迎花


柏木



 柏木は茶を運んできた梅を一瞥して、煙管の吸い口を咥え、ゆっくりと喫いこむ。咥内に広がった苦味が柏木の心をいつも落ち着かせた。
 小窓の外は濃い闇に溶け込もうとしている紫帯びた空が広がっている。飾りを施した髪の毛の重さに肩が凝るので小窓の縁に頬杖をつき、表情を変える江戸の空を見上げていた。目線を落とせば、先ほど柏木の髪を結った髪結いが慌しく駆けて行く、振り向くかと思って見つめていたが、その後姿はあっという間に小見世山田屋の裏口に消えていった。
 梅の視線を感じて、脚を組み直し「もういいよ、休みな」と声をかけると、視線の端で梅は端整な居住まいで深々と座礼する。夕焼けは山の稜線に溶けていってしまった。柏木の部屋からは吉原遊郭全体を覆う黒板塀の遥か向こうの山々に沈む夕日を眺めることができる。西に沈む夕焼けは遊女にとって禍々しいに他ならないのだが、柏木は赤ければ赤いほど気持ちが昂揚した。
 頭を上げた梅も小窓から空を見遣っている。端正な顔立ちのこの引込新造を柏木は千事屋に引取られたその日から教育し、傅かさせていた。
「よろしくお願いします」
 それが、柏木が訊いた梅の第一声だった。未だ年端のいかない小娘のくせに、一つ一つの所作に目を瞠るものがあったの事を覚えている。この子は武家の子ではあるまいか―――――――――それほどまでに屹然とした佇まいだった。だが、柏木は梅が武家の娘かどうかを問おうとも、識ろうという気もおきなかった。他人を詮索する事に何の価値も感じないし、遊女となったからにはお家もそれまでの育ちも関係ない。躰を売る事だけが生きる手段なのだ。
「綺麗ですねぇ」
 小娘にしては少し低い声だ。低い声は耳障りがいい。それだけの理由をとっても柏木は梅に好感を持っていた。銀煙管をぽんと煙草盆に叩く。
「ほんとうに」
 郭内の家並みは不揃いで、それぞれその見世独特の個性がある。仲の町通りに近いほど、見世の位が高く絢爛豪華な妓楼が並び、遠ざかるほど粗悪になる。お歯黒溝に沿う様に家並み揃えているのは、入り口が四尺五寸幅の二間の長屋風情、切見世や河岸見世だ。どこの見世も提燈を高く点している。仲の町に咲く満開の夜桜は大ぶりの花が、幹の根元の提燈灯りで浮かび上がるような迫力のある鮮やかさだ。先日三ノ輪から運ばれきたばかりで、どこぞの禿が扇を枝に吊るしている。歌が書かれてあるのだろう。
 そう云えば梅は、行事ごとに積極的に参加しない。少し身を引いて、眺めているのが好きなようだった。梅はそこまで男好きのする顔立ちでは無い。身体は遊女にしては聊か痩身だし、顔立ちも華やかというよりは気品がありすぎた。瞳には柔らかさというよりは鋭さが目立ち、見ようによっては冷淡に映る。だが、この姑には教養があった。和歌や俳句を嗜む素養もある。また、元々の性質からか妙な具合に慧眼で、柏木はこの姑はおそらく常人とは違った視点で物事を見極められるのだろうと感心していた。一つ教えればコツを掴むのがうまく、三つも四つもこなしてしまう要領のよさも兼ね備えている。それに、流し目が子供ながらに恐ろしいほど妖艶だ。思わず惹きつけられるような流し目をする姑だな、と髪結いが笑って言っていた。
「花魁、入るぜ」
 するりと遠慮がちに襖が開いて立番が入ってきた。柏木は小窓から離れて項を強調させるように俯く。火打石が項の辺りで打たれる。これは、げん担ぎの慣わしで、立番が夜見世の前に行う儀式だ。厄除けのために行うもので、火が清浄なものとする考え方から火打石で火花を起こすことを切火を切るともいい、身を清めるまじないや火が魔除けになるという信仰的な習慣だ。どこの見世も大概はこれをやって夜見世に灯りを点す。柏木は千事屋のお職であるから一人自室で受けるが、大概の花魁や姑は張見世の籬に並び黙してこれを受ける。火打石が打たれる前は籬で口を聞いてはならないという慣わしがあった。この小気味いい音が遊女を夜の娼婦に変えるのだ。
 未だ江戸町一丁目の通りは人の気も疎らだが、そろそろ仲の町通りの引き手茶屋が賑わうはずだ。衣紋坂を越え五十間道を通り大門を潜ったら吉原遊郭、この刻ならば五十間道にいそいそと足を運ぶ男たちが増えていることだろう。
 衣紋坂に五十間道、見返り柳。柏木は女衒に連れられ吉原遊郭に足を踏み入れた時のことを思い出していた。柏木の故郷は越後で冬の厳しさがとにかく辛かった。どんよりと暗くて重い雪空は柏木をいつも憂鬱の底に追いやった。里の積雪は一丈を越えることもざらで、着物は安い襤褸切れだからいつも震えていた。売られたのは両親がろくでなしだったからだ。貧乏子沢山を地で行く家で、兄弟は兄も姉も弟も妹もみんな売られるか病で死んだ。柏木は齢、五。雪がちらほら降り始めた頃やってきた女衒に売られて江戸に上京することになった時、歓喜で震えた。両親には早くに見切りをつけていたので、別段別離の悲しみも地を去る哀愁も感じなかった。故郷の地獄に比べれば他の場所は極楽浄土だと思ったのだ。優男顔の女衒はその顔の通り優しく、道中、江戸という町の事を面白おかしく語ってくれた。自分がこれから身売りをして生きていく事は解かっていたし、女衒が気を使ってか未練を残さないためか仕事のためか江戸をいくらか美化としている事は十二分に理解していたけれど、それでも、嬉しくてたまらなかった。何人かの身売りされた子供と共に、女衒の親切で江戸に辿り着いた日に江戸巡りをした。江戸の空は青く、町には活気があり、故郷にはない物珍しい面白い店で溢れていた。翌日には吉原遊郭に連れられ、大門から外に出る事は前借金を返すまで出来ないことを告げられたけれど別に構わなかった。
 今日の飯にもありつけない故郷の里で柏木はずっと思っていた。人の役目はただ生きること、それだけだ。どんなに辛かろうと苦しかろうと惨めだろうと、生きてさえいればいいのだ。ならば、どこまで堕ちても生き抜けばいい。幸い見目は良かったから五丁町広しといえど数の少ない十間間口の大きな妓楼、大見世と呼ばれる総籬、千事屋のお職を張る事ができたし、客のあしらいもうまかった。前借金は何事も無ければあと一年も経たずにして完済できる目処がついている。金の嵩む遊びも、身揚りも一度だってしなかったから至って順調な運びだった。惣門を出た後の事はあまり考えてはいないが、生き意地だけは有り余るくらいだからなんとかなる。身請けの話も無いわけではなかったが、全て固辞してきた。これも意地だ。自分の力で年季を迎えたかった。年季を迎えた時に条件の良い客に引取られるのならそれでも良い。
「花魁、鼈甲の大櫛が欠けてる」
 愛想の無い立番の低い声に顔を上げて、飾り立てた髪の鼈甲に触ると、確かに割れていた。
「年季が入ってたからね。梅、急いで買ってきておくれ。物はあんたが見立ててくれれば良いよ」
 頷いた梅に五百文を渡す。梅はその金額に目を一瞬眼を瞠ったが、柏木の表情を覗き込んで恭しく頭を下げた。梅の生活費や教育費は遊郭のしきたりで姉女郎である柏木の借金に課せられる事となっている。その他に使いのお釣りなんかも手間代として妹女郎の懐に入ることになっていた。これは花魁の質に関わることで、羽振りがいいほど郭での評判が上がる。柏木は他人の評価になんの価値も見出していなかったが、梅の事が本当の妹のように可愛かった。
 梅には独特な魅力があった。禿や新造、梅よりいくらも年上の花魁でさえ、この梅には一歩も二歩も引いているようなのだ。決して華やかな妓では無いのに、どこか突き出るものがある。それがなんなのか判じ兼ねて結果、得体の知れない畏敬を抱く。先月、胸を患って死んだ気難しい散茶の柊ですら梅を格別に可愛がっていた節がある。機転の利く頭の良い妓だから、人付き合いにも闌けているのだろうがおそらくそれだけではない。恣意的でも無ければ卑屈でもないが、底抜けに人が良い訳でも根っからの素直でもない。げんに愛想の悪さは郭一で言葉数も極端に少ない。だが、皆、どこかしら梅に惹かれるのだ。
 梅は言いつけどおり直ぐに戻ってきた。
 鼈甲の大櫛を受け取ると、僅かだが梅の表情がいつもと違うことに気が付いた。微笑んでいても静謐さが漂う娘だが、水面に小石を投げて視えた波紋のように、僅かに気が漫になっている。柏木はこういった梅を偶に見ることがあった。それは大概、使いを頼んで戻ってきた時だとか、湯屋の帰りなんかに見られる。ある男を見かけた時、梅の表情に色彩が灯る。
 ある男とは、銀色の髪を持つ浪人風情の者の事だ。だが何度か見た限り浪人ではないようで、鼈甲櫛笄問屋の傍にいることから、おそらく、髪飾りか櫛の職人だろうと柏木は見当をつけている。いつ知り合ったのか知れないが、梅を見て微笑み手を振る様子から言葉を交わしたことがあるのだろうと見て取れた。柏木は梅が男に手を振り返したり笑んでみせたりした事は一度も見た事がなかったが、気にしている事はなんとなく感じ取っている。何年も梅の傍にいるのだ。
 だから、今の梅の様子から今日は往来で眼を合わせる以上のことがあったのだろうと察しがついた。僅かな時の間に、多分何か嬉しいことがあったのだろう。
「良かったね、梅」
 梅はぎゅっと唇をかんで小さく頷く。着物の合わせから取り出した小さな手の平に掴んでいるものを見て「飴と簪かい?」と訊くと、また頷いた。簪は薄い桃色の零れ梅が見事で天辺に舟形琥珀が付いている質素だが上等な品だ。珍しく頬がうっすらと紅くなっている。
「もらったのかい?」
「はい」
 消え入りそうな声で言うもんだから、柏木は可笑しくなった。
「よし、挿してやろう」
 黒々と結い上げている髪に簪を挿してやると、小振りな零れ梅が梅を引き立てる。お世辞抜きで「可愛いよ」と褒めてやると、耳まで紅くなった。
 梅にもこんな一面があるのだと思うと柏木は嬉しいような切ないような不思議な心地になった。
「そろそろ行くよ」
 今日は六日だ。花魁には一と六のつく日は馴染みがある。柏木には馴染みが何人もいたが、一番は五十を過ぎた越前屋の六代目、井之内重三郎という呉服屋の主人だった。札差切っての大金持ちで、羽振りがよく大らかでどこか童心のある奔放な性格をしている。千事屋にとっても柏木にとっても上得意客で信頼もある事から多少の融通を利かせていた。通常なら、馴染み客は引手茶屋で盛大に飲んだ後、茶屋に花魁が迎えに行き共に千事屋の敷居をまたぐのだが、接待があるので少しの刻、柏木の他に馴染みのいない妓でいいので二人ほど見目のほどほどな女郎を連れて接待宴会に参加して欲しいとのことだった。少し昔なら花魁が禿や振袖新造などを引き連れて揚屋や引手茶屋まで練り歩くことを花魁道中と云って祭りのように盛大な催しだったのだが、不況が圧迫している今のご時勢には、すっかり廃れている。
 茶屋までの道中、銀髪の男を見つける事はなかった。
 名代の引き手茶屋を跨ぎ、宴会最中の襖を開けると、そこに居た人物に瞠目した。思わず振り向くと梅も呆然としている。そんな柏木と梅の様子はお構いなしに越前屋は赤ら顔で「やっと来たか。早く来い早く来い」と手招きして呵呵と笑った。越前屋の接待相手はどうやら二名らしく、一人は四十くらいの短小で底意地の悪そうな顔をした男と、あの銀髪の男だった。二人にはそれぞれ女郎がついており酌をしている。銀髪の男も口に寄せた盃を止めて梅を見て驚いた顔をしていた。
 柏木は越前屋の隣に座り「お待たせして申し訳ありません。重三郎様」と上目遣いに笑い徳利を持ち上げると、越前屋は嬉しそうに笑って盃を差し出した。
 梅は何事も無かったかのように座敷の隅に座ると三味を手に手にする。芸者が踊り幇間が場を盛り上げると、越前屋が「柏木、こちらのお二人は天下に名高い腕の良い職人さんだ。うちで品物を扱わせていただくことになってね。格別な待遇をして持て成してくれ」と職人を持ち上げた。
「まぁ、何を作ってらっしゃるの」
 銀髪の隣に侍っている女郎が好奇心を丸出しにして聞くと、「俺は簪や櫛なんかの髪飾りを手掛けていて、こちらは煙管の技巧士殿だ」銀髪が酔いの回っていない顔色で応えた。
 短小の煙管技巧士の表情は隠すことなく不機嫌面だ。酌をしている女郎が話しかけても一切応えない。酌を受けても手つきが乱暴で自棄になっているようだった。良いがまわっているらしく、赤黒い顔で辺りを見回し、その眼が梅を見遣った途端、止まった。
 まずい。と咄嗟に思ったが、越前屋の相手を放り出すわけにはいかない。越前屋にしな垂れかかりながらも目線を散らせる。
 煙管の技巧士は立ち上がり、女郎を押しのけると梅を呼んだ。梅はためらったが、再度呼ばれて立ち上がり、技巧士の方に歩いていく。技巧士は直ぐ傍まで来た梅の手首を掴んで引き寄せた。梅が短い悲鳴を発する。場は盛り上がっていて、梅の悲鳴は掻き消える。技巧士の手が梅の着物に手をかけた。帯を解いて、着物を強引に左右に裂く。梅の白い肌が露になった。
 梅は客の前で脱いだことなど一度も無い。この行為は明らかに御法度だった。だが、越前屋の手前、柏木は注意を喚起することも出来ない。芸者も幇間も気付き出したが、どうすればいいのか分かりかねた表情で踊り歌い続けている。二人の女郎は呆然として、梅の裸体を眺めていた。
 梅の顔面が蒼白になる。月の物の日らしく、股には折りたたんだ半紙に紐をつけて固定させていた。それを見て技巧士は下卑た笑みを浮かべる。
 その時、鋭い音がした。
 成長途中の胸に触れようとした芋虫のような短い手を叩いたのは銀髪の男だった。
「触るな!!」
 怒鳴ると同時に煙管の技巧士を殴り飛ばし、梅の着物を急いで直す。梅は表情を無くした顔で、銀髪が着物を直していくのをただ呆然としていた。
 銀髪は奥歯を噛んで悔しそうな顔をし、梅の髪の上の簪を見つけて切ない顔をした。
 梅はそれに気が付き俯くと、泣きそうな顔をした。その顔は長いこと傍に居て柏木が初めて見た梅の表情だった。
 








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