いざよう



 頬を撫でた風が涼しかった。
 宵の口から開始した巡視は勤務開始から二時間を少し過ぎている。夕焼けの鮮やかだった空が緩やか闇に呑まれ、手に持った提灯の灯りだけが頼りだった。優しい光で辺りを照らしてくれている。
 少し前を歩く男から嗅ぎ慣れた匂いがする。今日は少し控えるかと何の思いつきか知らない殊勝な事を言ったかと思えば、結局一時間も持たなかった。半ば呆れながらも沖田総悟は鬼脚に後れを取らぬよう歩くペースを少し速める。
 ひたひたと二人分の足音しか聞こえない。昼間でも人気の少ない路地だ。この時間では野良猫ぐらいしかこの道の利用者はいないだろう。
「なんもないですね」
「なんもねェのが一番だろうが」
 感情の読めない声は平坦で、すぐに溶ける。総悟や局長の近藤勲と居る時の土方十四郎はひどい多摩訛りだ。
 隣に並ぶと少し面窶れしている横顔に気が付く。本人は気丈を装っているつもりだろうが前だけ見据えて鋭い眼つきをしていても、身体の芯からの疲労を総悟には隠せない。
 過激攘夷派の大きな捕り物のヤマが解決して、残党狩りも一段落ついた頃だった。ほんの数日前まで隊内は連日緊迫していたし、総悟も軍議で土方や監察方の報告を頭に叩きこまなくてはいけない事が山積みだった。脳をフル回転させて、いつでも出動できるようにしておかねばならない。
 今度の過激派には名を馳せた不逞浪士も潜んでいて、その計画も大胆かつ緻密だった。運よく山崎が潜入捜査に成功しなければ今頃どうなっていたかは分からない。目的は征夷大将軍、徳川茂茂の拉致。幕府側にも一枚噛んでいる叛徒がいる可能性が高かった。だが、確固たる証拠が浮き出てこない。相手は天下の幕閣の役人だ。大胆な行動は慎むしかなく、迅速かつ冷静で的確な行動が強いられた。かなりの博打で擦れ擦れの御用改めだった。一歩間違えれば真選組の存続も危うかったのではないだろうか。余裕だと毅然と隊の指揮を取っていた土方も内心薄氷を踏む思いだったんではないだろうかと総悟は想像している。
 紫煙をくゆらす隣の男に視線を向ける。どこまでも暗い瞳が闇の中で光っていた。
 この男が一筋縄ではいかない事を知っている。どんなに危険な状況でも、そのこと自体を愉しむしたたかさを持ち合わせている事を、知っている。
 事件の後処理や書類報告と多忙を極めていた土方が息抜きに散歩がてら巡回に出る、と供に指名されたのが総悟だった。珍しく文句も垂れずに従った総悟を訝しんだ隊士は新参者や小者に多い。
 この二時間と少し、会話は殆どない。
 前方を黒猫が、横切った。
 ふと、深い夜の空を見上げると月が雲に隠れていたのだろう、顔を出す。ああ、と嘆息を漏らすと、土方に纏っていた気の気配が変わるのを悟った。それが区切りだった。
「満月ですねィ」
 発した声は思いのほか穏やかなものになった。立ち止ると、前にいた土方が総悟を振り返り、そのまま倣うように歩みを止めた。
「ちげぇよ、今夜は十六夜だ。満月は昨日だろ」
 日付の感覚はあったのかと感心して「あれのどこらへん欠けてますかねェ」と聞くと「わかんねェな」と切れ長の眼を細めた。
 うーんと背伸びをする。差料の大小がぶつかって音を立てた。
「あー昨日の満月見たかったな、で、団子食いたかった」
「満月よりちょっと欠けてた方が趣きあんじゃねェの」
 土方は満月の十五夜より少し欠けた十六夜の味方らしい。ああ、確かにアンタはそういうお人かも、と総悟は薄く笑う。
「詩情は解りャしやせん。どっちかってーと団子食いたかったでさァ」
「いつでも食えんだろ」
 月から視線を離して、提灯に向ける。ジトッとした暑さは不快に感じるが、弁解するように良い具合に涼風が吹き抜けていた。雲量はないのだろうが月は度々雲に隠れる。
「昨日、食いたいと思いやせん?」
「なんで」
「俺は昨日、今日が十五夜って気付きませんでした。それがちょいと悔しいです。そうやって、なんか毎日見落としてるもんあると思うと損した気分になる」
 土方が少し目を見張ったようにして、軽く息を吐いた。「見落としてるもん」と小声で呟いて、諦観したような表情をする。「あーそうだな、沢山、あんだろうな」と発した声は揺らがない。
「損をこうやって後から気付くのと、ずっと気付かないでいるのと、どっちがいいんでしょうね」
「そりゃおめェ」と土方は可笑しそうな顔をする。こういう表情は江戸に出て来てからあんまり見なくなった。「どっちでもいいんだよ」
 どっちでもいいのだろうか、と肩を竦めると「行くぞ」と促された。歩き出した土方の歩調は緩い。総悟もゆっくりと歩き出す。
 こうやって二人きりでダラダラと歩いていると武州の田舎道、出稽古の夕暮れた帰途を思い出していけない。
 田舎の砂利道は舗装なんかされていない。右も左も前も緑ばかりで地平線の彼方まで続く田んぼには緑一面の稲が風にたなびいて緑の絨毯みたいだった。蝉の油を爆ぜたような鳴き声がうるさいぐらいに鳴き渡る。空気はいつでも新鮮で、身体からはいつも泥と汗の匂いがした。
 あの頃よく皆に「お前の言うことはよく分からねェ」といわれた。何やら聞かれた事に対して違う捉え方をしてしまうみたいで、話を早々に切られてしまう事が多々あった。直そうにもどうしたらいいのか分からないし、協調性、というものも残念ながら欠けていたらしい。道場に通うまでは頑固で偏屈な性格が一因して友達もできなかった。近藤に出会って、剣術を知って、竹刀を握って、そこからだ。新しい世界が開けたのは。竹刀を打ち合えば言葉はいらない会話ができる。資質があったのか、腕は直ぐに上達した。通い始めて一年も経たないうちに体格の全然違う大人たちとも対等に打ちえるまでになった。実力を認めてもらえる。認めてもらえれば、多少ずれていても会話ができる。大人たちの話を聞くのは面白かったし、竹刀を握るのは楽しい。近藤に門下の中で一番可愛がってもらえるのも総悟は嬉しくて堪らなかった。
 ある日突然、土方は現れた。
 気に喰わない男だった。
 気付くと道場に居座るようになっていて、初めて視たその時から気が合わないと直感していた。寡黙で何を考えているか分からなかったし、どこか高圧的で馬鹿にされてるのかと思う事が度々ある。近藤とは気が合ったみたいで、それまで近藤を独占していたのに土方が現れてきてから近藤と土方がよく話すようになってしまった。おまけに、大好きな姉の心まで奪った。それに土方は強かった。今までの門弟とは比べ物にならないくらい強かった。
 気に喰わない。相容れない。
 だが、不本意ながら土方は総悟を理解していた。近藤よりも、もしかしたら実の姉よりも総悟の事を解っていた。
 何事にも無関心なようで、実は他人の事をちゃんと見ている。芯に一本揺るぎのないものを持っていて生き方がブレる事がない。そういう人間が稀少なのは知っている。
 総悟が他の人間が首を傾げるような事を言っても瞬時に土方だけは理解した。さりげなくフォローをいれてくるのだ。つまりこういうことだろ、と。根が真面目だけど程度よく砕けていて、面倒見がよくて義理堅いことも知った。世界を全く別な角度からみていて、頭の回転の早さには舌を巻いた事もある。内側に秘めた強さにも認めたくはなかったが、尊敬した部分もあったように思う。土方への感情は複雑に鬩ぎ合い、でも、やっぱり気に喰わない野郎だ、と結論付けた。
 夕焼けの帰り道。あの頃もゆっくりと歩いていた。総悟は何も喋らなかった。土方も何も喋らなかった。不機嫌な顔で後ろをついていた。
 だけど、本当は話しかけたかった。捻くれた性格が邪魔をしたが、何を考えているのか、何を見ているのか、訊いてみたかった。自分の視線より高い位置にある背中に、黒々とした総髪が揺れて楽しそうに踊る髪の毛の持ち主に。
 気付いたのは、だいぶ後だった。
 不器用な優しさも、怒鳴ったり怒ってくれる想いにも、見放さなかった心の広さも、全部、ずっと後に知った。
 だけど今でも気に喰わない野郎のままだ。
 どっちでもいいんだよ、と土方は言った。いいんだろうか、と総悟は考える。黒い隊服を身に纏った背中、短髪の後ろ髪、道は舗装されていて、江戸の町中には田んぼなんてどこにもない。見上げていた背中も、今は真っ直ぐの視線より少し下にある。
 気付いても、気付かない振りをするのも、いいのだろうか
 あの時みたいに、もう頑なに土方を拒絶はしていない。そんな必要もない。あの時は聞けなかったことを聞いてみたい気もする、だけど聞かない。
「いざよいってのは、「ためらう」って意味の動詞からきてるんだってな」土方の声に瞬きをする。低い声は闇と同化する。前を向いたまま、前を歩く土方が言葉をつなげた「月もためらうんだ、人間なんてどうしよーもねェよ。バカみたいに迷うんだ」
 は、と笑って「そんなもんですかねィ」と返した。
 だとしたら、土方は月よりも確かな存在になる。この男は、迷わない。そんな戸惑い微塵も見せない。采配は絶対だ。
 ずっと昔から知っている。土方が間違うことは決してない。結果がどうであろうと、土方のくだした結論が総悟を後悔させたことなんか一度もない。
「疲れやしたね」
 土方が振り反って男くさく笑う。
「おめェは今回頑張ったからな、近藤さんも褒めてた。報酬は弾むから」
 自分ら隊士はこうやって土方や近藤に称えられる。近藤も御上から直接称賛されるだろう。だが、土方はどうなのだろうか。手柄を全て近藤に捧げて何が残るのだろうか。こうやって総悟を褒める時ですら近藤をたてるのだ。
 そうは思うのだが、土方はなんの言葉も欲しがらない。他人からの評価なんか何の足しにもならないと思っている。自分の矜持を持っている。それさえあればいいと思っている。
「土方さん、お疲れさまでした」
 だからこそ総悟は大きなヤマを成し遂げた後にこうやって巡廻の共に指名される事こそが、小さな土方のいざようだと思いたい。