トシの渋顔に殿は軽やかに笑った。幾分悪戯めいた笑みだが、皮肉のこもらない楽しそうな笑顔は決して人に不快感を与えるものではない。
「そう怒るな。これはこれでなかなか粋だろう」
 殿は着物の上に小紋と二枚重ねにし、上に着せた小紋の片袖を抜いている格好で両手を広げた。トシが先日、右袖を縫い付けてしまった小紋を見つけ出して、偶然見出した着方が気に入ったらしい。
「縫い直しますから」
「いい、これはなかなかだ。うん、気に入った。役者のようでいい。実に歌舞伎者だ」
「殿は歌舞伎役者ではありません。旗本格のお武家様でございます」
 殿とトシの言い合いを、取り巻く坂田家の従者達は楽しそうに眺めている。トシは横目で認めて、溜息をつく。下女に至っては下を向いて肩を震わせていた。
「殿、私のしくじりですから。少し考えに耽っていまして。直ぐに縫い直しを」
「ちょっと出てくる」
 ニヤニヤと笑い、殿は踵を返してしまう。
「殿!!」
 トシの呼び掛けに振り返らず、逃げるように殿は出掛けていった。慌てて徒士が追う。トシは憤慨し、立ち上がった。
「あの、馬鹿殿!」
 残った従者達は吃々として窃笑する。トシは周囲を睨み据えて、部屋に引込んだ。
 姑の外出している坂田家の屋敷は、緊張の糸が緩む。姑の前では殿の暴言など堂々と言い放つことはできないし、殿のあの格好も姑が見れば鋭利な叱責が飛ぶであろう。従者達も齷齪せずにゆったりと過ごすことなど出来はしない。殿とトシは堅苦しいのがどうも苦手だった。自然と従者達も姑が不在の時は、役目を蔑ろにしない範囲で少しだけ気を抜く習慣ができている。トシも殿も人の地位を気にしない性質だった。
 殿は勝手だ、とトシは毒づく。
 姑は武蔵の領主の下屋敷に出掛けている。世話好きの老女に殿の側室を斡旋してもらうよう足を向けたのだ。トシはこのところ気が立つ。殿との房事も調子が悪く、添寝するだけの夜が続いていた。殿は決して無理強いしない。それだけにトシの心は穏やかではない。殿は人の心に敏感であり、トシの気性を心得ている。おそらくトシを慮り、これまで適度な距離を保っている。姑に武家の女子は目で語るべし、と教育されたことがある。武家たるもの寡黙であるべし。しかし、話さなければわからないこともあるのだとトシは何時も思うのだ。ただ問題は何を話せばいいのか。自分たちは夫婦で契を交わした間柄だ。だけれどそれは、気持ちを上滑りした体面に過ぎない。どのぐらいまで踏み込む資格があるのか分からない。トシは殿の妻だ。だけど、ただそれだけだ。
 本当は解っている。と、トシは苦笑した。いつの間にか、トシは殿を好きになっていた。側室を迎えるのは辛い。理屈では分かっているが、どうしても岡焼きしてしまう。だから殿は勝手だと腹が立つ。そう思うことでしか気持ちの逃げ場がないのだ。子ができない。子さえできれば側室は迎えなくても良い。だが、身篭れない。
 心まで籠の中の鳥だ。
「武士の妻にはなれない………」
 表で寒鴉が鳴く。トシはその鳴き声に寄り添うようにして溜息を零した。

 ひと月経って側室となるかも知れない者が決まった。御家人の娘で奥向きを下がっている。年齢はトシより四つ年下らしい。
 日は吉日を選び目通りさせる運びとなった。姑が嬉々として不道明王を奉る寺の境内を往く。トシは静かに子供を伴い続いていた。姑から少し遅れて殿の後ろ姿。このところ殿との会話も格段に減っている。トシが思い詰めているからだ。
 見知らぬ老女が姑に声をかけた。姑が声を弾ませて挨拶する。老女の隣に年若い娘が佇んでいる。この娘が側室候補の女子だろう。
「これは喫驚。ここでお会いするなんて」
 大仰に老女が云う。これは見合いだと殿には伝えていない。体面に関わるからだ。ごく自然に遭遇したように見せかけてはいるが、芝居がかって不自然だ。トシの娘が不思議そうな顔でトシを見上げてきた。稚児髷の娘にも見破られるほど老女は芝居がかっている。息子は不審な顔をしていた。
「本当に不動明王のお導きかしら」姑が返答して振り向く。いつになく機嫌が良い。「さあさあ茶処にでも入りましょう」
 息子と娘は侍女に任せて、老女と側室候補の娘、姑と殿、トシは茶処で向き合った。トシは側室候補の娘に流し目をさり気なく投げた。色白で小柄、愛らしい顔をしていた。手元の茶を持ち上げ、口元を隠す。殿は黙している。たまに振られる話に微笑こそ浮かべるが、特に口を挟むことをしなかった。専ら老女と姑だけが会話を弾ませている。話題が側室候補の娘にいく。娘は花が綻ぶような笑みをたたえて控えめに答える。姑は満足そうに側室候補の娘を見遣る。
 籠の中の鳥だ。
 トシはひたすら茶を啜った。目の前で交わされる会話はほとんど意味をなさない。自分の出る幕はない。惨めだった。自分だけが隔絶された場所にいる気がした。
 小半時経って漸く暇乞いをした。老女と姑は満足そうに視線を交わして別れた。トシは姑の顔も殿の顔も見たくはなかった。帰る道すがら子に「母様、お加減が?」と心配され、取り繕った笑みを返す。息子も娘もトシに始終寄り添ってくれた。昔に、道場で竹刀を振り回していたあの頃に、途方もなく戻りたくなった。息子と娘を連れて戻れないだろうかと、そんな夢見事を思った。殿は前を颯爽と歩く。今回のことが自分の側室となる娘の目通りだと気づいているだろう。殿は敏い。側室に子ができたら、殿が可愛らしい側室に執心したら、トシはどう振舞えばいいのだろう。
 トシに不平を述べる資格はない。甘言の一つも殿に寄越していないのだ。好かれる努力をこれまでしてこなかった。己の不遇に、思い通りにいかない世の不条理に流されるばかりだった。
 駕から出なかったのはトシ自身だ。トシは差し伸べる殿の手に止まりもしなかった。
 屋敷に戻り、暫し自室で惚けていると、取り乱した姑の叫喚がした。何事かと襖を開けると、従者が一同に揃ってトシと目を合わせる。留まるように目で制し、姑の部屋の前に来た。襖を開けようとすると「許しません!」と姑の甲高い声が響く。思わずトシは引き手に触れた手を止めた。
「側室は不要です」
 凛とした言い切ったのは殿の声だった。トシは瞠目する。
「これは奥の権限、あなたの口出しは不作法、憫笑ものです」
「笑いたければ笑えばいいのです。側室は要りません。俺は、トシが、妻があればいいのです」
 目眩がして、咄嗟に後ろに二三歩退る。心臓が早鐘を打って息苦しい。トシは信じられない思いで、締まりきってる襖を凝視する。
「嫡子が死んだらどうなるのです。坂田家は誰が継ぐのですか!」
「息子は死にません。俺とトシの子です。身罷るわけがないではございませんか」
 沈黙があった。それから、ぞっとするような低い姑の声が聞こえた。
「私の子供は、全員が早世しました。あなたの義父も側室を嫌がりました。いずれ、元気な子ができるであろうと。私は嬉しかった。でも、出来なかったのです。元気な子は一人たりともできなかったのです。私の苦痛がわかりますか? 殿の血を分けた子を産めなかった私の無念があなたに分かるのですか?」
 トシは俯く。姑はこれに囚われてきたのだ。ずっと姑は悔やんでいた。誰でも苦しいのだ。思い通りにならないことなんて溢れている。
「義父は……流派を超えた試合で勝ち進んだ俺に、俺の息子は誰にも負けまい、と仰ってくれました。お前を誇りに思うと、俺の息子は天下の剣客だと………」
 トシは静かにその場を離れて、中庭に降りる。月が煌々としていた。星は瞬き、夜空に散りばめられている。吐く息は白く、指先が悴む。不意に背中が温もった。老女が被布をトシの肩に掛けたのだ。
「お身体を冷やすのはよくありませんよ」
「うん、でも今は寒風にあたっていたい気分で………」
 老女は劬るようにトシに眼差しを向けた。
「十五で坂田家の門を潜った奥様に、殿はご熱心でしたよ。今日までもずっと。傍から見ていて焦れったくなるほどにご熱心でしたよ」
 トシは頬を染めて俯く。私も、とその声は星の瞬きにかき消されるくらい細き音だった。

 トシは自分の箱枕を殿の箱枕の隣に並べた。寝衣に着替え香を焚き、行灯の明かりを絞る。そうして殿の横に滑り込んだ。殿の手が寝衣の袷に滑り込む。帯を解かれ、トシは瞳を閉じた。首筋に唇が這う。トシは身動ぎをする。殿は楽しむようにトシの身体に手を滑らせる。敏感な場所をわざと触れずにトシを昂ぶらせ、漏れる喘ぎ声に殿の唇が吸い付く。足が絡まり、淫靡な音が耳朶に響く。
 殿の舌がトシを擽る。下肢が濡れる。トシは股の小さな突起を擦られ、快感に戦慄いた。乳房を吸われ、甘噛みされ、たまらなくなり、殿の顔をかき抱く。強請るように胸を突き出すと、吸われたまま舌で刺激された。同時に指がトシを貫く。水音が次第に激しくなる。お互いの息遣いが荒い。
 トシは薄目を開けた。トシを抱く殿の顔が僅かな明かりに照らされ、優しげに灯っていた。
「殿は………」
 トシが声を出したのに驚いたのだろう。殿の愛撫が止まった。
「殿は、このようなお顔で私を抱くのですね」
 口付けが降ってきた。鼻に頬に、額に。強請るように唇を持ち上げると、殿の舌が腔内に侵入した。逃さないとばかりに絡めると、下顎を擽られる。快感が背筋を襲った。
「世嗣ぎの……」殿の掠れた声が耳朶に甘く吹き込まれる。「世嗣ぎのためではない。抱きたいから、抱くのだ」切なくなるほどの痺れに、トシは唇を引き結ぶ。「トシ」
 トシは殿を迎えた。奥に招き入れ、絞る。殿の体温も、息遣いも、何時もよりもずっと迫真感がある。突き上げられる度に啜り泣くような声が漏れた。理性を溶かす気持ちよさの中に、殿への想いが溢れていた。快感に引き込まれながらもトシは殿の顔を途切れ途切れに垣間見た。
 やっと、気づいた。殿はいつもトシを籠の外で待っていてくれたのだと。辛抱強く、ずっと待っていてくれていたのだと。


 春の匂いが香る。芽吹きの季節は緑葉色。蕾は綻び、日差しは柔らかい。頭が少し霞むのは、冬の緊張が溶けた暖かさのせいだ。
「トシ」
 振り向くと、裃姿の殿が従者を従え立っていた。トシは思わず笑みを浮かべる。
「御城揃は恙無く?」
「大義な儀式なだけに大儀であった」
「またそんな事を!」
 坂田家の従者が口元を綻ばせる。トシも釣られて笑いそうになり、袖で口元を覆った。トシの背後に控えている侍女も笑いを噛み殺している。
「何処に行くのだ?」
「子授けの効き目のあるという神社にお参りに」
 トシはこのところ毎日、ご利益があるといわれている神社に足を運んでいた。トシのさっぱりとした物言いに、殿も白い歯を見せる。
「では、二人で祈れば倍のご利益」
「五人で祈ればさらに五倍」と、殿の従者が殿に負けじと朗らかに云う。「奥様、殿、参られましょうぞ」
 トシと殿は歩調を合わせて歩き出す。殿は武士の作法など欠片も気にせずトシと肩を並べ歩く。今なら、トシは分かる。
 坂田銀時は、殿は、ずっとトシを対等に見ていたのだと。
 頭上で旅鳥が大空を横断する。雪はもう溶けた。季節はすっかり、春である。