動乱の前






 出合茶屋には何度か訪れたことがあるが、一度も本来の目的で暖簾をくぐった事はない。
 色茶屋は見目的には至極一般的な料理茶屋を装っている。数奇屋風の二階建てで、簡潔な造りながらも新しい建物なので清潔感はあるのだが、ひとたび茶屋に足を踏み入れれば、濁った臭気が鼻につきまとい、それが妙な具合に潔癖を招く。
 呼ばれたので沖田総悟は赴いた。
 玄関口で静かに突っ立ち、廊下をばたばたとかけていく女中達を眺めていると、店主が総悟に気が付き飛んでくる。
「沖田様、これはこれは、ようお越しを。ささ、梅豊様がお待ちでございます。ささ」
 腰低く卑屈な愛想笑いを振舞いて店主は総悟を誘導する。あまりにも客に謙る年月が長かったせいか、齢が五十を超える店主の腰は醜く歪み、目尻の皺が厭らしい放射線が刻まれているように見える。
 倣って後を無表情に付いて歩くが、建具に仕切られた部屋から漏れる情事の声に鳥肌が立つ。眉間にしわを寄せつつ歩くと、総悟の不快を感じ取ったのか店主の歩みが速くなった。二階に上がり、奥座敷に通される。周囲の部屋から一際隔離されていて、人気は感じない。
 「梅豊様、沖田様でございます」
 店主が小さく呟くと、座敷から「入れ」と聞きなれた声がする。店主はそれを聞いて背筋を伸ばし、愛想笑いを引っ込める。襖を開け、総悟に目配せをしてきた。
「浅原、ご苦労だな」
 総悟は店主に化けている男に一声かけて座敷に入り込み、息を吐く。鳥肌は引いていた。正面の見慣れすぎた顔を見て緩く顔を崩す。
「土方さん、ここはどうも好かねェなァ」
 口元に笑みを浮かべる着流し姿の男は脚を崩して紫煙を燻らせていた。座敷は広さ六畳、西の方角には掛け軸、然る何某とかいった有名な書道家の遺作だと教えられたが、興味は生憎持ち合わせていない。真向かいには正方形の吹き窓が冷たい風を運んでくる。
「ここが一番悟られにくいんだよ、幡多寺院とは懇意にしてるしな」
 出会い茶屋は神社や寺院の門前に多い。幡多寺院門前にあるこの出会茶屋、比良屋は土方が抱えている密偵と落ち合う場合に使う。場所は総悟以外、土方直属の観察方しか知いれない。しかも、茶屋には裏戸や抜け穴が幾つも施されいつでも脱出ができるよう改築も済んでいる。
「浅原もご苦労、よく馴染んでる」
 皺の多い無愛想な男が「ヘイ」と返事をし、注意深く襖の外をうかがい、ゆっくりと閉めた。懐から手拭を取り出し顔を擦る。化粧が落ちると五十半歳の顔が二十代後半に化けた。そしてその場に片膝を付く。
「見事なもんだなァ」と感心すると、浅原は「慣れです」とぎこちなく笑った。
「早速だが、本題に入る。浅原」土方が灰皿に煙草を擦りつけ浅原に目配せをする。浅原は心得ているのか、吹き抜けの窓に木板を嵌め込み、部屋の隅に下がると懐から短刀を取り出し右手で握る。いつでも潜入者を殺せるよう仕込ませているのだ。周到な土方が教育したのだろう。
 総悟に向いた土方は悪戯な笑みを浮かべて言った。
「総悟、先生が帰ってくるぞ」
「聞いてやす。久しぶりだナァ」
 総悟は刀を左側に置いて腰を下ろし胡坐をかいた。
「おそらく、動くぜ」土方の瞳が鈍く光る。
「でしょうね。先生は余裕がなくっていけねェや、余計な奴を連れてきちまうんだろうなァ」
「隊士も何人か靡くだろうな。まぁ、それは別に構わねェ。近藤さんが抱えちまったんだから仕方ねェが、奴は近いうちに組乗っ取る」
「斬ればいいんですかィ?」
 刀に手を触れると「まァ落ち着けや」と土方が制した。
「お前はいつでもアイツが斬れるんだ、ちょっと泳がせておく。アイツの後ろ盾も気になるところだし、近藤さんの立場もある。それにアノ先生はそれほど頭悪かねェからな、内密に動かねェと、告げ口されたらコトだぜ」
「ぼやぼやしてる間に近藤さんヤられたらどうすんですかィ」総悟は溜息をつく。愚問なのは自分でも分かっている。
「近藤さんに早々に手を下すことはネェだろうよ。多分周囲から消していく」
 刀に触れた手を下緒にずらして弄ぶ。土方の脳みそを覗けたらさぞかし複雑に入り組んでいて、だがものの見事に精練されて、隙間などないのだろうナァと思うと可笑しくなった。
「最初に消すのはあんたかァ」
「そうだよ、俺だ」得意気に土方は嗤った。珍しい表情だ。何もかもを俯瞰して、愉しんでいる。だが、その実、命よりも重いものをひたすらに背負って総悟にその片鱗も預けようとしない。全て自分一人で引き受けて、それがどうしようもなく愉悦らしい。酔狂な人だ。「総悟、いいか。この先、俺派か伊東派で派閥が起きる。お前は伊藤派に付け」
 総悟は静かに頷く。どこまでも悪巧みする土方に乗るのはとても面白いことを知っている。
「伊藤の懐に潜り込んで、近藤さんを何が何でも護れよ、その為なら俺に刀向けてもいい。心臓貫いても構わねェ」
 背後で浅原が息を飲み、腰を浮かす。土方が睨むと動きを止めた。
「いいですよ。あんたの策なら乗っかれば面白いことになるのは知ってるんでね。土方さんを刺すのは今までのどんな奴よりいい気分味わえるんだろうなァ」
「総悟」
 面白い、筈なのに。
「一突きで殺してやるかナァ、それとも腸を捩っても面白そうだ。首を飛ばしてもいいんですが、あれはあんまり好かねェからな、いっそのこと袈裟」
 止まらなくなりそうな口を土方は静かに遮った。
「総悟、そうなったらちゃんと殺せよ。余計なこと考えんな」今度の土方の表情は嗤っていない。
「……分かってらァ」
「俺も簡単には殺られねぇ。それに、今度のはいい機会なんだと思う。平隊士の腹のうちも知れるしな、それに」言葉を切って、手元に目線を落とす。「なんだか今までとは違う、嫌な予感がしてんだよ。漠然と見えるもんが今度は見えねェんだ。どこに進めばいいのかは分かってんのに、途中でおかしなものが邪魔をする。だから、俺の命がどこまで続くのか見極めるいい機会なんだ。近藤さんは絶対死なせねェ。他の誰が死のうと、あの人だけは護る。俺とお前で、だ。あの人がいる限り真選組はずっと続くんだ」
 土方は総悟の背後の浅原に視線を向ける。
「浅原、お前は次の仕事だ。先生の動向はもう探らんでいい。この件からはお前を外す。黄州藩の浪士に多田憲安という男がいる。その男の周囲を探れ。攘夷浪士と繋がっているという報が入った」
 ジワリと浅原の困惑が伝わる。
「しかし!」
 声を張り上げた浅原に土方は眉を顰める。
「浅原、俺達は仕掛けなきゃ潰される渦中にいるんだ。これから伊東みたいなのもごまんと出てくる。先手を打っていかなきゃならねェんだよ。この件にばかり重視してたら次の対処が疎かになる」
「それでも、今回で真選組が、」
「真選組は俺が潰さねェっていってんだろ」
「土方さん、あんた、死んでもいいって、真選組はあんたが!」
「浅原!!」土方の怒声が低く座敷に充満する。総悟は首を傾け朝倉を横目で見る。その両の拳が震えていた。気難しく、誰にも関心が向かなかった男だ。「俺は局長じゃねェ。いいか、近藤さんがあるから真選組が成り立ってんだ。策を練ることなんてやろうと思えば誰でもできるんだよ、たまたまここに俺がいるだけだ。組織ってのはな、巧いようにできてるんだよ、重要だと思っていた奴がいなくなった途端、それに代わる奴が出てくるもんなんだ。優秀な局長がいればな。人望や人徳ってのは天性のもんだ。それは近藤さんにしかねェ。あの人がいる限り、真選組は終わらない」
 朝原は何も言えず、その拳は震えたままだ。
「誰が死んでも振り返るな。そうやっていかなきゃ、俺たちのやってることは全部、無駄なんだよ。進むしかねェんだ。そこに何もなかろうと、信じたもん掲げていくしかねェんだよ」
 総悟は刀を手に取り立ち上がる。菊一文字の重みは慣れたものだ。鞘から取り出し握って敵と対峙すれば、あとは何も考えてはいけない。本能のままに動くだけ。
「土方さん、せいぜい生き永らえてくだせェ」
 総悟の軽口に土方は黙したままだった。屯所に帰る道を歩きながら初めて、走り抜けた先は何が残るのだろう、と考えた。先のことなんて何も考えてこなかった。未来を想像することは必要のないことだからだ。先は今の積み重ねにすぎない。それなら先を考えても仕方がない。ずっと、今に重点を置いてきた。それが剣客の考え方なのだと、近藤の師匠に言われたことがある。
 両の手のひらを目の前に持ってくる。荒れ放題で血豆すらできないほど皮膚が厚い。傷だらけの武骨なそれは剣にしか馴染まない気がした。
 ずっと総悟は土方の策に乗ってきた。
 だが、どうしても今回は、いつもの愉快がこみ上げてこない。
 菊一文字は慣れた重みだ。もしも土方を斬ったとしたら、その重みはいつもと変わらないんだろうか。
 総悟は分からない。
「もしかしたら、乗れねェかも」
 柄に手をやる。総悟の混乱、それも土方の想定内だとしたら悔しい。だが、そのほうがずっといいなァと思う。
 土方は自分の代わりはどこにでもいると言った。あれは総悟にとって大きな間違いだ。
 総悟は気付いている。
 総悟にとって土方に代わる奴など、どこにも居やしないのだ。
 だけど、真選組を、近藤を無くしたら自分はいなくなってしまう。
 その懸隔にただただ戸惑い、だが、歩く道は土方と同じで一つしかない。
 それがとても今は苦しい。