足元の下駄の音を聞いていた。そこだけ砕石が埋めまれた地面を踏んで、カランコロンと鳴る音を繰り返し聞いていた。耳障りが良い音だと冬月は常々に思う。
 冬月はその日いつものように、浅草寺の明け六ツの鐘の音を聞いて慌てる遊客に素早く帰り支度させ、後ろから付き添い大門口まで送り、後朝の別れを済まして戻ってくる姐女郎を待っていた。姐女郎は香蘭といった。綺麗で儚気な面影の遊女だ。
 砕石を蹴る。突き出た箇所を執拗に蹴る。
 冬月はよく足癖が悪いと楼主に叱られた。それでも、砕石を下駄のつま先で蹴る癖が抜けない。手持ち無沙汰で待っている時、こうやって退屈を凌ぐ。いつか砕石がさらに細かく砕けて無くなってしまえばいいと思っていた。
 そうやって待っていたが、その日に限って香蘭はなかなか戻ってこなかった。何かあったのかもしれないと密かに案じだした時、朝靄の向こうに影が見えた。思わず名を呼ぼうとしたが、その影は香蘭よりもずいぶん小さかった。他の見世の遊女かな、とも思ったが、冬月の妓楼「角や」は角町どおりの小見世で羅生門河岸に程近い。この界隈に後朝の別れを惜しむ遊女はほとんどいなかった。遊客も射精さえできればいい、という者が多く、情事が終ればそそくさと帰っていった。冬月の姐女郎、香蘭は数年前、大見世の花魁だった。だが、罹った病が悪化し、病床に臥す日が多くなり、角やに移ってきた。
 姐さんはもう永くない。
 冬月は香蘭の衰弱が日に日に重くなるのを悟っている。
 靄の影が近付いてくる。目を細めてそちらを窺う。冬月はその場をじっとしていた。
 影は一定の距離でとまった。もう、影ではない。どこかの姑だ。そして、香蘭よりも随分と歳若い。また、こちらに歩いてくる。姑は、冬月を見据えていた。覚えの無い顔だった。ここら辺の妓楼の姑ではない。
「名前は?」
 姑が云った。静かな声だった。冬月よりも年上で、着ているものが上等だったから、大見世の姑だろうと見当をつける。花魁の格好ではない。きっと、新造だ。
「冬月」
「客は取ってる?」
「まだ」
「いつからここに?」
 驟雨があがり、雲が裂け、思わず見上げてしまうほど月が煌々と照らす夜に、女衒が冬月を連れてきたと、何かの折に楼主に聞いた事があったが、おそらくそれは女衒ではなくポン引きであろうと冬月は見当をつけている。この角やの楼主は筋金入りの吝嗇で、女衒から子供を買うところを見た事が無い。どっかから連れ去ってきた子供を安価で買って見世に出すのだ。本当なら冬月はもう客を取らされている。冬月より年少の姑で、客を取っている姑がもう既にいるからだ。冬月がまだ花を売っていないのは、容姿が優れているからだ。もったいぶって値段を吊り上げ、そうしてから客につかせる。だから未だ処女でいられた。
「四つくらいの頃」
「そう。冬月、ちょっと来て」
 冬月は周囲を見回して人目が無いことを確かめると、姑に近付く。姑は梅の花のようなとても良い匂いがした。内緒噺するように、姑は唇を冬月の耳元に近づける。くすぐったいのを我慢した。
「もう少しすると、仲の町通りの行き止まり、水道尻の近くの桜の木から出火する。きっと吉原中の人々が右往左往するから、そうしたら迷わず九郎助稲荷の前に来て。約束」
 姑は唇を離して冬月に微笑むと素早く踵を返す。冬月は姑の後姿が自分から十歩くらい離れてから「名前は?」と訊いた。もっと他に訊きたい事があったが、咄嗟に出たのがそれだった。姑は首だけを少し傾けた。そして、ちょっと間を空けてから「トシ」と口にする。次の疑問を口にしようとすると、まるで冬月の疑問を攫って行くかのように突風が吹いた。思わず目を閉じて、再び開いた時にはトシはそこにはもういなかった。目を閉じる瞬間、トシの少し先に人影が視えた気がした。
 夢を見ていたのかもしれないと、目を擦って再び前を見ると、霧の消えた向こうから香蘭が歩いてきていた。香蘭は冬月を見ていつものように微笑み、冬月は駆け出す。
「遅かったね」
「ええ、ちょっとね・・・・・・・・・あら、冬月、あなた素敵な髪飾りをしているわね」
「え?」
 結っている髪に触れると、そこにはさっきまで無かった硬い感触がある。引き抜くと、それは赤手塗の平打簪だった。模様は小振りの梅で、上等な品だ。
「よかったね」
 香蘭は柔らかく笑った。なにもかも見通したような笑顔だった。冬月はどうしてか胸が苦しくなる。抱きつくと、香蘭からは煙管と男の匂いがした。

 その日の暮れ六つに、吉原を震撼させる出来事が起きた。火に見櫓の鐘が鳴り響き、拍子木の乾いた音が繰り返し聞こえる。火災が起こったのである。冬月は部屋にいた。火災だ、と分かってもよろよろと立ち上がることしかできなかった。襖が突然開いて、悲鳴が聞こえる。のろのろと振り向くと、冬月の手を誰かが掴んだ。掴んだのは香蘭だった。何時もより一層、青白い顔をしていた。具合が、悪いのだ。
「姐さん、身体―――――――-」
「逃げるよ」
 香蘭は珍しく厳しい顔をして叫んだ。叱られているようだった。
 香蘭に連れられて、見世から出る。轟々と唸りをあげる炎を仰いで、冬月はなぜか、綺麗だと思った。蛮声や阿鼻叫喚を聞いた。幾多の足音を聞いた。向こうに、逃げ急ぐ人達が走っている。冬月は目に映る出来事が現実に起こっていることだとは思えなかった。遠い出来事であるような気がしていた。 香蘭は冬月の視線に腰を落とすと、一層、頑なに云った。
「冬月、九郎助稲荷に走りな」
「姐さんは」
「私は行かない」
 冬月はそれを別離だと分かった。縋るように震える両手で炎を背後にする姐女郎の肩に触れようとしたが触れる寸前に払われた。初めて香蘭に拒絶された。行き場を失った手が冷えていく。熱風で熱いのに、喉が痛み、身体の心が冷えて涙が零れた。香蘭の額から汗が零れる。姐さん、具合が―――――――――――具合が悪いのだ、姐さん―――――――――――
「冬月、走りな」
「いやだ、姐さんも・・・・・・・・・」
 香蘭の手が振り上げられる。瞬きする間も無く頬を打たれた。手を上げられたのも初めてだった。その時、自分に起こってる出来事が全て現実であることに気が付いた。目が覚めるような、視界が開いたような感覚に自分の身の内に色んな感情が湧き上がるのを感じた。
「早く!!」
 心臓が早い。火の気が迫ってくる。煙い。
「冬月、走れ!!」
 香蘭の怒声に足が自分の意思とは裏腹に後退する。熱い、熱い。怖い。
「走りな!!」
 冬月は、踵を返して走り出した。
 仲の町を逆に行く。もう、この辺は人気が無い。当たり前だ、皆、大門に向かうのだ。焦げた臭いを嗅ぎながら、眼に涙を浮かべ、走る。振り返るな、と背後で香蘭が叫ぶ。角町の角を曲がり、京町二丁目に差し掛かると身体が急に宙に浮いた。腰を抱えられている、と気付いた途端に地面が遠くなった。呆然として横を見ると、銀色の髪をした男が悪戯っぽく笑っていた。
 あっという間に、お歯黒溝の塀を越えて、着地の衝撃を感じる。吉原から出た、という事実が信じられなかった。
 周囲は田地だった。男に下ろされて、自分が裸足でいることにその時初めて気が付いた。男はしゃがみ、冬月と目線を合わせる。見世に来る男とは違う気色の男だった。若いし、下卑た感じがしない。それに、捉えどころが無い目をしていた。冬月は目を見ればその人の人となりが透けて見る事が不思議とできた。この男は窺い知れない。
「真っ直ぐ走れ」
 男が指を差す。その方角の遥か先、木の根元に誰かいる。
「あいつがお前を待ってる」
 優しい眼をしていた。冬月が「あんたは?」と訊くと男は冬月から少し離れて、助走をつけて飛躍した。まるで、鳥みたいだ、と思った。
「俺の花がまだ郭内にいるからな。迎えに行かねェと」
 くつくつと笑いながら、男の身体が吉原に吸い込まれていく。そういえば、とその時気が付く。男からは、梅の匂いがした。
 冬月は懐から取り出した平打簪を握り、駆ける。
 濡れた足下の草が、澄んだ空気が、溢れる涙が冬月を内側から濡らす。駆け抜けた先に何があるかは分からない。だけど、きっとどこかに戻れるのだという気がした。
 駆けて、駆けて、駆けて、目指した木の下の男が笑った。記憶の片隅に光が差す。
 顎に髭を生やした厳つい男は、腕をいっぱいに広げて「そう」と叫んだ。そうだ、遊郭から出たのだ。それならばもう、遊女ではない。冬月はただの女だ。
 気がつくと、総は男に向かって濡れた顔で笑っていた。