迎花


笹月



 笹月は回廊を駆けて行く梅を見つけて睨み据えた。
 梅の白い肌や細い足首、その瞳はまだ汚れを知らないようであった。その事実が耐えがたく、歯噛みする。日が当たっているわけでもないのに、梅の表情はいつでも灯りが燈されているようで、懐に仕舞っている簪を無意識に握った。
 笹月は先日突出しをした。十四歳だった。笹月は十一歳の時に吉原に売られたから禿期間が無かったのと、容姿が優れないことを理由に、先日、狒々爺相手に花を散らした。終った後、悲しくて辛くてずっと泣いていたら遣手に叱られた。ひどい罵声を浴びせられ、その日から廻し部屋で客を取らされている。突出しも道中突出しではなく、見世張突出しで、姉女郎のいない笹月の突出し費用は内所から出る。そのため、質素で花の無い突出しだった。同じ風に突出しした留袖新造仲間達は己の境遇を既に諦めているようで、今は大部屋で不貞寝している。大部屋は部屋を持たない遊女の雑居部屋になっていて、夜になると割床になる。寝具が敷かれてあるだけで、何一つない殺風景な部屋だ。寝床の仕切りは廻し屏風なので直ぐ近くで自分以外の遊女の喘ぎ声や煽り声、客の呻き声や下卑た声を聴きながら花を散らす。遊客も生理現象を消化するためだけに登楼するからひどい扱いを受ける。使える部位は全て使って奉仕せねばならない。躰と心を切り離して、ぎゅっと目を瞑り痛みをやり過ごす苦痛に、死んでしまいたくなる。
「私たち中級以下のもんの行く末なんて知れている。どうせ、投げ込まれるのよ」
 中級以上の遊女だって死ねば投げ込まれる。だが、座敷も部屋も持って、楼主や番頭の覚えもよくちやほやされるのと、全く見向きもされずに客を取らされるのではぜんぜん違う。
 梅とは同い年なのに、笹月と梅には決定的な差があり、見世で持て囃される梅に笹月はいつも比べられる。あっちはあんなに器量よしなのに、お前はだめだなぁ。一体何が駄目なのか笹月は分からない。顔は生まれつきだし、いきなり連れてこられていろいろ教えられても全く呑みこめない。どうすればいいのか途方に暮れるまま年月だけが経って突出しさせられたのだ。
 教養が身につけ愛嬌を振りまき游客に気に入られれば、座敷持ちになれる留袖新造もいるにはいる。花魁や見世の者に目を掛けて貰えれば待遇がよくなる新造はいくらでもいる。だが、笹月は自分の境遇の不幸な嘆きから抜け出せずにいた。何をしても気がそぞろになり、無気力になる。明日には誰かが自分を助け出してくれるのでは無いか、と何の根拠もなく期待しては、昨日と変わらぬ今日に咽び泣く。そんな日常の中、梅に対する憎しみだけが笹月の中で巣食って肥大していった。梅はあと三年ものうのうと暮らしていけると思うと身の内から殺意が湧いた。どうにか蹴落とせないかとそればかりを考えている。
 むしゃくしゃした思いでいると、遣手が階上から降りてきて笹月を見下したような目で見てきた。嘲笑の眼差しを受けて、笹月の頬は朱に染まった。簪を殊更強く握る。
「昼見世の時間だよ、早く行きな」
 どうせ田舎者の冷やかししか来やしない。そうは思っても返事をして昼見世に出る。昼の吉原は夜とは打って変って静かだ。遊女達も町並みですらも欠伸をかみ殺している。中には化粧をしたり、馴染みに文をしたためている者もいる。昼見世は夜見世ほど番頭の目も厳しくない。格子の向こう側で、遊客が嗤う。笹月は俯く。だれか、助けて。ここから出して。私はここにいるべき女じゃない。私は、もっと普通の女だったはずなの。ここに居るような女じゃないの。お願い、私を出して。誰も笹月の心の嘆きに耳を貸してくれない。心を寄せてくれない。静かな吉原で、格子の向こう側に、遊郭の向こう側に思いを寄せる。元居たところに、帰りたい。格子から差し込む日の光が眩しくて溶けそうになる。
 奥部屋から三味線の音が聴こえてきた。楼主に引込新造が稽古をつけられているのだ。笹月は簪を握る。鋭利な先端で掌を傷つけた。

 お職を張っていた柏木が死んだのは、笹月が水揚げをしてから二ヵ月後の事だった。
 妓楼を照らす夕暮れが恐ろしいほどに鮮やかな日だった。揚屋に向かう時間になっても柏木の姿が見えないので、見世の衆は慌てふためいて騒々しかった。笹月は風邪を引いていて重い頭を壁によっからせながらその騒ぎをぼうっと聞いていた。それから半刻、血相変えた中郎が要領を得ない叫び声を上げて何事かを楼主に伝えた。楼主は番頭と見世を駆け出して行き、そのまま暫く戻らなかった。
 笹月が柏木の死を知ったのは翌日だった。投げ込まれたんだって、と同じくらいの位にいる遊女が神妙そうな、だが、喜悦を少し交えた囁き声で言った。土左衛門だってさ、見る影も無かったらしいよ。もうすぐ年季だったのにね。
 笹月は俄かに絶句した。信じられなかった。あんなに気高くて美しかった柏木が、同じ女だとは思えぬほどに造作の整った柏木がなぜ死ぬのか、どうしてあんな薄汚れたお歯黒どぶで死ななければならないのか。笹月は柏木の花魁道中を眼にしたことがある。その壮美さに嫉妬よりも溜息が漏れた。三ッ歯の高下駄で、裲襠姿で八文字を踏みしめる柏木は提燈の灯りを受けて光り輝いていた。禿や振袖新造などを引き連れて堂々と通りを歩くさまはまるで夜の姫のようだった。絢爛豪華という言葉がよく似合った。柏木はあの夜の、あのままの柏木が背中から入水するところまでしか想像できなかった。実際は違うと分かっていても、それほどまでに笹月には、凛々しく気高い柏木の印象が強かった。
 後で分かったことだが、柏木は髪結いと入水したらしかった。その髪結いなら笹月も知っている。三十そこらの若い色黒の男だ。髪結いは柏木の間男だった―――――――――――あんなにお大尽を抱えていたのに、なぜ。身請けの話も来ていたのに、なぜ。どうして非業の果てに進むのか。
 煮え返らないまま半月が過ぎたとき、江戸町一丁目の通りで梅と出くわした。笹月が睨むと、梅は横目でそれを受ける。梅は柏木が死んでも特に悲しむ様子を見せなかった。あれだけ世話になっておきながら柏木の死を知った日も平常通りで飄々としていた。聞けば柏木の遺体を前に「姐さん、良かったね」と零したらしい。
 梅が手に持っているのは簪だ。ぎやまんの飾りが施されている。笹月はふつふつと湧き出す怒りを抑え切れなかった。
「あんたは! 姐さんが死んで悲しくないのか!」
 気がつけば叫んでいた。往来にいる人の目が集まっても笹月は止まらなかった。
「この、薄情者! あんたのその澄ました面が苛立つ!」
 血液が沸騰する。眉間が熱い。込み上げるものがあって、怒りながら笹月は涙を流していた。悪口罵声を浴びせながら、ぼろぼろと泣いていた。
 梅は瞬きをして、そんな笹月を静かに眺めていた。なんの感情も窺わせない。深い眼の色をしていた。この時、初めて笹月は梅の瞳の色が群青色であることを知った。激昂する笹月を前にして梅はどこまでも静謐だった。
「笹月、あんたは恋をしたことがないのね」
「恋?」
「私の姐さんは恋をしていたの。成就したのよ」
 梅は云うと、微笑んだ。それは笹月に向けた微笑ではなかった。死んだ柏木に向かってでもないような気がした。誰か他の人物に向けた微笑であるような気がした。梅はそれだけ云うと、千事屋の方角に歩いていった。その時、初めて笹月は生きなければならない、と思った。この苦界で生きていかなければならない。割り切ると、呼吸が幾分楽になった。ずっと痞えていたものが取れて、目の前の視界が途端に鮮明になった気がした。
 砂利を踏みしめて梅とは反対の方角に歩く。その時、男とすれ違った。いつからこの往来に居たのか、目立つ銀の色の髪をしていた。まるで脇を風が通り抜けたかのようにすれ違って、振り返ると、梅も、その男の姿ももう見えなかった。足元に何か落ちている。拾い上げると、飴だった。その飴を握り締めて、笹月は遊郭の往来を見渡す。そして、ここが自分の居場所なのだと溜息を吐いた。







Copyright(c) 2013 all rights reserved.