「トシは随分と女らしくなったな」
 通い医師が広縁を足早に通り過ぎたトシを見かけて口にした。
 銀時はトシの母の脈を測りながら、その言葉に僅かに反応する。トシの母はニコリと微笑ったが、青褪めた生気の薄い皮膚と、痩せ細った躯が微笑ったことによりいっそう儚気だった。
「脈が少し弱いな……最近はどうです?」
「診療所のみなさんが親切にしてくれるから、具合はいいのよ」
 最近、トシの母の影はますます薄くなっている。銀時は殊更、平常通りの自分を意識する。こちらが気を抜いたら消えてしまいそうなほど衰弱している。上体を起き上がらせているのも辛いようで、銀時は手早く済ませ、横たわらせた。
 視診を終えて振り返り、通い医師に向かって、
「女のケツばっかり追いかけてないで、仕事しろよ」
 と云い放つと、医師はにんまりと笑って、
「恵津さんは美人だからな、トシも将来えらい別嬪になるぜ」とぬけぬけと云う。
「アンタには女の治療を任せらんねぇな。松陽先生に云って、男患者だけにしてもらうか」
「おいおい」
 恵津は手を口元に宛ててくすくすと笑い声を洩らす。悪態を付いているが、こんな時、傍についていてくれる通い医師の存在があり難かった。
「坂田先生に看てもらうと随分具合がいいのよ」恵津が云う。
 銀時は無理やり微笑んだ。
 松陽先生が手塩にかけた弟子だからと、周囲の人は銀時に善くしてくれている。十八になった銀時を一人前のように扱ってくれている。それがあり難かったが、羞恥を感じるほどの頼りなさも自分自身に感じている。
 このところ銀時の身の内で少しずつ変化が起こっていた。萩にある医療の読み物は網羅してしまっていたし、松陽から伝授された医術はあらかた習得した。漢文や蘭語も一通り会得している。つい先日、人生初の解剖の執刀もした。なのに、と銀時は歯噛みする。何も自分は成せていないのではないか。小手先ばかりが器用になっていくような焦燥感に駆られている。
 相変わらず、大事な人の病の治療法さえ判然としない。松陽もトシの母も、助けたい人の消えゆく命を近くで見ながら何もできない。いくら書物を読んでも、臓腑に詳しくなっても、薬草の知識を得ても、重病の患者には何一つ施すことができないのだ。
「銀時、どうした?」
 声を掛けられて、はっとした。水場で医療機器を洗っている途中、ついつい考え込んでいた。トシは心配そうに「大丈夫か」と銀時の顔を覗きんでくる。
「別になんもねぇよ」
「だって、さっきからぼうっとしてたから」
 トシは訝しげだ。最近、銀時は気がつくと考え事に没頭していることが多い。自分でもそのことに気がついていたから、不味いなとは思っていた。
「それより、トシの受け持ち患者はどうだ?」
 強引に話題をそらすと、トシはちょっと焦れったそうな顔をしたが、諦めたように微笑って、
「うん、産後の経過も良好だし、大丈夫だと思う」
「そうか」
 松下診療所は本道(内科)、外科、婦人科と医師が分担されている。トシは産科の医師の助手として働いているが、最近は患者を任されることも増えてきている。銀時は本道を専門としながらも、外科も担い、産科も人員が足りなければ補助に回っていた。
 銀時は器具の水気を手早く拭き取った。実際、うかうかしている暇などない。患者の容態を確認したら、外診に往かねばならないし、トシが抱えているのは出産時に使用した血に染まった大量の手拭いだ。早々に洗わなければ附着した血液が落なくなってしまう。
 松陽の方針で、外診は主に施療だ。付近の山中にある民家を獣道を通って通わなければならないので、午過ぎには最低でも出かけなくてはならない。しかも、共に通い療治に赴くのは今年の春、松下村診療所の門下に入った見習医員の志村新八という齢八つの子供だ。
 松下村診療所は医師の転移が激しい。塾頭とも云うべき吉村良善も医術の腕の名声が響いて藩医の声がかかり、佐賀藩から乞われて御目見医師に昇進した。元が農家の出身なので大出世である。その他の医師たちも、各地で開業したり、また遊学に励むために旅立ってゆく。更に、数年前の大洪水で命を落とした医師も多く、ついこの前まで寝食を共にした者たちも気がつけば顔触れが変わっていたりする。
 ふと気が付けば、銀時は見習医院に教える立場になっていた。
「じゃあ、俺行くから」
「あ、うん……」
 入所患者の病室に向かおうと、擦れ違ったその時、ちらっと覗いたトシの首筋の白さに思わず目を瞠った。ほっそりした長い頸から項に向かう線の美しさに内心狼狽えた。一瞬の事でありながら、強烈に銀時の瞳に残った。思わず振り返ると、手拭いを洗い始めたトシの裾から覗く足首の括れや、腰から尻にかけての滑らかな線の括れや盛り上がりに今まで感じたことのない感情を覚えた。横顔の睫毛の落とす影や、筋の通った鼻梁に言い知れぬ戸惑いと色香を感じた。
――トシは随分と女らしくなった。
 そう云った通い医師の言葉が鼓膜に蘇ると、銀時は顔が火照るのを感じた。一生懸命に手拭いを洗うトシは銀時に鮮烈な印象を残した。唾を飲み込み、心臓が早鐘を打つ。トシにだけ陽のひかりが注がれているように感じた。
 これまでどうしてトシと普通に接してこれたのか、銀時は判らなくなった。
「銀さん」
 呼ばれて、我に返る。急ぎ振り向くと新八が不思議そうな顔で見上げていた。
「あ、悪い。すぐ行くから」
 慌ただしく足を踏み出すと、「銀時」とトシが呼ぶ。瞬間的に身を震わせて振り向くと、花が綻ぶような微笑みを浮かべるトシがいた。
「気をつけて」
 銀時は堪らなかった。踵を返し、逃げるように離れた。
――トシは随分と女らしくなった。
 少年のような勝気な女だったはずなのに、何時からだ。どうしてだ。銀時の心臓音は相変わらず速かった。一歩間違えていたら、トシを抱きしめてしまいそうだった。銀時はこの時から瞭然とトシが女であることを意識した。