妻の役目は、まずもてもって武門繁栄の大黒柱となること。
 娘が拭い板に書く歪な「いろはにほへと」を眺めながら、トシはぼんやりと姑に受けた訓示を頭に浮かべていた。先日、側室を迎えるようにと言われてから、気持ちが漫ろになっていることに気がついている。こうやって武家の妻としての心構えと叩き込まれたことを思い起こしては、自分の気持ちをそこに嵌めこもうとしていた。どうにも収まりが悪いのである。
「あっ」と娘が小さく声を上げた。墨汁をこぼれてしまったらしい。トシは新しい拭い板に換えてやった。筆を握る手が覚束ない娘は、それでも一心に筆を滑らせる。この娘もいずれどこかのお家に嫁ぐ。そうすれば、他家に染まり、もう坂田家の者ではない。庭を隔てて、息子の史書を素読する声が聞こえてきている。殿の声の後に息子が続く。六歳まで息子の教育はトシの役目だった。今は、殿の下で学問や武術を励んでいる。息子は嫡子だから家を継ぐが、娘は他家に嫁がせる。女は、嫡子が無く婿をとる場合以外は、この世の常として家を追い出される。これが、トシにはどうにも不条理な気がしている。長男と次男、三男の関係も同様だ。長男は世継ぎだが、次男三男は家に残れば冷や飯食いである。生まれが全てか。生まれる場所は自分では選べぬ。性別も自分自身で采配しかねる。
 殿に躰を抱かれた時、トシは初めて自分の女心に気がついた。どうにもならない采配を受け入れた。何も自分が男であると思っていたわけではなかったが、女というのは総じて弱い印象でしかなかった。トシは強くありたかった。自分が女であるというのを日頃失念していたといったほうが正しいだろう。
 トシは殿に解かされていった。
 殿は不可思議な男だ。お役目はきちんとこなしているらしいが、余計なことまで首を突っ込む癖があるという。上役の従者が可笑しそうに当家の徒士に話しているのを小耳に挟んだことが幾度かあった。トシはたまに、殿はこの暮らしが窮屈なのではないかと思うことがある。型に嵌る身分というのはどうも殿には不釣り合いな気がした。思えばトシは殿の真の気持ちを今まで聞いたことがなかった。殿が自分をどう思っているかも直接聞いたことはない。さり気ない気遣いや向けられる情を察して推測しているだけにすぎない。
 トシは婚礼の日の夜を思い出していた。新枕の時、トシは頑なだった。身体は開いても決して心は開かぬと、固く決意していた。睨むように見据え、殿を苦笑させた。殿はトシを抱き寄せて「豪儀な妻だ」と囁いた。その時、トシは殿の厚い胸板を肌で触れた。触れた感触にトシは瞠目した。しなやかで強壮な殿の肢体はトシの理想とする身体そのものだったのだ。トシがずっと願ってやまなかったものが目の前にあった。トシは自分の決意が急速に萎むの抑えることができなかった。届かないの事を認めることは辛かったし、切なくもなった。己の身体の華奢を痛感した。だが、それは自分より幾分も優れた剣客と出会い、素直に己の負を認められるような一種の清々しさもあった。肩の力が抜けると、トシは殿の背中に腕を回した。耳元で「手合わせすればさぞかし面白かろう」と囁かれ、目頭が熱くなった。殿の首筋に頬を寄せて、愛撫を受け入れた。帯を解かれ、身体を明け渡し律動に合わせた。胸に触れられるのも、満紅を貫かれるのも初めてだったが、ひどく優しく扱われているのは解った。精液を膣で受け止めた時、この人の妻になるのだと実感した。仇敵のように思っていたが、終わってみればなんてことなかった。トシは何も奪われはしなかった。情交が過ぎ、行灯のほのかな灯りに照らされて、殿の心臓に耳を欹てていた。肌の匂いはいつの間にか溶け合って、お香の香りだけが外界との境界線だと、取り留めのない事を考えては霧散させた。トシの乳房は殿の腹に、殿の性器はトシの内腿に触れていた。先程までの男の硬さは鳴りを潜め、その変化が物珍しかった。腰から尻に向かい殿の手が伸びていた。
「母様」
 娘の声にトシは追思を払った。鈴を張ったような瞳でトシに眼差しを向けていた。娘の筆は未熟だが、始めた頃よりも数段上達している。この頃の成長には目に見張るものがあると老女も賞賛していた。殿も娘が目に入れても痛くないほど可愛いらしく溺愛している。娘の不意に見せるあどけない表情が、殿と似通っていてトシは可笑しくなる。
 娘を大奥に入城させるという話が持ち上がったのは一昨年の事だ。姑は、箔がつく、この娘のためだと言い募ったが、殿が猛反対した。あれは思い出すだけでも口角が上がる。日頃あまり自分の主張を強くしない男が姑に抗議し、挙げ句、懇願までしていた。武士にあるまじき行為である。殿は武士らしからぬ男だ。大身の旗本のくせ、てんで偉ぶらないし、格式張った様子が全くなかった。町人や商人のような気安さがあり、聞いた話によれば町人に「銀さん」などと気軽に呼ばれているらしい。家では姑の手前、若干繕ってはいるが、トシの前では身内に見せる気安さを大っぴらにする。姑が口惜しそうにする場面を何度も見てきた。姑が物申しても、殿はどこ吹く風でかわしてしまう。そういったしたたかさをトシは痛快に思うことがある。
 殿は、側室をどうするのだろう。
 娘は老女に茶道を習いにいった。残された部屋でトシは一人、殿の小紋を縫いながら、中庭の築山で遊ぶ渡り鳥を眺めた。息子は素読から得意の剣術に稽古が移ったようで、活き活きとした掛け声が響いている。その発声に驚いた鳥は飛び上がり、また降りてくる。
 殿とトシの子供だ。腕は確かである。名高い道場から声がかかっているが、まだどこに指南を受けに行くのかは決めていないようだ。トシはこのまま殿に手解きを受けるのが一番上達するのではないかと感じている。殿とは打ち合ったことがない。一度手合わせをしてみたいが、姑が許さないだろうから自重している。トシはせいぜい侍女や娘に薙刀の稽古をつけるのが関の山だ。それに、子を産んで随分と身体が重くなった。昔のような俊敏さは望めないだろう。それに、手加減されればトシの内で残っている矜持が傷つく。
 殿は側室を迎える事を反対しない気がした。トシを妻と認めてくれているのは解かる。ある程度の情があるのも知っている。だが、それが恋情だとはどうしても思えなかった。自分たち二人は、お互いを愛し合っているのかといえば、少し異なる気がする。認め合っている。こうして傍にあるのだから情がある。ただ、それだけだ。
 トシはこの二年、子を成さないのだ。殿とて、随分心安い性格をしているが、お家はやはり大事だろうし、義理もあるだろう。坂田家を絶やすわけにはいかない。それは武家として当たり前のことなのだ。それに、殿は女子が好きであろう。「破瓜は痛いもの」と実家で竹刀を振るっていた頃、近所の世話好きの年増に聞きたくもないのに聞かされた事があったが、殿との閨は一度も痛いと感じなかった。微かな衝撃はあったが、それは痛みとは程遠いものだった。殿の手練手管にトシの理性は呆気なく崩壊していた。慣れているのだと思い立ったのは四回目の夜伽の時だ。もしかするとトシの知らないうちに妾を拵えてる可能性もある。存外、殿はしたたかだ。
 姑がいつの間に来たのか、開け放たれている障子から怪訝な表情でトシの手元を見ていた。トシは視線を受けて裁縫中の小紋に目線を向け、ぎょっとする。
「それは何処から腕を通すのでしょうね」
 姑が冷ややかに云った。
 小紋の袖は腕が通らないよう、見事に固く縫い付けられていた。