悲願



 その日は珍しく沖田が副長室を訪ねてきても追い出される事はなかった。
 雪野対馬は書類整理の手を止めない。これは簡単な雑務で隊士達の提出した書類に誤字や脱字が無いかを確認するだけである。処務に集中した格好をしながら耳だけで話を欹てる。
「ここ四ヶ月で隊士が巡回中、五人も殺されてやすぜ。しかも古参の隊士、夜勤の見廻りで」
「気付いてる」
 灰皿に煙草の灰を落としながら土方が溜息を零す。雪野とは仕事上の会話しか土方はしない。沖田とするように眼を見て話す事も殆どない。何をどうすれば土方が打ち解けてくれるのか未だに分からないでいた。
「今までも隊士が巡廻中に襲われる事はありやした。でも、狙ったように古参の使える剣客が殺されてやす。こりゃなんかありやすぜ」
「山崎に探らせている。うちの情報がもしかしたら露見してるかもしんねェ」
 沖田が脚を崩して身体より後ろに手をつく。膝を立てると着物が捲れ上がり容の良い脚が見え隠れした。
「どうもきな臭ェ。土方さん」
「苛つくのは分かる。抑えろ」
 驚いて沖田を見た。とても苛ついているようには見えなかったからだ。声に抑揚が無い。いつでも悠然閑々としている沖田が見せているのは半笑いという表情だ。嫌な面だ、と雪野は書類に目を戻す。
「俺ァそろそろ限界でさァ、死体の検分報告聞きましたかィ」
「胸を突かれた後、顔を斬られてるってな」
「滅多刺しでさァ、俺はああいう下らねェ斬り方がいちばん嫌いでねェ」
 沖田が膝立ちになり、腰に差していた差し前の鯉口を切り、怒りの気を見せた。白く青い靄が部屋中に散りばめた様な感覚に、雪野は圧倒される。刀を握る時の沖田の顔は普段とは違う。まるで狂った獣だ。
「この件に関わった敵の奴ァ、全員殺しやす」
 一瞬、視線を感じた。沖田を見たが、こちらは見ていなかった。悪寒が走る。
「ま、という事なんで、俺はこれで」
 ふっと嘘のように力を抜いて、立ち上がりかけた沖田に「総悟」と土方が声をかける。「なんですかィ」と平静通りの声で沖田が聞いた。
「明日、俺は数人の隊士連れて日置の港に行く」
「攘夷浪士が下船してくるっていう」
「そうだ。監察方はもう現地に行かせている。確かな線らしいんでな」
「何人持っていきやす」
「四番隊と六番隊」
「近藤さんは」
「近藤さんは屯所に残ってもらう。頼んだぞ」
 ふっと沖田が表情を和らげた。「あんたに頼まれんのは生簀かねェなァ」
「四日で戻る」
 沖田が「わかりやした」と言った。その後に「待ってやす」と続けたそうな気がしたが、言葉にしなかったので分からない。自分には待っていてくれる人はいるのだろうか、雪野はそう考えて、ひどく寂しくなった。
 沖田が部屋を去ってから遠慮がちに口を開く。
「あの、副長」
「もう上がっていい」
 やはり、眼を合わせてはくれなかった。書類を束ねて、のそのそと立ち上がると「雪野」と声を掛けられた。振り向くと、土方が真っ直ぐな瞳と眼が合う。顔が火照るのが自分でも分かった。きっと気付かれている。隠したいが、あまりにも距離が近い。
「お前は明日俺と行く」
「日置へ」
「そうだ。差し前を明日渡す」
 片膝を立てて煙草をふかす様は色気に満ちている。着流しをかったるく着こなしているのが妖艶に磨きをかけていて、眼のやり場に困った。特に意識もしてないだろうに、振舞いが滑らかだ。土方のこういったあけっぴろな姿は気を許した者の前でしかしない。雪野は一瞬期待したが、直前まで沖田が居た残り香が残っているのだ、と思い当たって落胆する。
「行け」
 顎でしゃくられ襖を開ける。閉じる間際に、「若ェ」と土方が呟いたが、襖が敷居滑りを通る音で上手く聴き取れなかった。

 港は人気が多く、商業が盛なようで呼び込みの声が絶えず聞こえ続けている。物珍しい物売りも居て、雪野は落ち着かなかった。貿易船が何隻も停留している。船を間近で見たのも生まれて初めてだ。
「雪野、珍しいか」
 隣を歩いていた土方に問われて赤面する。「いいえ」と小さい声で答えたが、悪戯っぽく笑われた。
 日置に来てから土方は上機嫌だ。雪野は相手にしてもらえて嬉しさと戸惑いが綯交っていた。引き連れてきた隊士の多くは巡廻にまわっている。土方と行動を共にしているのは雪野と監察方一名、それに中堅の隊士四名だ。
「あっちに見廻り組の連中も来てる。一声かけてくるからお前らはここにいろ」そう言って、土方は歩いて行ってしまった。後ろ姿が米粒になる程見送って、それから息を吐く。人々の熱気が身体に纏わりついていた。何ヶ月も屯所の中でしか生活をしてこなかったので人混みに酔いが回ったかのように身体がふらふらする。
「副長の小姓か」と、監察の背の高い男が声を掛けてきた。
「あ、はい」
「羨ましいな」と、男は苦笑した。
「私がですか?」
 驚いて訊くと、その男は「俺は土方さんを正直怖いと思っている。だが、それと同時に幹部の中では一番好きだよ。あの人のためなら死んだっていいと思ってる」迷いなく、言った。この背の高い男が言うように、土方は隊士の多くに嫌われているが、土方に骨抜きにされた隊士が多いのもまた事実だ。
「私も副長が好きです」
 これは、すっと喉から出た。出した後で驚いた。長身の男は分かり得たように頷く。角ばった顔をしているが瞳は優しい。
「あの人は、不思議だよ。一度惚れたら終わりだ。ぐいぐい引寄せられる」
「あの、あなたが山崎さんですか?」
 男は一瞬不意を突かれたような顔をしていたが、違う違うと顔の前で手を振った。
「山崎さんはもっと地味だ。いや、これは褒め言葉だよ。あの人は何にでもなれるし何にでも馴染む。土方さんには局長や沖田隊長の次あたりに信頼されてるんじゃないかな。俺は島田っていうんだ、でもなんで?」
「私は一度も山崎さんをお見かけした事が無いのです」
「山崎さんは動きまわっているからな。事件や攘夷志士の気配があれば屯所には殆どいない。隊の中でも土方さんとしか連絡をとらないことだってある」
「そうですか」
 土方は戻ってくると「ここは見廻り組に任せよう、俺たちは寺子屋や旅籠屋を張る」そう言って先頭をきる。迷いなく歩く姿に目を細める。土方の近くを歩きながら、この人は護るものがはっきりしているからブレがないんだ、と思った。自分の矜持、盟友、意地。何があっても変えない信念。信じるものは至極近くにある。
 遠い。
 近くに居るのに土方は遠すぎる。内側に入るには敷居が高すぎる。迷いなく進めるその生き方は真似できるものではない。
――――――――総悟
 沖田を呼ぶ声と雪野を呼ぶ声は決定的に違うものがある。それは、情の重さだ。声一つでどれだけ相手を信頼してるかが分かる。近藤も土方にとっての大事な者の対象だが、沖田と近藤の呼び方は微妙に種類が違う。近藤へは敬慕、沖田へは親愛だ。
 考え事をしていたせいか、足元がふらついた。腕を掴んで支えてくれたのが土方だった。
「前を見ろ」
 見上げて「はい、申し訳ありません」と謝る。俯いて唇を噛んでから、それでもこの人の傍にいたい、と思った。
 美川屋という旅籠屋に落ち付いた。大通りに面していたので、動き易いだろう、と前からこの宿をとることを決めていたようだった。土方は一人部屋をとり、あとの隊士は三人で一部屋だ。
 監察と隊士が土方に付近一帯の巡邏を命じられて飛び出していったので三人部屋に雪野はぽつんと一人でいる。窓から外を眺めたら、落ち着いたせいか、眠くなってきた。暫くうとうとしていたが、やがて眼を閉じてしまう。少し眠ったようだった。慌てて起きると人の気配がする。振り向くと、土方が立っていた。
「寝ていたのか」
「あ……すいません。熱気にやられたみたいで」
 頬が紅潮してしまう。だが、気がつくと土方の顔も鮮やかな赤に染まっている。それだけではない、窓から茜色が部屋を照らしている。夕焼け空だ。怖いぐらいの赤い世界に立たされていた。
 スッと土方が腰の刀を抜いた。やはり挙動が滑らかで、雪野は反応ができない。刀を扱う土方もひどく色気に満ちている。こうして見惚れて命を落とした男もいるのではないだろうかと勘ぐってしまう。
 刀の切っ先が喉元に向けられても、鈍くしか反応ができなかった。
「お前、加減しただろ」
 一瞬、何を言われたのか、分からなかった。
「入隊試験、総悟に太刀打ちしなかった、ありゃ嘘だろ」
 刀は喉元に向けられたまま、ピクリとも動かない。少しでも押されれば喉が切れる、それが分かっていたが気持ちは穏やかだった。
「沖田隊長の気迫に動くことすら、ままならなく」
「テメェ、何者だ」そこで初めて土方が咥え煙草をしていた事に気がついた。「こうして剣先向けられてもビクともしねェ、弱い振りしてんのは分かってんだよ、最初から」
 夕焼けはそのうち闇に変わる。
「山崎を探ってるらしいなァ」眼の奥に狂気を感じた。沖田と同じ匂いがする。それが、不快だった。「どういうつもりかしらねェが、敵なら容赦しねェ、こっちは仲間殺されてんだ」
 刀が首元から離れる。手入れの施された太刀は刃先が鋭く光っていた。土方の刀の手入れはの仕方は絶技に近い、相当手先が器用な事が窺える。無駄のない動作で刀を鞘に仕舞うと、土方が嗤った。
「まぁいい、今は確固たる証拠がねェからな」
 部屋を出ていく土方を目で追いながら、なんで殺さないんだろうな、と考えていた。証拠ならとっくに掴んでいるだろうに、沖田もおそらく気付いている。今回の遠征はおそらく、雪野を囮にその仲間を芋蔓式に根絶するためだろう。
 手札をこんなに明かしているのに、ここまで生かされている意味が分からなかった。
 数日前に真選組に自分と同じように潜り込んでいたものが斬首されている。
 雪野は土方に惚れてしまった。
 間者の御役目を蔑にしていた。それでも情報は間者の仲間が生きていた時は一応流した。皆が寝静まった頃、手の平に握った密書を仲間に回すと云うかたちで。だから真選組古参の隊士、五人の死体ができた。
 行動は大胆にした。自分が間者だという事をばれるようにしてきたのだ。
「殺してくれりゃあよかったのに」
 そうすれば、いつまでも土方の傍に居られる。死に場所と死に方だけは決めていた。そうするために動いてきた。これからもそのつもりだ。
 腰の差し前を抜く。
 はっきり言って、真選組平隊士には負けない。
 最後はあの人と剣を交わって死ぬのだ。