厚い雲が太陽を被い隠している。いつ雨が降り出してもおかしくない暗雲立ちこめる、不穏な空模様だった。
 源八は齢五つの幼子を八人、背後と横に従えて、陸奥国からの長い道中を漸く江戸に辿り着いたところだった。連日の歩きとおしに子供たちの顔も疲れ切っており、皆無言で地面を見つめながらとぼとぼと歩を進め続けている。奥州街道を下ってきたので宿場は充実していたが、流石の源八も脚と腰が重い。若い頃であれば、子供の一人か二人ぐらいは悠に背負えたものだが、股の上がりが鈍くなってきた近頃では自分の年齢を自覚せずにはおれなかった。壮健の頃は陸奥の国先端まで朝晩歩き通して、僅か十二日間ほどで辿り着いたのを誇りにしていたが、ここ数年、体力の衰え著しく、来年はこうして遠国まで足を運ぶことを止め、山女衒が連れてきた子供を品定していこうかと考えている。自分で赴いたほうが良い女児の見極めができるが、そうは言ってもいられない。
 奥州街道は江戸時代の五街道の一つだ。一般に、江戸千住から宇都宮・白河などを経て陸奥、三廐に至る道をいうが、幕府の法制上では江戸から宇都宮までの日光街道を除き、宇都宮から白河までの道のことを奥州街道と呼ぶ。奥州街道は江戸千住から陸奥国までの道の総称として呼ばれていた。
「お腹すいた」
 一番背丈の低い女児が立ち止まってしまった。丁度、千住大橋にかかったところで、この場所は奥の細道の「矢立初め」の地で有名だ。日光道中の玄関で松雄芭蕉もここから奥州へと旅立っていった。源八は江戸を発つ時、いつも芭蕉の心境を思う。旅に生き旅に死ねたらどれだけ気楽で幸せかを想像しながらも女児を買いにいく。
「もう少し頑張れ、橋を越えれば茶屋がある。団子を買ってやるぞ」
 女児は頷くと、俯いたまま足を踏み出した。曇天が低い唸り声を上げた。
 茶屋に入った瞬間、まるで桶をひっくり返したような雨が降り出し、薄暗い空に閃光が走ったかと思うと、地面を揺るがすほどの雷鳴が鼓膜と心臓に響く。
「濡れずにすんだな」
「んだな」
 女児たちは雷鳴に肩を震わせたが、床机に腰を掛けると、ほっとしたのか誰ともなしに話し出した。源八は小鳥の囀りに耳を澄ますような気持ちで、その話し声を聞いていた。
「んだども、江戸は暖かいな」
「本当に、ちょっと空気が湿っぽい」
「団子、うまいのう」
 源八は煎茶を飲みながら、一人一人の女児をどの見世に売りつけるかの算段をする。源八はこの家業を三十年近くやっている。目利きに冴えていて、郭からの評判も殊更良かった。毎年方々の里を歩き回るが、源八の経験上、雪国で育つ女児は特に見事な玉が混じっていた。今回は上玉が二人、この二人は大籬に売りつけていいだろう。肌は透き通るように白く、鼻筋は通って、髪は黒々としている。眼も活き活きとしていて辛抱強く弱音ひとつ吐かずに長い道中をついて来た。もう二人は悩んだが、いいとこで半籬だろう。見目はいいのだが、性根が今ひとつだった。残りの三人は河見世に転がしておくしかない。顔も不味いし、辛抱が無い。
 ここ二三年ほど陸奥国では凶作が続いていた。重大な飢饉で悩まされている事を聞きつけて子供買いに赴けば、案の定、食べていけぬ家が多いからさぞかし助かるだろうと、山女衒に歓迎された。案内された家々はどこもかしこも荒れ果て崩れかかり、家人は貧乏神にでも取り憑かれたような不健康そうな面に牛蒡のような痩せ細った身体をしていた。女児らの母親は概ね、不憫な我が子を思い頬を涙で濡らし、しょうがないのよ。と子供を通して、自分に言い聞かせ続ける。亭主はろくに働きもせず、家の隅で横になっている。
 家々を巡り、売れそうな子供を見繕って、これから吉原に売りに行く。夕刻までには雨も止むであろう。この時期の豪雨は不思議なほど引けが早い。
 草臥れた脚を擦る。子供たちの表情は疲れてはいるが、悲壮ではなかった。宿場ではなるったけ滋養のあるものを食べさせてきたし、道中、江戸がどんなに面白い町かを言って聞かせ続けたのである。愚図ってしまうと面倒だし、脱走や早まられたらたまったもんじゃない。それに、見目が良いほうが楼主に銭を弾んで貰えるのだ。これから苦界に身を置く前に多少の贅沢をさせてやっても損は無い。
 吉原に売られれば一度大門を潜ったら最後、年季が明けるまで外界には出られない。見ず知らずの男に身体を売るという事が一体どういう事なのか予想だにしていない筈である。不憫だとは思うが、女児たちの生家は見るからに火の車だった。雪国の冬は江戸では想像できないぐらいに過酷なのだ。豊作が望めなければ蓄えが尽きる。食料もままならないので冬を越す体力が続かない。下手したら口減らしのために実の親に捨てられるか殺されるかするのかもしれない。一家餓死、凍死もよく聞く話である。それならば、綺麗な着物を着て白い飯が食べられる遊女の方が未だましだろう。源八は、そう思う事にしていた。そして、売買した子供の事は直ぐに忘れることにしている。たとえ覚えていても、その後、極力気にとめないことにしていた。碌な生涯を送れる女郎が一握も居ないことを知っているからだ。怖いものには蓋をしろ、それが源八の過去からの教訓である。
 子供達は、豪雨で視界が悪い江戸の市中を興味深そうに眺めている。隣家との間が離れている田舎では考えられぬ町並みであろう。建物は犇きあい、人々は雨の中を濡れながらも駆け抜けている。江戸の町人は概ね活気のある顔つきをしており、威勢のいい声が飛び交う。今日は生憎の天気だが、晴れの日は抜けるような青空が拝めるのだ。
「江戸はこちゃべしね」
「ほに、ほんだなす」
「陸奥南部ばじぇんごじゃ」
「あぁ、つれ」
 源八は通りをひたすらに眺めていた。雨が止まねば動けない。女児たちも皆、団子を食べ終えてぽつりぽつりと話をしながら雨の止むのを待っている。断続的に続いていた雷鳴はしばらくすると止んだ。
 地面を叩くようにして降っていた雨も随分と小降りになってきた。重い雲が裂けて、夕焼けの赤紫色が顔を出す。
「そろそろ行くかね」
 源八が立ち上がると、女児たちもそれに倣った。

 小塚原町通りを越えると町家が途絶え、田地が広がる。この道をひたすら直進し、山谷浅草町の二つ目の道を右折すれば吉原大門へと続く五十間道というくの字に曲がった道に着く。道のはじまる所に立っている柳は見返り柳といって、遊客が名残惜しげに振り返る事からそう呼ばれている。大門の外、五十間道の内左右に十ずつ二十軒ずらりと並んでいるのは、よしず張りの編笠茶屋で、昼間に遊びに来る武士が顔を隠すため、編み笠を貸した事からそう呼ばれていたが、客の主役が武士から町人に替わってからも定着してしまったのか相変わらずその名称で呼ばれている。
 小塚原町通りを越えて、源八一同が中村町通りにさしかかったときであった。周囲は田地である。遥か向こうに背の高い木や上野の山が見えるが、この付近は民家も無いもう少し進めば右手に仕置き場があり、それを越すとまた町家が並ぶが、それまではひたすら田地田畑だ。この刻限に田に出る農家はほとんどいない。それなのに、前方に人の影が二つあり、源八は不審に思った。
 近付くにつれて、一つは男であることが知れた。もう一つの影は男の腰にも及ばぬ身長の女児である。長い髪を後ろで束ねていて、それが風に踊っている。こちらに歩いてくる様子も無く、ただそこに佇んでいる。源八はひやりとした。ここは仕置き場の近くである。魑魅魍魎の類ではあるまいかと、危ぶんで歩調が遅くなる。だが、よくよく視れば男も女児も二人とも足があった。
 男たちは源八が近付くのを待っているようでもあった。知り合いか、とも思ったが、このような辺鄙な所で待ち惚けされる覚えが無い。それに、笠を深く被っているので表情まで窺えないが、なんとなく男の方の佇まいがただならぬ感じがした。源八は連れて来た女児を背後に庇いながら進んでいく。
「女衒か」
 男が言った。源八は警戒しながらも「へぇ」と返事をする。
「そうか。では、この子を買ってはもらえぬか」
 声は抑揚がなく、平坦であった。だが、変に丸味のある質だった。源八は女児に目を遣って、そして、瞠目した。
 年端のいかない女児であるにも関わらず、涼しく張った目は聊か吊り上がり気味であったが、意志の強さを感じさせ、黒々とした髪はさらさらと風に靡くと黒い羽衣が舞っている様な優美さを思わせた。鼻筋も整っていて、口元は小造りで、凛とした印象を与える。眼が覚めるほどの美人であった。肌は透き通るように白い。思わず触れたくなるような雪のような淡さに、源八はこの女児に一種の怖ろしさを感じた。
「どこのお子さんでございましょ?」
「仔細は訳あって申せぬ。買えるか買えないか」
「いや、こ、このような真珠のような美しい子供はここまで随分と長い事この稼業を遣ってきましたが、初めてでございます。お買いいたしましょう」
「ん。では」
 男は源八から身売り金を受け取ると、まるで何かに追われるように足早に去っていった。腰に差料こそ無かったが、摺り足が堂にはいっている事からもおそらく武士であろう事は想像がついた。ではこの子供の父親だろうか。それにしては他人行儀で疑問が残る。
 源八は残された女児に向かって思わず名を聞いた。女児は少しも動ぜずに答えた。
「トシでございます」
 細いが、どこかに力の強さを感じる声だった。源八は息を呑む。この子は傾城遊女になる。吉原を揺るがす。そんな予感がした。身震いをして、そして、この子供にしばらくの間、見蕩れていた。