構えを解き、薙刀を持ち替えると侍女は微かに安堵の表情を浮かべた。トシは横目でそれを見たが、何も言わずに手拭いで額に浮いた汗を拭う。鞘に収めると、侍女は喘ぎながらその場に座り込んだ。
「奥さまは疲れ知らずでいらっしゃる」
 声が随分荒い。少し熱心になりすぎたと反省をし、トシは曖昧に笑う。
 嫁ぐ前は剣術道場に通っていた。そこでの稽古はこんな微温湯につかるような代物ではなかった。懐かしむように、薙刀を握る手に視線を向ける。竹刀を握った感触はいつでも鮮明に思い出すことができる。
 道場の汗や埃の匂いに、明り取りから差し込む陽光、足裏が踏みしめる板張りの床の感触は、ひんやりと冷たくて身が引き締まった。今はもうあの場所にトシの居場所はない。懐かしむだけの歳月も過ぎてしまっている。そうっと指を確かめる。何度も肉刺を作っては破れてを繰り返した竹刀胼胝は、未だに固く残っていた。
 あの頃は、毎日を剣術に明け暮れていた。先に待っているものは何もないのにも関わらず、いつか辿り着くと信じた強さを求めていた。
 ふとした時に思い出す女であるという事の理不尽さ、身体の変化、胸が脹らみ、思うように筋肉がつかぬこと、その自然の摂理を恨んでいた。男衆に奇異な目を向けられる度、口惜しさが募った。いくら修行を積んでも誰も認めてはくれなかった。終いには本気で打ち合ってくれる相手もいなくなった。
 トシは、ただの女だった。
 下女が姑が呼んでいることを伝えに来た。薙刀を預けて、屋敷に戻る。
 鏡台の前に座すと、元結を解いた。黒髪が畳に落ち、その音が微かに響く。鏡に映る自分は母であり妻であり女の顔だ。あれほど憧れていた剣豪の面相では無い。今のトシはこの家に縛られている。
 下女に手伝わせて下げ上げに結い直し、櫛を差す。つげの透かし彫りは婚礼から一ヶ月が経った頃、夜店で殿から贈られたものだ。トシは櫛に触れると溜息を零した。
 視線を感じて振り向くと、稚児髷の我が娘が障子から隠れるようにして覗いている。殿に似て、落ち着きがないく、悪戯好きだが愛嬌がある。トシは、心に落ちた憂鬱を呑み込んでこっそり微笑んだ。
「おいで」
 娘は嬉しそうにして、部屋に入ってくる。「母様」礼をしてトシの脇に座る。頬に触れると、好奇心に溢れた瞳が瞬く。小さな唇が一生懸命に動く。
「父様が今度、簪を買ってくれるのです。母様とお揃いの櫛がいいと言ったら、私のはもう少し可愛いのがいいだろうって」
「お前は可愛いからね。私のは少し地味でしょう」
「いいえ。父様は、母様はおきれいだからしっそなものが似合うのだと言っていました」
 トシは、口を噤んだ。年甲斐もなく頬が熱くなるのを感じて、殿に対して恨めしい気持ちになる。殿はトシを前にして容姿を褒めたことが一度もない。閨でも甘言をよこさない。だが、トシを見つめる瞳はいつでも優しい。トシは殿の瞳が未だに直視できないでいた。赤味のあるあの瞳に自分を映し出す事がいたたまれないような気がしている。
 父と母の間にある繋がりを発見した娘の嬉しそうな視線に晒されて、トシは居た堪れなくなるった。
「私はお婆様とお話があるから、そろそろ行きなさい」
「はい。あ……そうでした、兄様が赤本を読んでくださるの」
 娘の後ろ姿を見送って、トシは手鏡を覗く。娘の顔はトシと殿の容貌が半分づつ融合している。紛れもなく、我が子だ。トシと殿には血の繋がりはない。だけど、娘は二人の血を引く。そして、殿を父と呼び、トシを母と呼ぶ。トシには未だにこれを奇妙に思うことがある。子供を思えば胸が熱くなる。幸せにしてやりたいと思う。その気持ちが自分の何処から湧くのか、胸が苦しくなるようなこの気持ちはどうやって逃せばいいのか。子に対する愛情を正面から受け止めて、不器用に心を乱すことがある。
 トシはずっと男になりたかった。誰にも負けたくなかった。歩みたかった道は、婚礼を結んでから瘡蓋みたいにぼろぼろと剥がれていった。今でも剥がれ続けている。だが、あの頃に戻りたいかと問われれば、それはそれで躊躇する。良人があり、子があり、家族がある。今のトシにはあの頃よりも抱えるものが多くある。
 トシが身篭った時、殿は不思議そうな顔で赤子の篭っている膨らんだ腹を眺めていた。嫡男が産まれた時も、その胸に小さき赤子を抱きながら、あやしながら、眩しそうに物珍しそうに見つめていた。殿もトシ同樣、実の父母を知らない。自分の子供ができたという事実に戸惑ったのだろうか。赤子の小さな手に恐る恐る触れて、泣き声にいちいち驚いていた表情は鮮明に思い出せる。
 殿は、武家の跡取として育てられ、幸せなのだろうか――――――――――――
 坂田家に嫁いで礼儀作法から武士の妻としてのあり方、奥での役目を叩き込まれた。姑の教育は厳しかった。これまでとの生活の相違にトシは自分の尊厳を傷つけられたと思うこともままあった。立ち居振る舞いや教養、奥での仕事。姑から呆れ顔を向けられるたびに、トシは逃げ出したかった。こんな世界は嫌だと全て投げ出して逐電してしまいたくなった。だが、捨てられていたトシを拾って育ててくれた育ての父母には迷惑はかけられない。彼らはトシの幸せを願ってくれた。旗本の妻になることがトシの幸せだと彼らは思っていた。
 武士の妻は子を成し育てて、お家を継がせるためだけにいるのだと、嫁いで知った。駕籠の中の鳥だ、と悲観した。
 望まぬ婚礼であった。鬱屈していたある日の夜、あれは婚礼から半月ばかり経った日。殿は、どこで手に入れてきたのか、古着屋の店頭に並べられているような粗末な木綿の着物にトシを着替えさせて、月が高く浮かぶ刻に町に連れ出した。この頃、トシは殿とあまり会話を交わしていなかった。初夜で貫通された違和感がそのまま、殿への違和感になっていた。連れてこられたのは縁日で、殿は大道芸に足を止めては冷やかしたり、細工飴師に足が五本で下駄を履いている龍を作れなどと焚きつけては楽しそうに笑った。その振る舞いは町人のようにざっくばらんで、気安かった。江戸っ子と引けを取らない口喧嘩をしてはトシを驚かせた。遊び疲れて、神社の階段に腰をかけ、殿は飴を旨そうに舐めていた。
 翌日、殿は姑に大目玉を喰らっていた。だが、城へお勤めの前に顔を合わせると楽しそうに笑って「また行くか」と懲りずにトシに呟いた。
 
 姑は数奇屋に居た。トシが入ると、沓形の、点茶の茶碗をトシの前に置いた。トシはそれを口元に運ぶ。数奇屋は狭く簡素な作りで、床の上には竹尺八花入。姑が活けた一輪の花が空間に彩りを与えている。トシはいつものように姑を前にして丹田に力を込めた。
「お子は、二人でございますな」
 唐突に姑は云って、トシに目を向ける。切れ長の鋭い眼に当てられて、トシは何を言われるのかと思案した。姑の声は空気すらも貫くほどに鋭い。
「おなごの勤めは家を守ること。あなたの勤めはこの坂田家を継ぐ子を作ることです。何度も言って聞かせましたから、あなたも分かっていることでしょう」
 姑は断言する。そう言い切る強さは何者をも寄せ付けない固くなさがあった。トシはどうしても姑のこの岩壁のように固定された観念が理解できなかった。トシがお武家の血を引かない者だからかもしれない。
 トシは人の勤めはもっと広いところにあるものだと思っている。だが、それを口にするのは愚なることだともわかっていた。武家にトシの思う生き方は通じない。姑のことを嫌ってはいない。彼女の凛とした物腰は時に感嘆する事もある。彼女の夫は五年前に泉下している。実の子は六人産んで、全員二本足で歩かぬうちに死んでしまった。姑の父親は上役の陰謀によって、彼女の髪おろしの前に自害している。苦労して生きてきた人なのだ。何かに追われるように毎日気を張っている様子は、気の毒に思うほどでもある。父や子に対する己の誓いなのかもしれない。
「嫡子が一人では、心元ありませぬ。側室が必要だとは思いませぬか」
 トシは一瞬理解が遅れた。手繰り寄せるように姑の言葉を頭の中で復唱して、愕然とした。
「側室………」
「二人目の出産から二年が経っていますよ。あなた、分かっているのです?」
 まるで尋問されているようだった。トシは耳まで赤くして俯く。下の子が生まれてからも閨は怠っていない。殿はいつもトシの膣の奥に射精しているから、二年も空くのは確かに不穏だった。姑は一昨日、縁者の祝事に出かけた。トシと同い年だが、トシよりも二年遅く嫁いだ娘が四人目の男児を出産したらしい。常常、心中で思案していた事をここにきて決めたのだろう。トシと殿の子供は、天然痘にも麻疹にも罹らなかった。極めて健康で、毎日元気に武芸に勤しんでいる。トシはこの二人が泉下する可能性など微塵も考えた事がなかった。
 だが、トシの思いや考えは武家では通らない。坂田家は由緒正しい武官で、自分は何の間違えか、そこに入り込んでしまったのだ。拾われたのが、坂田家と繋がりの深い武家だったのが原因か、それとも、子に恵まれなかった家に拾い上げられたのが原因か。
 息子と娘の笑い声が風に乗って聞こえた。トシは姑に肯定の返事をしなければと、声が震えぬように努力した。