藩校明倫館に出仕し、十一歳の時「武教全書」の講義を行い、藩主を感動させる程の秀才だった。十九歳で独立の師範となり、二十代の中程まで明倫館で教授していた。人材を育てることに関しても松陽は天才的だ。また、松陽は身分の分け隔てなくこれまで以上に塾生を受け入れている。医学の方も、これまでは自ら診察をしていたが、今では自分の持てる全てを銀時たちに授けようとしていた。
「今日も敬親公からの呼び出しで出掛けているし・・・・・・なんか、先生は焦っているようにみえる」
「焦ってる?」
 銀時は口を噤んだ。その先はどうしても言葉にしたくなかった。
「そういえば、桂から文がきた」
 話題を変えるように殊更明るく云うと、トシはへぇと身を乗り出した。それ以上訊かないトシもおそらくは察しているのだろう。
 桂からの書簡には、大阪から江戸に移ったことと、元気で励んでいること、それから、松陽に無理をさせぬようくれぐれもよろしくと認められていた。高杉も桂も一度、萩に戻りたいだろう。松陽の容態が気にならないはずがないのだ。だが、帰ってくれば松陽は彼等を許さない。松陽は時の貴重さを高杉、桂、銀時にずっと説いてきかせた。三人にとって松陽の教えを護る事は絶対的なことだった。
「銀時もさ」トシは桂からの書簡を掌で撫でながら云った。「銀時も遊学、するのか」
「分からねえ」
 楠木の枝が傾いだ。山の匂いが濃厚で銀時は一度大きく空気を吸い込んだ。
 分らないと云いながらも、銀時は松下診療所を離れたいとは思わなかったし、実際、離れる自分が想像できなかった。松陽はもう少し自分の元で学ばせたいと云ったが、具体的に何時までかを提示されてはいない。それに、銀時には高い志があるわけではなかった。ただ、現今のするべきことだけをずっと追ってきただけだった。その性質はこれからもずっと変わらないだろう。何処で学ぶか、よりも、何を学ぶか、にずっと重点を置いてきた。
「でもさ、長崎に行けばより深く蘭方医学を学べるし、銀時は男だ。医者として研鑽を積むにはいろんな場所に行って、いろんな知識を得ることが大事だと思う」
 俯き加減で云うトシの表情はあまり動かなかった。銀時は女というだけで将来が狭まれているトシが口惜しさを感じていることを識っていた。剣術でも医学も幾ら学んでもその先は何処にも行けない。先を見据えても広がるのは萩の景色だけだ。母親の病の事もある。
「今はあんまり考えられねぇよ。先生の病も心配だし」
「でも、吉村先生がいつか云ってた」
「なんて」
「往診で、初めは刺々しかった患者たちが、いつの間にか銀時が来るのを楽しみに待つようになるんだって。自暴自棄になった人たちが、笑顔を見せるようになる。もしかしたらそれが医学の本質かもしれないなって。治療は何時かもっと効果的なものができて、今の術は廃れるかもしれない。でも、そういう本質的なものはずっと褪せることが無いんじゃないかって。吉村先生、最初は融通の効かない人だったのに、最近は変わってきたもんな」
「もしさ、もし、遊学行くにしたって、俺は絶対に萩に戻ってくる」
 トシは寂しげに微笑った。
「俺は、子供の頃から、町医になるのが夢なんだ」
 言葉にしてから気付く。誰かに将来の事を語ったのはこれが初めてだった。