不朽



 目黒川沿いの染井吉野がものの見事に咲いていた。
 斉藤終は桜があまり好きではなかった。一本の木に群れて咲く花びらよりも、一輪で気高く咲く花のほうがこの男の好みにかなっていたからだ。だが実際、川に沿って見事に咲く満開の桜の迫力をを懐手で眺めれば、気持ちが幾分か穏やかになる。
 口入屋に潜り込み、斡旋された商人の用心棒などという面白味のない仕事を終えた帰り道だった。
 刀は血を吸わなければ意味が無い。なのに、商人を狙ってきたヤクザ者は揃いも揃って腑抜けばかり。斉藤が刀を抜いて構えただけで血相変えて逃げ出した。
 斉藤は血に飢えていた。だが、この男は筋の良い剣客であったから相手は選ぶ。打ち合って面白い相手でなければ血は騒がない。自分から喧嘩を売るような野暮も好まなかった。
 まだ刻は夕七つ。芝居茶屋から熱気を身に纏い、頬を紅潮して出てくる者が多く、通りは大変賑わっている。目黒川では裾を捲くって鯉釣りをのんびりと楽しむ姿があった。路地裏からは最近流行りだしたという稽古屋で三味線の音色がちらほらと聴こえはじめている。小腹が空いたな、と稼ぎを片手にその日暮らしの斉藤は近くの飯屋の暖簾をくぐった。
 斉藤は群れる事を嫌った。最近俄かに天人だの攘夷だの幕府だの騒々しいが、世情に関して興味の破片も抱かなかった。己の剣を信じていた。敵対してきた相手だけを斬ればよい。どうせ世の中なんてものはなるようにしかならないのである。時の流れ、そこには人間の意志よりもっと大きいものが働いている。朝廷や幕府に権力者は名ばかりのものがいるにはいるが、政を真に操る事のできる者など居やしないのだ。大きな流れを大勢で進めているだけに過ぎない。
 辿りつく場所が定まっていて、そこに動くのか。動いた先が定まった場所なのか、それは分からないが、どう動いてもどこに行き着いてもそれで世が安泰になる事はあり得ない。なぜなら人間は欲の塊だからだ。
 斉藤は世を斜めの角度から眺めて嘲笑う癖があった。この男には思想も理想も無かった。ただ、自分の剣が振るえる場所があればそれだけでいいのだ。
 だから、廃刀令が発せられたと聴いた斉藤は珍しく動揺した。飯屋で隣の席についている男達の会話を聞き、好物の煮物を思わず落としてしまったほどである。暫し呆然とし、弾かれたように立ち上がると直ぐさま隣の男に詰め寄った。
「廃刀令とは、どういうことか!」
 胸倉を掴まれた男は、突然の無礼に困惑しながらも気の弱そうな瞼を瞬かせて、
「幕府から下りたんだ、攘夷を討っていたがここんとこ劣勢だったらしく、ついに、天人に白旗振ったんだ。なんとかとかいう条約を結んで、その一つが廃刀さ」
 斉藤の顔色は血の気失せたように蒼くなり、瞬時に真っ赤に染まる。怒りで興奮して、我を失い怒鳴り散らしていた。
「なんだよ!! そんなの、なんの意味がある!」
 斉藤の剣幕にしどろもどろになりながら「お、おれに言われても」という男の胸倉を押して舌打ちを打つ。じわりと胸中に広がる黒い染みが苛立ちと焦燥で溢れかえり奥歯を噛む。全く世の中は莫迦ばかりだ。刀を失わせて何がある。反対勢力は盛り上がり決起する事は分かりきっているし、刀を生業にしていた気の弱いものは言葉通りに刀を手放し路頭に迷う。刀一つ無くしたところで今更天人を狙う攘夷派浪士が減るとも思えない。幕府は何を考えているのだ。天人の条約に従って。現在は良いかもしれない。一時の凌ぎにはなるだろう。だが、後にこの国が乗っ取られることは目に見えている。刀をなくすという事は、威厳を取り上げるということだ。それに、幕府は刀より危険で強力な武器を天人から取引していると聞く。一体、何がどうなっているのか。興味は無いが、自身の問題に話が及ぶなら別だ。
 詰め寄った男の相席に座っていた男が「それにしてもなぁ」と箸を振った。「天人と必死に戦ってた攘夷の連中が哀れだなぁ……それに、今後どうなるんだろうなぁ」
 胸元を正した男が溜息を一つ零した。
「そりゃ、お前、乗っ取られるに決まってんだ。明日も無い身よ。今日は飲むしかねェ」
 よくよく見ると、男たちはしたたかに酔っ払っている。その腰には大小が差されていた。男達の刀は揃いも揃って柄にもどこにも傷一つ付いていない。全くの無使用品だ。眼の色も濁りがない。格好だけが浪人風情で、それに気が付いた斉藤は急に冷水をかけられたように冷静になっていった。
「この腰のものも今日までだな。明日からどうすっか」
「おれは田舎に引っ込む。畑耕して生きてくんだ」諦観が染みついた風情で男が言った。
 臍を噛む男たちを尻目に斉藤は立ち上がる。これ以上ここにいると、男達の自堕落が乗り移る気がした。冗談じゃねェ、冗談じゃねェ。
 当てがあるわけではなかったが、いてもたっても居られなくなり摺り足で炯炯たる吊り眼を更に吊り上げて、足を動かす。ただでさえ、刀を使う場が減ってきているのだ。それさえも取り上げられるなんざ冗談ではない。だからといって、攘夷志士になろうとは勿論、出生から逆立ちしても無理だが武士にもなろうとは思わなかった。 そんな面倒なものは御免被る。日本の為だとかのたまって剣を振る気にはなれない。斉藤にとって刀は自分のために振る刃でなくてはならない。
 自分のこれからに暗澹としたものを抱えながらも、斉藤は自分には刀しかない。それしかないと、腰の一本差しの愛刀、池田鬼神丸国重に心の内で言い聞かせていた。

 それからというもの、廃刀令が世に急激に広まり、刀を所持している者が木戸番や自身番にしょっ引かれる事が多くなった。
斉藤は木材包みで刀を巻き歩くより他はなくなってしまった。情けなさが身に染みたが、捕まれば死罪だ。
 世は大きく変貌している。江戸の町には天人が我が者顔で練り歩き、中枢には鉄の塔が建った。たーみなるというらしい。舶来から流れ込んできた物が多くなり、洋装などという格好が流行りだしている。人々は新しいものを取り入れることに夢中で、何かに憑かれてしまったように斉藤には映るのだ。
 数年前は活気があった道場は随分少なくなってしまった。木刀や竹刀で打ち合う音が江戸の町から急激に遠のいている。斉藤の学んだ無外流、一刀流、太子流の道場も揃って畳むという報を聞き、やるせなさが充満した。
 剣術だけではなく武術にも多少心得があったから用心棒の仕事の口利きはあるが、斉藤は己の不遇に嫌気がさしていた。

 その男と出会ったのは、斉藤の鬱憤が頂点に到達しそうなときだった。
 最近巷に流行りだした飯屋は丼物を取り扱っており、白飯に鰻や天麩羅、肉などをぶっこんだ簡単なものだが、これがなんとも美味しく値段も手頃。せっかちな江戸っ子の性にあっていて、店はたいそうな賑わいだ。斉藤は騒々しいのは苦手だったが、この日は手持ちも少なく匂いに連れられ歌舞伎町にある丼物屋の暖簾をくぐった。
カウンターの末席に腰掛け、天麩羅丼を注文する。斉藤は目付き鋭く、常人ならぬ気を発しているせいか、店の者も客も気安く斉藤に声をかけるような事がない。
 注文した丼が届き、かっ込んでいると突然隣から「両利きか」と声をかけられた。思わず丼を離し、隣をギョロリと睨む。そこには頬杖を付いて涼しい眼を向けてくる役者のような美丈夫が座っていた。歳は二十代半であろう、墨黒色に無地の着流しをさらりと着こなして腰には脇差しを差していた。内心で舌打ちをする。
「お役人か」
 投げやりに聞くと、男は少し意外そうな顔をして「そんなものだ」と答える。幕府に仕えれば刀を所持できることは知っていた。「今まで何人斬った」そう聞かれて「数え切れん」と答えると今度は艶めいて笑う。
「一度手合わせしてぇなァ」
 男が囁くように言った。
「俺は強いぜ」
「分かる」そう言って男は今度は砕けた笑みを見せてくる。
 人と関わるのを嫌悪する斉藤はその笑みを見て、不思議な心地になった。他人を前にすると必ず猜疑心が前に出る。話す言葉一つになんらかの理由を見つけては反感を覚えるという厄介な癖があった。だが、この目の前の男はそういった斉藤の癖を見抜いているようなのである。
「俺が両利きだとなぜ分かった」
「手」男は斉藤の手の平に目線を向ける。「両利きの奴ァ、肉刺のでき方が違う。四本の指全てにあるだろ、それに、手の筋肉の付き方だな。親指から人差し指にかけての盛り上がりが両方にある。それから手首の形、草鞋の磨り減りもな」
「お前、いつもそんな風に人観察してんのか」斉藤は呆れた。
「癖みたいなものだ。仕事柄か難儀なもんだ。こちらが仕掛けねェと、隙を突いてくる奴がわんさかといやがる。常に裏の裏をかかなきゃなんねェんだ」
 武州辺りの出身だろうか、訛りが不思議と耳に触りが良い。田舎者だと詰れないくらい目の前の男は端整だ。
「それは羨ましいな」自然と口をついていた。
「腕に覚えのあるものを集めている。燻ってねェで、うちに入隊しねェか」男は試すような視線を向けてきていた。「真選組って知ってるか、ゴロツキの集まりだ。お前みたいなのにお誂え向きだぜ」
 組織に属する事を嫌悪している斉藤をも見抜いているようだった。斉藤は目の前の男に興味を持ち始めている己に気が付いていた。
「得体の知れねぇのを勧誘するなんざ、どうかしてんじゃねぇか」
「得体が知れねェから、誘ってんだよ、背中にしょってんの刀だろ、うちに来て使えばいい」
 斉藤は目を細める。不敵に笑う男を斉藤は面白いと認めた。