不朽




 斉藤が真選組屯所を訪れたのは、それから二ヵ月後のことであった。
 すぐさま屯所の門を潜るには捻くれた斉藤の性質が躊躇させたし、口入屋を抜けるのにちょっとした手間を要したからだ。口入屋の手配師は言ってしまえば阿漕で渡世人の商売なので手を引くにはそれなりの手順を踏まなければ事だった。斉藤はこういった人間絡みの柵の億劫さが何よりも煩わしい。
 組織に属するというのはその煩わしさに雁字搦めになるということだ。組織、というものを毛嫌いしている自分がそれに参入しようとしている。人生とは何が起きるか分からないものだ。だが、刀はどうしても扱いたかった。対等な相手と対峙して斬りたかった。そういった本能の疼きには勝てなかった。あの男は、斉藤の疼きに気が付いたのだ。
 男の名はしばらくしないうちに手に入った。真選組の土方、評判の良い噂など一報も耳にしなかったが、人の噂などなんの当てにならないことを知っている。斉藤は土方を面白いと思った。それで充分だった。
 真選組屯所の前で刀を包んだ布を解く。腰に差し、一歩を踏み出した。
 屯所は真新しく、それなりに威容を誇る建て構えをしていた。門番の二人に入隊希望の旨を伝えると、しばらくその場で待たされた後、真選組副長である土方本人が直々に現れて聊か斉藤は面食らう。土方は涼気な表情で洋式の隊服を着こなし、咥た煙草の紫煙を燻らせて斉藤と目が合うと、
「遅かったじゃねェか」
 そう言って妖艶に笑った。
 入って早々に屯所に構えてある道場に通され竹刀を渡された。道場はしんと静まり返っており、一人の青年が中央に腰を下ろしているだけである。「誠」の字の掛け軸が向かって正面に掛けられている。それ以外は、何の変哲も無い。
「一応、規定だから入隊試験を行ってもらう。一本勝負だ。特に規則はねェ、勝負が着いた時点で仕舞だ。相手はうちの一番隊長を勤めている沖田総悟、用心してかかれよ」
 土方はそれだけ告げ、壁に寄りかかり腕を組む。
 一番隊隊長の沖田の噂も土方の名と同じぐらい聴いていた。顔に似合わず真選組で一二を争う猛者だという。冷たい床を裸足で歩き近づくと、沖田が顔を上げて立ち上がり斉藤を見据えた。噂に聞いたとおり、甘く幼い顔立ちをしていた。だが、沖田を取り巻く気配の異常さに気付いたとき、斉藤の肌がゾワリと冷える。
「土方さんが直々にアンタと打ち合いたいって言ったんだが、譲ってもらいやした」
 淡々とした口調で沖田は無表情に竹刀を構えた。対峙し斉藤は面白い、と身体の芯が疼いていくのを本能から感じていた。真剣で立ち会えたらさぞかし血が滾ったであろう。足元から湧き上がる悪寒に身体が震え、それが高揚を招く。未だ嘗て、こんなに胸騒ぎがする相手と打ち合うことなど無かった。胸の高鳴りがどうしようもなく、唇が知らぬうちに弧を描く。
 沖田も斉藤も構えてから微動だにしない。お互いの眼の奥を探り、拍子を刻む。一瞬でも気を抜くと呑みこまれてしまう感覚に斉藤は身震いがしたくなる。全神経で沖田に集中している。斉藤の心は歓喜に震えていた。沖田はいたって静謐に斉藤に向き合っている。だが、その眼の奥は斉藤を通り越してまた別のものを見ているような気がしてくる。同じ場所に存在しているのに、違う次元を見せられているような気になる。沖田の気配にのまれているのだと、斉藤は気付いていた。兜の緒を締めなければ、と竹刀を握る手を絞る。
 沖田の竹刀の先が動く。一瞬、真剣と錯覚した。
 弾き返した、と思えば、また繰り出してくる。手元が一切見えない。ただ、感で遮っている。目の前に居る筈の沖田の姿が曖昧にしか見る事ができない。気付くと、目前に迫り来る竹刀の先が、鋭く光る。叩き返すたびに手がじんと痺れる。激しく竹刀がぶつかり合っているはずなのに、神経が配分を間違えているのか、丁々発止が全く聞こえない。
 おかしい、こんなのは、おかしい。あり得ない。
 だが、防ぐことが精一杯で考える余裕が無い。いや、先など考える事は何も無いのだ。考えたら負けだ。己の気を全て竹刀に向けるしかない。沖田の前では今まで所得した流派など何も通用しないのだ。自分の剣を向けるしかない。
 右足を踏み込み、型を崩して打ち返すと、一瞬の隙が生まれる。それを狙って飛び込む。鍔迫り合いになり、奥歯を噛んだ。鍔迫り合いなど、はじめてだ。
 沖田が引いた。
 しめた、と重心を低くし、沖田の左を切り抜けようと刀を寝かせ飛び込む。瞬間、視界のなかで沖田がぶれた。斉藤の指先に迷いが生じ、それが勝負の分かれ目だった。
 竹刀は沖田を掠らず通り抜け、沖田に背後を取られているのを背中で感じた。
 沖田の竹刀は斉藤に触れなかった。だが、それで仕舞いだ。
 今まで忘れていたように汗が吹き出て、視界が霞む。膝から崩れて天井を見上げれば、自分の命の鼓動を確かに感じた。疲労が身体を駆け抜けて全身に襲う。
 そうか、こんなただならぬ男もいるのか。
 床が鳴って、振り向くと、沖田が座りこんでいる。竹刀を手から外して、呆然と斉藤を見ていた。その表情が意外で、斉藤は瞬きをする。ふいに、沖田の頭に手が置かれた。土方の手だった。
「どうだ、こいつは強いだろ」
 沖田に語りかけるその声はひどく楽しそうで何やら分からぬ違和感を感じた。見れば、沖田の呼吸も斉藤と同様に荒い。組み合っているときは気にもならなかった、というより、沖田を見ることができなかった。
 二三度肩で呼吸をして沖田は眉間に皺を寄せる、悔しそうな顔をして「知らねェ」とそっぽを向く。対峙していた時からはかけ離れた態度に、斉藤はこの男も血が通っているのだということを今更ながらに考えていた。
 足先がひどく冷えていて、斉藤は生まれて初めて、斬られて死ぬ自分を想像する。
 戦慄と歓喜が鬩ぎあい、沖田の竹刀を見る。そういえば、真剣ではなかったのだという事にその時、ふと気付いた。なぜ、失念していたのか。それはどこからどう見ても、竹でできた刀だった。