岩清水



 アクリルの向こう側には海が広がっている。
 水槽の中を浮遊する魚の鱗は照明に照らされて虹色に反射し、トシに或る感慨を与えた。縦横無尽に遊泳する魚を観察する事は想像していたよりもずっと退屈しなかった。思えば、水族館を過去来館したのは学生時代に一度きりである。目に映るもの、すべてが鮮やかだった子供の頃の独特な視点は、いろんなものが真新しすぎて反対に記憶に色を付けて残らなかったのかもしれない。
「綺麗だろ」
 坂田銀時は得意気に笑う。トシの食い入る様に見つめる表情に溜飲を下げたのだろう。トシは銀時からの水族館への誘いを二ヵ月間程も蔑にしていた。いくら断っても諦めないので、とうとう根負けしたが、来てみてよかったのかもしれない。
「まぁね」
 一匹のチョウチョウコショウダイが魚体を捻りながらトシの手元に近づいてきた。人差し指で水槽を軽くつつくと、進路を変え泳いでいく。ずいぶんと腹の膨れた魚も多い。水中では身体の大きさなど無関係なのだろうと思うと無性に羨ましくもあった。無表情に泳ぐ魚の顔を覗いては、指でつついてみる。
「向こうからこっちは見えないんだぜ」
「そうなの?」
「水槽の中は明るいのに、こっちは暗いだろ。透過光っていう光が水槽の中から通路側に抜けて、外からは中の魚がよく見えるようになってんだ。水槽の中からは反射光が魚自身の姿を反射させて、水槽の中からはこっちを見えづらくしてるんだよ」
 銀時は一ヶ月前までこの水族館でアルバイトをしていた。無料入園券があるので行かないか、が誘い文句だった。
 トシは銀時の横顔を仰ぎ見て、不意に、こうして二人でいる事が何かの間違いであるかのような途方も無い隔絶感を覚えた。銀時がこうやってトシの傍にいることが、不可解でならない時が時たまにあった。
 銀時は小学校高学年の時、トシの家の近所のマンションに越してきた。学区が同じだったので、トシの通う小学校に転入し学級が同じになった。お互い私立を受験しなかったので、中学も同じ学校になり、高校も偶然進学先が一緒だった。その間、小学校時代を抜かして、学級は離れたり同じになったり様々だったが、等しく、記憶を振り返れば、そこにはいつも銀時がいた。
 いつの間にか会話するようになり、気が付けば腐れ縁だった。部活も剣道部と一緒だったので、顔を見合わせない日はそうそう無かった。銀時が近くにいることが当たり前になっていた。腐れ縁は銀時だけではない。幼馴染で一つ年下の沖田総悟や一つ年上の近藤勲もトシの近くに常に居る。だが、その二人と銀時とは関係性が少し異なっていた。どちらかといえば、総悟や近藤の方が身内に近いように思う。兄弟のような慣れ親しさを二人には感じていた。
 長い付き合いなのに、トシは未だに坂田銀時という男がよく解からない。水槽の中に居るのが自分で、銀時に外から眺められているような、そんな気になることがままにある。こんなに近くに居るのに、たまにこのアクリルのように隔たりがある気がする。それが何かは皆目検討がつかなかった。ただ、銀時といるのは厭ではない。むしろ、楽でいい。自分が気を使わなくても、勝手に色々なものを見つけては楽しむことの出来る男なのだ。変に鋭くもある。どちらかといえば口下手なトシの本意を汲み取ってくれる。トシは水槽の中の魚みたいに無愛想なのに。
 平日の今日は館内が空いていた。混雑時がどれぐらいなのか分からないが、今このフロアには銀時とトシの二人だけしかいない。違うフロアでいるかのショーをやっているからそちらに蝟集しているのかもしれなかった。二人並んでただ、巨大水槽の中を観賞している。時々、銀時がアルバイトで得た水族館知識をトシに披露し、トシは相槌をうったりしていた。水槽の中の海水は八丈島沖のものであることや水面が泡立っているのは雰囲気を壊さないための処置だったり、サメが他の魚を食べないのは定期的にエサを与えられるからであるだとか。
 水槽が硝子ではなくアクリル樹脂で出来ていることを水族館に来る道すがら教えてくれたのも銀時だった。魚の名称も亜種まではいかないが、聞けば大体答えられる。
「よく半年のアルバイトで覚えたね」
 心底その知識に感心するが、銀時は得意にはならなかった。
「覚えたって言うか、知ってればそれだけ仕事が楽しくなるだろ」
 トシはいつも銀時の物事に向き合う姿勢に啓発させられる。どんな事でも器用にこなすのは、銀時に目新しい楽しさを感じ取る余裕と巧まざる諧謔的センスがあるからだ。トシは銀時の目に映る楽しさの一欠けらでもいいから欲しかった。目の前に広がる鮮やかをもっと違う角度から眺められたらと、いつも焦がれていた。そうすれば、銀時に対する女としての想いをもっと綺麗なものにできたのかもしれないと、梅雨のような湿っぽい感触を抱えなくても済んだのかもしれないと思っていた。
 トシはずっと辛かった。銀時の傍にいるのが苦しくて溜まらなかった。いっその事離れられたらと思うが、それはどうしても踏み出せなかった。
 銀時の横顔を仰ぎ見るたび、その頬に触れたくて仕方が無かった。一つ我慢をするたび喉の奥が痛くなった。
「次は地下一階にクラゲ観にいこうか」
「うん」
 銀時の掌が逡巡するのを視界の端で眼に留めながら、トシは振り払うように銀時の前に出る。男の無骨で、長い指に絡めるにはトシの指は太すぎて、指の付け根には剣道でこさえた肉刺が潰れては硬くなりを繰り返し、肉質の割にはさわり心地が良いとは云えない。筋肉質で着やせする銀時の隣に並ぶにはトシの身体はあまりにも酒樽のようだった。表情豊かではないが、気持ちは表面を取り繕うよりも扱いが難しく、何も気にせず漂う事はどうしてもできないでいた。
 銀時が近年、トシとの関係をゆっくりと変化させようとしている事に気がついていた。獲物に狙いを定めて徐々に近づいてくるような精密さで、トシへの催促を濃いものにしていた。
「トシは水槽の中にいるんだな」
 銀時が溜息混じりに零す。トシはどうしようもない気持ちを唇を噛んでやり過ごした。心だけになれたら、外見を取り払えたら幾らでも捕らわれてもいいのに。トシは関係性が変わってしまう世界に畏れていた。
 どうしていいのか分からなかった。
「そうやって、外を視ようとしない。ずっと、自分ばかりを視てるんだな」
 トシは俯く。ずるい、と横に並んできた銀時を恨めしく思った。ここにきて、あまりにもいきなり隔たりに亀裂を入れてきて、しかも、ずっと分からなかった隔ての正体をトシに知らしめた。
 あとはもう、そこから漏れた水が溢れ出すしかない。流れに身を任せて飛び出すか、そのまま干上がるかそれしか行き着く先が無い。
 銀時が今度は迷いなく右手を差し出す。トシは自分の左手を見遣って、その行く先を定めるための反動をつけるように、指を軽く動かした。指の先まで神経が通っていることを、強く感じた。









END





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