悲願



「殺すぜ」
 暗闇を背後に携えて嗤う男を心底憎いと雪野対馬は思っている。
 先程から途切れる事も無く聞こえ続ける潮騒が心臓を急き立てて、身体中の血液が流れる感覚を妄執している。辺りは全て暗黒だが、不思議と目の前に対峙する男の身体は明瞭に視えていた。腹に響く太鼓の音がどこかから聞こえ、潮騒と入り混じって焦燥を急き立てる。
 耳鳴りがするほどに不快な音だった。
 首元が痒い。爪を立てて掻けば一時は治まる。だが、またすぐに痒みはやってきた。雪野は首から手が離せない。丸腰であった。そこを斬られるのを避けたい心の現れでもあるようだった。
 男が嗤う。殺人鬼の眼をしている。いや、そうではない。この男は、刀を持つと本来の姿を現すだけなのだ、決して殺人を好んでいるわけではない。人を斬る事を躊躇わないだけだ。殺生の感覚、そのものが抜け落ちている。だからこそ、刀を持つ男は無邪気すぎて完璧だった。何の迷いも無く、一太刀を振るえる。
 収まる鞘の無い刀を、真っ直ぐ雪野に向けている。光なんてどこにもないのに、切っ先が反射していて、招かれているようにすら感じる。容易く想像できた。きっとこの男に斬られて事が切れるのは一瞬なのだろう。まるで肉体が刀を呑みこんでいるかのように鮮やかに剣を振るうのであろう。
 目の前の男の瞳には雪野が映っていない。直ぐ前に居るのに、この男の眼を捉えている人物は全てを通り越してたった一人に他ならない。憎悪も真愛も全てを傾けるのは一人だけだ。この男は本物の悪人だ。そして、土方も。
 半端な悪ではない。完全なる悪。
 刀が、動く。沖田が刀と一体になる。雪野は身動きが取れない。斬られる、と漠然と感知したその時、沖田が動きを止める。刀の切っ先は雪名の鼻の目前で奇蹟のように止まった。
「まだだ」
 その声は沖田の背後から聞こえた。制すその声は、ひどく優しい。沖田に向けられた優しさだ。
「総悟」
 気付けば、刀を振りかざそうとする右手首を掴んでいる。長い指先が沖田をそれだけで止めている。
 沖田の瞳から狂気が抜ける。獣めいた気配が抜けて人になる。刀がゆっくりと引かれる。
 そこで、眼が覚めた。

 蒲団を蹴って跳ね起きていた。全身に汗をかいている。尋常な量では無かった。身体に着物が張り付いている。顎から垂れそうになるのを拭うと、息を止めていた事に気づく。大きく呼吸して、辺りを見回した。
 旅籠の一室だ。結局、今日は殺されなかった。
 鼻腔に潮の臭いが残っている気がしたが、それは気の所為だったようだ。畳と深夜の匂いしかしない。少し離れた位置に二つほど蒲団が敷いてあり、そのうち一つが盛り上がっている。誰だったか、と名前を思い起こそうとした。
「悪夢でも見たか」
 声がして驚いて振り向いた。唐突だったので殺気付いていたかもしれないが、隠すことをしなかった。
 隊士が一人、窓枠に腰を掛けてこちらを見ていた。背後には月が虚ろに浮かんでいる。雪野の殺気には気付かずに男はふらりと立ち上がりこちらに歩いてくる。一瞬身が凍るほどの恐怖を感じたが、次の瞬間にはもう諦観していた。刀の位置を確認しようとしたが、それも止めた。脳に誰かの金切り声がする。その声は随分昔の自分の声だったが、雪野は自分が殺した誰かの声とすり替えていた。
「俺が慰めてやろう」
 男が下卑た笑みを浮かべる。雪野はただ目を閉じた。身体を手が這いずりまわる感覚も唇を吸われる感覚も性器を扱われる感覚も全てが滑稽だった。何人もの男を知っている身体は感情とは反比例するほど快感に敏感にできている。心はいつも冷めきっている。男所帯では性的に気狂う者が必ず出てくるのだ。顔が女性的であればその餌食となる。衆道は武士の嗜みとも言われている。主君には逆らえない。雪野は十代の前半から自分の藩主の男の玩具だった。両手脚はいつも手枷で不自由だった。着物は着せてもらえなかった。狭い部屋の狭い窓からいつも空を眺めていた。人間は順応性が優れている分、簡単に堕ちてしまうものなのだ。雪野には藩主しかいなかった。藩主はどうしようもないくらい醜悪な容姿をしていたが、いつのまにか愛していた。
 真選組隊士のペニスが雪野の中で暴れる「お前慣れてんな」「どんな男を相手してきたんだよ」素直に応えてもよかったが黙ったままでいた。
 藩主を刺したのは、自分を追い出そうとしたからだ。ずっと閉じこめていたくせに障子に穴を開けるような簡単さで外の世界に弾こうとした。だから短小で胸を一突き刺して逃げた。逃げて逃げて逃げて広い世界を知ると、藩主の事を愛していたことすらどうでもよくなった。心臓を狙い、刺しながら抉ったからもう生きていないだろう。人を殺した、という罪悪感はどこにもなかった。その事実さえも夢みたいにあやふやだった。行くあてもなく襤褸雑巾のような乞食に成り果てた雪名を拾ってくれたのが短州藩の酒井弘道という男だった。酒井は親切な男だった。剣術や文学、軍師を習わせてくれて、夜は夜伽の相手をした。酒井は陰萎だった。たまに酒井の目の前で数人の男に犯される事はあったが、それは別に嫌ではなかった。
 酒井が喜ぶのなら構わぬ、と思っていた。
 酒井が攘夷の志を持っている事はすぐに知る事になる。そして、身軽で余所者の雪野が間者となり真選組に潜り込む事を推したのも酒井だった。厄介払いされたことは直ぐに分かった。酒井が妻を娶り養子をもらったからだ。
 酒井をどうこうしようという気はおきなかった。真選組、という組織に興味があったからだ。真選組は身分が関係のない実力主義の組織と聞く。百姓・町人・商人や諸藩の足軽の出の者もいて、近藤勲、土方十四郎などは武州出身の百姓の身分だ。だが、彼らは今では真選組の領袖。どんな人物なのだろう、と想像するのは楽しかった。
 土方十四郎には、初めて会った時から惹かれていた。不思議な男だった。見に纏う空気や瞳の冷たさ、人を無闇に寄せ付けない何かを感じて、圧倒的な何かを持っている。それは言葉にするなら完璧な悪だった。土方の傍にいると背中が何時もひやりとする、それが妙な心地良さを孕む。本当の悪党は滅多にいない。雪野はそう思っている。善人が欲を出すから世界はややこしい。いつだって世界を変えて創ってきたのは本当の悪人だ。土方はその気がある。真選組副長という身分が土方十四郎には窮屈なのではないか、とも思ったが、土方は満足しているようなのだ。近藤や沖田と組をどこに進めるか、それが彼の生きる道の全てであるようだった。
 限りなく欲が無い。情も深い。そして、孤独だ。
 最初、土方に会った時、何かを決意した気がする。だが、もう、何を決意したかも思い出せなくなっていた。真選組で過ごしてから、いろいろなものが雪野の身体の内部から抜け落ちていった。その一つに生きる気力があった。
 沖田総悟も悪党である。彼は土方とはまた違った方向で無邪気なほど残酷だ。沖田は感覚で生きている。だから、何者にも属さないし屈しない。それはなにか人間を超越した特別なものが沖田をまるで包み込むようにしているかのようなのだ。沖田の思考は常人には思いつかない遥か遠くにある。雪野は、だから沖田が嫌いだ。土方の事を抜きにしても沖田を憎んだだろう、とも思う。
 近藤勲は土方と沖田に比べれば善の方向に傾くが、二人の悪党を内包している男はまた一風変わっている。近藤を想像する時、雪野は嵐の前の静けさを思う。土方と沖田が嵐だとすれば、それを宥めているようにも面白がって止めているようにも思える。不気味な前兆、を感じるのだ。
 そういった大きいものを知ってしまったから、世界はより一層、色褪せた。現実に戻ると、体内で爆ぜた男の残滓が不快で仕方がない。
 雪野は死ぬつもりでいる。それは、雪野にとって生きる事より魅力的な事だった。
 四日後、江戸の屯所に戻る事になった。何名かの不逞浪士を捕縛したらしいが、興味が無かった。仲間も殺されたり捕まったかもしれないが、どうでもよい。雪野はどの道、もう間者としての役目を果たすつもりは毛頭無かった。
 雪野はこの四日特に何もしていない。旅籠の一室から外をずっと眺めていた。
 帰りの道中、土方の斜め後ろを歩きながら、自分はいったいなんなのだろうと考えていた。亡霊みたいに生きている。生きる目的も何も思いつかない。常に中途半端で足が地についていない。剣の腕には自信があるがそれを肥しに何かをしようと言う気も無い。ただ、斜め前を堂々としている土方に途方も無く惹かれている。
 蚊が、雪野の腕にとまった。ひどく注意力が散漫な蚊で、雪野が視ている事にも気付きはしない。白い雪野の腕に長い口吻で皮膚を突き刺す。潰そうとして、止めた。暫く様子を見よう、そういう気になった。血を吸い終えた蚊が飛び立つ。そこを狙って潰した。右手を開くと動かなくなった小さな黒い死骸と、潰れた拍子に溢れた赤血がこびり付いている。それを無感動に眺めて払う。視線を感じて前を向くと、土方の鋭い視線と目が合った。
 土方は何も云わずにまた、前を見る。雪野は孤独に襲われていた。
――――――――――――早く。
 身体の内側から悲鳴にも似た切羽詰まった声が聴こえた。空っぽの分、その音は切実だった。
 屯所に戻ると、刀を取り上げられた。土方に付き添おうとすると、副長室には来なくていい、とあしらわれた。立ち竦むと、近藤と沖田が廊下の向こうで待っているのが見えた。そちらに向かう土方はどんな顔をしているのだろう。後頭部しか視えないので、分からない。「よォ、お疲れ、トシ」「帰ってこなくてよかったのに」そうは言っても、近藤と沖田の顔は笑っている。
 雪野の背後には何もない。ぼんやりとした暗いものが迫っている。
 雪野は平隊士が使っている部屋に落ち付いた後、武器倉庫に向かった。守衛の目を盗んで潜り込み、適当な刀を掴むと、素早く出る。常々目を掛けていた内庭の梅の木の陰に刀を隠すと、広い空を見上げる。その途方も無さに孤独を感じる。それはじっくりと雪野を蝕み、もはや食い尽してしまった。
 翌日、誰もが寝静まっているうちに行動を移す。相部屋をしている者を起こさぬようにひっそりと行動をする。障子を開けて回廊に出る。外は未だ薄暗い。妙なぐらい冷静だった。夜目でも迷わずに歩ける。シンと静まった屯所が知らない場所のようにも思えたが、それは気のせい以外の何事でもない。内庭の梅の木の陰から刀を取り出し、鞘から抜く。手にしっくりと馴染み、笑みが浮かんだ。
 副長室を越えて局長室の前まで来る。襖に手を掛けようとすると、右頬のすぐ横に刀の切っ先が現れた。振り向くと、土方がいる。安堵した。
「近藤さんを手にかけようとするたァ、バカな奴だ」
 それは今まで掛けてもらったどんな声より一番優しい声だった。思わず刀を落としそうになるぐらい、切なくなった。
「結局お前は、何も見つけられなかったんだな」
 そうだ。雪野は何も見つけられなかった。何時の間にか静かに泣いていた。頬を通り過ぎる涙が妙な暖かさで、通り過ぎた後は少し痒い。土方は優しい人だ。孤独だが、内包した強さは揺らがない。強くて、切ない人だ。だからこそ、惹かれた。土方のようになりたいと思った。だが、近くに居ればいるほど、違いが目に見える。足掻いてももがいても離される一方だ。
「志もおぼつかねェ、信じるもんも何もねェ、どこにいけばいいのかも分からねェ、行動はいつだって不安定で揺れる。お前は馬鹿だ」
「お、れは………ッ」
 嗚咽になった。土方の声は雪野には優しく感じたが、その実、冷たく、眼つきは鋭い。容赦がない鬼の副長でしかない。
「確かなもんなんて何もねェンだ、誰かに導いてもらおうとするからそういう事になるんだ、諦めてばかりいるからテメェはダメなんだよ。信念とかそんなのは下らねェが、何かを決めたら、曲がってようが間違ってようが進むしかねェンだ。それだけの覚悟が無いんだったら何もするな」
 ふらりと視界の端に沖田が現れる。眼が合う。鯉口を切っている。瞳は狂気を孕んでいる。ゾクリとするほどに恐ろしい。
「雪野対馬、間者の罪で粛清する。剣を構えろ」
 土方の声に頷いた。
 庭に降りる。間合いを取って土方と対峙する。それは、雪野の意思だった。
 お互い、正眼に構えている。土方が地面を斬った。刀が落ちてきて交わす。右腰を狙うと、素早く機転をを利かせた土方の刀に遮られた。土方に力では叶わない。慌てて後方に飛び退く。今度は雪野が地面を蹴った。袈裟に斬ろうとすると、土方も同じように動き、刀が交わる。どうしようか、一瞬悩む。それが、運の尽きだった。内太刀の刀を受け止め力のぶつかり合となっていたが、土方はその力を利用し互いの刀の交点の下に入り受け流す。刀の抵抗に逆らわず捌かれた。視界から一瞬で消えたと思ったら、脇に衝撃が走った。袖返しをとられた。振り向くと、土方の刀の切っ先が目の前にある。腰を斬られていたが、動けないほどではない。だが、もう敗北は決定している。
 刀を手から落とす。ゆっくりと座り「斬ってください」と言った。腰の鈍痛が苦しい。
「最期も本気を出さなかったか」
 それが、雪野の耳に届いた土方の最後の声だった。
 吸いこまれるように、胸に刀が突きささる。首を撥ねられるかと思ったら心臓を突かれた。うつ伏せに倒れて、地面に生えていた草を掴む。
 土方が離れていく。
 意識が朦朧とする。
 沖田が、土方に寄る。
 土方が沖田になにかを喋っている。
 もう、聞き取れない。
 視界が曖昧になる。
 黒い背中が二つ、離れていく。
 振り返らずに歩いていく。
 恐らく最後の力で、土方の名前を呼ぶ。
 振り返らない。
 振り返ってくれない。
 最後の悲願は聞き入れられない。
 ひじかたさん、と沖田の声が聴こえた気がした。土方がその声に反応した気がした。幻影と混じっている事すら、雪野はもう分からない。
 雪野の瞼が閉じる。
 呼吸も止まった。暗い時刻だった。
 雪野の悲願は土に消える。振り返ったのは、土方ではなく、どこまでもその隣を生く沖田だった。