驟雨であった。
 雨音が荒々しく地面を叩く。夜明け前の空気はどこか白けていて、バラックが乱雑に並ぶ通りは霞んでいた。坂田銀時は草臥れた通りを歩きながら欠伸を噛み殺す。油断すれば閉じてくる瞼を苛立たしげに擦り、重い足取りを惰性的に動かしていた。
 寒さは無遠慮に足元からの伸し上がってくる。焦土の残骸を踏みならす音は乾いている。消沈した街並みに辟易し、着物の上から羽織っているインバネスコートの前を摘まみ合わせた。身体を縮めてやり過ごそうとするが、泥濘に濡れ汚れた裾に触れる脛は、痛いほどに冷たい。
 給金日はまだ先である。懐も侘しいが、銀時には仕事がある分、まだ恵まれている。
 夜が明けたらしい。暗闇が黒灰色に変化してきた。大空は明け方になっても曇天である。灰雲に控えた太陽は、陰気臭い街の風景を視界に露にさせただけであった。
 雨傘を持ち直し懐中電灯の明かりを消すと、後方で物音がした。銀時は雨傘を軽く振って歩く、再び後方で板が軋む音がする。先程よりも距離が近い。―――――――銀時は横目で後方に注意を向ける。足音は忍んで銀時に近づいていた。間合いを詰めてくると、後方の気配が素早く動いた。銀時の身体は意識するよりも先に、襲いかかって来た者の腕を掴み、身を翻すと同時に捻じっていた。さらに膝裏を蹴り上げると腕を放す。無頼者の身体は軽く宙に浮き、地面と平行に落下した。受身を取る暇もなく地面に叩きつけた衝撃音は、雨音と重なって妙に響いた。銀時はうつ伏せに倒した者の腕を捻り上げる。そのままどうするかと思案し無頼者を見遣ると、小さく呻く哀れな首筋を認めた。抵抗する力もなく荒い息を吐いている。身に纏っている国民服は薄汚れていて、身体の線が病的に細かった。銀時は途端に虚しくなった。腕を開放してやり、激しく咽る無頼者の後頭部を見下ろしながら腰を落とす。
「残念だけど、懐が寂しくてよ、230円ぽっちしか持ってないのよ」
 無頼者は二十代そこそこの若い男だった。顔を持ち上げ、だが、銀時とは目線が合わなかった、地面に向けたままだった。固く握りしめた手が震えている。骨の浮いた腕の感触が銀時の掌に残っていた。肌は透けるほど青白い。
 呻くように男は云った。
「子供を・・・・・・助けたい。助けて、欲しい。医者に診せたいが金がねぇ」
 倒れた姿勢から、土の上に直に坐り、平伏する。額を地面に押し当てた。握りしめた拳は相変わらず震えていて、背中が呼吸に合わせて微動している。
「お前の子供か」
「違う。でも、俺を助けてくれた、恩人なんだ。だから、助けてやりたい。頼む」
 男は身体を更に恐悚させた。銀時は先ほど咄嗟に放り投げた懐中電灯と雨傘を拾い上げると、再び男に近付いて腰を落とした。男がこれ以上濡れないように傘を傾けてやる。黒髪が雨に濡れて頬に張り付いていた。
 銀時は身震いする。全身が濡れて、凍えるほどに寒い。
「行こうぜ」
 声をかけると、男は慌てて頭を起こし、今度は銀時の顔を見た。その顔は、眼孔は落ち窪み、頬はこけていて、鼻だけが筋通って高かった。身体は筋と皮しかないと言っても過言ではないぐらい痩せている。経年劣化した国民服はところどころ擦り切れていて、露出した肌は黒ずんでいた。
「寒いから早く立てよ。子供が待ってんだろ」
 促すと男は唇を噛み締めて項垂れた。「ああ」と吐息のように漏らし、よろめきながら立ち上がる。肩を貸してやり、連れだってバラックの乱立する雑多とした焼け跡に足を踏み出した。
 しばらく歩くと、雨脚はだいぶ落ち着いてきた。雲の割れた隙間から溢れる光の線が殺風景な瓦礫を照らす。男はよく咳き込んで、そのたびに苦しそうだった。
「悪かったな、さっきは。腕、痛かっただろ」
 詫びると、男は不意を突かれた顔をし、それから苦笑した。
「何言ってんだよ。どう考えたって、俺が悪いんだろうか」
「子供を医者に診せるついでにお前も診てもらえよ、顔色、ひでぇから」
 男は頬に苦笑を残したまま黙り込んだ。

「ここだ」
 銀杏の木に支えられるようにして、焼け残った瓦礫とトタンで造られた雨露を凌ぐだけの小屋であった。室内は薄暗く、野外よりもいっそう寒々しかった。床は目の粗い板が敷かれている。目が慣れるまでしばらく時間が要った。ようやく暗がりに慣れると、明かり取りからの微かな光を頼りに部屋の奥へ進む。目を凝らすと、部屋の端に蒲団が敷いてあった。掛け布団が盛り上がっている。男が布団を捲って声をかけた。
「おい、大丈夫か、起きれるか? 診療所に行くぞ」
 返事はなかった。銀時が割って入り布団ごと子供を抱き上げた。子供の身体は軽く、銀時の腕の中で全ての筋肉が弛緩していた。銀時は嫌な予感に苛まれながらも子供を外に連れ出す。男が子供に安心させるような言葉をかける度に、予感は確信に近づいていた。小屋を出て、胸に抱いた子供の顔を覗き込み、血色の悪い唇に耳を傾ける。子供の唇からは、生命を感じさせる手掛かりが何一つ感じられなかった。
「―――――――ダメだ」
 雨は止み、雨傘をもう叩かなかった。雲透きの朝だった。男は不思議そうな顔をしたが、何かが歪んでいた。銀時の唇は重かった。
「死んでるよ、この子」
 男は暫し呆然と立ちすくむ。銀時が子供の頭を軽く撫でると、フケがパラパラと舞い落ちた。唇はひもじそうに薄く開いていたが、苦痛の色は無い。敗者の街はどこにでも死があった。綺麗に逝けて良かったな、と憐憫の情を感ずる銀時は己の感覚を異様だとは思っても慣れてしまっていた。男は項垂れていた。ズボンのポケットに手を入れて、頼りない首筋を晒していた。
 あちこちのバラックから人が起きだす音がした。人々が起床する刻の空気はひどく澱んでいた。


 土方十四郎は頑固な男だった。そしてこの頑固者に銀時は構うようになった。だが、医者に行けといっても首を縦に振らず、家に呼んでもすげなく断られる。放っておいてくれとバラックに篭り布団を頭から被ってしまえば毎度のことながら腹が立つ。
「そんなモヤシみたいな身体で、お前、そのうち死んじまうぞ」
 無視である。日に当てないせいで埃まみれの布団に包っているせいか、中で咳き込んでいる。このところ手が震えるようにもなっていて、銀時としては、放っておけない。
「一度でいいから、な、医者に行こうぜ」
 宥めても、終いには必要もないのに懇願しても、うんともすんとも言わない。反応といえば乾いた咳ばかりで、頑なに布団から顔を出しもしなかった。放っておけばいいとは思っても、気懸りで落ち着かないのである。
「腕の立つ医者知ってるんだよ、なあ、おい、土方。……どうしても医者が厭ならさ、やっぱり俺んとこ来いよ。引っ越したばっかで何もねぇ汚いアパートなんだけどよ。夜は煩いけど慣れればなんてことねぇんだ。新宿は物騒な街だけど、それでも仕事はあるし、なかなかだぜ。ひとまず俺んとこ来いよ」
 饐えた臭いのする硬い布団を捲ろうとしても、内側から頑なに握りしめている。銀時はその強情さに溜息を吐いた。
「分かったよ。今日はこれで帰る。また来るから考えておけよ………それと、ちょっとしかねぇが、食い物と薬、ここに置とくから、ちゃんと食べろよ」
 一度、力尽くで連れて行こうとした事があったが、病人とは思えぬほどの力で抵抗されて、その取り乱しぶりが異常なほど強固であったので強引に連れ出することを諦めた。
 帰途、焼け野原で瓦礫の山だった町並みに新しい木造の家が並んでいるのを見た。寒そうに手を擦る妙齢の女が箒で戸の外を掃いている。子供が家から飛び出してきた。男女の兄弟はじゃれあい遊んでいる。商店街の大通りはかつての活気を取り戻していた。酒屋では数人の会社員が談笑しながら呑んでいる。戦災から免れた場所は銅板建築の町家が残っていた。
 銀時のアパートは新宿区の弁天池の西側のやや高い所に形成された花街から一つ外れた通りにある。もともと池畔だった細い坂道を上がれば、細街路の密集した住宅地である。農村がそのまま宅地化されていったからであろうか、車が容易に入れない場所だ。花街の通りは料亭が軒並み揃える。ここが銀時の主な働き場だった。新宿は混沌雑然としていて、それが奇妙な具合に混融し合って活気を帯びている街である。八月十五日の終戦とともに、蜜に集まる蟻のように、夥しい数の露店と闇市が出現した。闇市が姿を消すと、すぐさま建物の建築が始まった。この街は生活力に満ち、ありとあらゆるものを内包して変化する図太さを持っている。
 自宅は事務所を兼ねていた。戻ると、坂の下の高島というスナックを経営する女年増が玄関脇に立っていた。年齢より随分年若く見えるのは厚化粧と景色が仄暗いせいだろう。銀時はこの女を日中に見かけたことがない。
「えみさん、どうしたの」
「ああ、銀さん、ちょっとね、困ったことになって………」
「何、また尾崎の奴ら?」
 新宿駅を支点として各方角毎にやくざの組がある。縄張り争いはこのところ激化していて近隣の店が被害を蒙る事件が度々あり、流血騒ぎを起こすこともしばしばであった。戦争から復員してきた血の気の多い若者がどこかの組に何らかの理由で属し、その権威を盾に暴行、強姦、強盗は日常茶飯事だった。もっともややこしいのは各国から流入してくるマフィア組織との抗争の巻き添えだが、一般人が朝鮮マフィア以外の事件に巻き込まれることは然して多くはない。
「違うの。それがね、四人連れの客が来てずいぶん飲んで、そのうちの一人が憚りに立ったのよ。それで、戻ってきたらね、机に置いた財布がなくなってるって言うの。給仕してたのがうちの娘で、娘が盗んだと言い掛かりをつけてきたのよ。酔っぱらっているから話にならないし………」
「仕方ねぇなぁ」
「助かるわ。銀さんのツケまけておくからね」
「チャラにはなんねぇの?」
「なる訳ないでしょ」
 四時過ぎ―――――――冬のこの時刻は既に日が落ちきったあとで、寒々とした曇った闇が浸食していた。銀時はえみと足早に高島に急ぐ。小道では客引きの女が怠そうに煙草を吸っていた。酔客が入っている店は喧噪があったが、聞こえてくるのは世の恨み言ばかりだ。駅の周辺や目抜き通りには天まで聳えるビルディングが建設され、裕福層が闊歩するが、裏路地やここのような日陰の区域には貧民層が暗い目をして陰鬱に徘徊する。諦観や重く圧し掛かるような貧困が漂っていた。片輪の浮浪者は塀に寄りそうように丸く眠っている。
「そういえば銀さん、見つかったの?」
「あ?」
「人、探していたじゃない。見つかったの?」
 銀時は苦笑し「早く行こうぜ」と促して、えみからの詮索を打ち切った。
 四人の酔客は血走った眼をギラギラと光らせて店主と小娘に乱暴な因縁をつけていた。店側もこのような難癖をつけられることは慣れきっている。小娘は青白い肌を朱色に染めて怒っているし、店主は今にも殴りかからん勢いであった。
「金返せよ、なぁ、さっきから何度も言ってるだろ、出るとこ訴えてもいいんだぜ」
「盗ってないわ! こいつら食い逃げよ!」
「煩ぇぞ、このアマ」
 酔客は焦っていた。この騒ぎを聞きつけた周囲の店が野次馬化して取り囲んでいるからである。店側も一向に引かない。酔客は若者で貧しい身なりだった。そのうち一人は中風気味らしく、呂律がうまく回っていない。
 銀時は店の陰に隠れて着替えると、飛び込み「検問だ!」と叫ぶ。酔客の顔が青褪め、そのうちの一人がポケットから無造作に金を取り出し、店と銀時に投げて一目散に逃げて行った。
「銀さん、すまねぇなぁ」
 店主は照れ臭そうに笑い、娘は満面朱を注いで、それを誤魔化すように云った。
「それにしても、警察官がたった一人で検問に来るわけないのに、あいつらかっぺね」
「銀さん、そんな制服どこで手に入れたんだい」
「ちょっとした伝手があるんだよ」
 可哀そうだねぇ、とえみは若者たちが逃げていった方角を見やって沁み沁み呟いた。店主はえみを睥睨し「あんな奴らが可哀そうなものかい」と吐き捨てた。
「可哀そうじゃないか、みんな可哀そうだ」
「ふん、勝手に言ってろ」
 店主は背を向けてコップを拭きだした。えみは放り投げられた金を拾い上げると溜息を吐く。娘は汚れた前掛けを叩き無言で店主の横に並んだ。可哀そう、その言葉が銀時の胸に痼のように残る。
 いつの間にか集っていた野次馬は散っていた。




 梅林が色づく頃、土方が倒れた。
 周りの家屋がバラックから木造住宅に建て替えられていく中、取り残されたように静かに佇んでいる小屋に着いたのは正午だった。その日は、小屋が奇妙な静けさを保っているように思えた。違和感を覚え、這入ると、ただならぬ悪臭が鼻を衝いた。
 戸を開け放したままにして、室内に目を向けるといつも単座して内職をしている土方の姿がなかった。銀時は鼻を覆いながら隅に敷いてある布団まで慌てて駆け寄った。饐えた臭いはいつものことだったが、今日はその臭いを被うほどの糞臭がした。
 掛け布団を捲り、銀時は心臓を絞られる思いで土方の肩を掴み名を叫んだ。土方は、何の反応も示さなかった。
 土方を横抱いて銀時は駆けた。自分に対する言い訳と、怒涛に押し寄せる焦燥と心臓がえぐられるような恐怖が胸中に渦巻いていた。もっと前に強引に診療所に連れて行くべきだった。明らかに土方は病気だったではないか。
 知り合いの診療所に駆け込むと、待合室にいた客は一斉に顔を顰めた。鼻と口を覆い、銀時とすれ違いざま堪りかねて出ていく者もいる。銀時は全く頓着しなかった。他の患者を押しのけて、診察台に勝手に寝かすと、医者に詰め寄った。無我夢中で、土方以外の全てのことが銀時の意識の範疇になかった。ただ、土方の生命を繋ぎとめなくてはいけないと、それだけが銀時の全てだった。
「落ち着け!」
 頬を殴られて、そこで初めて喚き立てていた事に気がついた。医者の胸倉を掴んでいた手を離すと、視界が開け意識が現実に落ちた。呆然とする銀時に医者は苦笑して「大丈夫だから、手伝ってくれ」と土方のズボンとパンツを脱がせるように指示した。銀時は土方のズボンと下着を剥ぎ、尻を拭いて服を持って洗い場に行った。頭の芯が翳んでいた。何をするにも現実的ではなく、銀時の神経は肉体と隔離されているようであった。夢の中にでもいるような感覚で、銀時は土方の下着を洗い続けた。
 元陸軍軍医中将の腕は確かだった。治療が済むと、看護婦の淹れた珈琲を啜りながら二人は患者のいない待合室に腰掛けた。
「悪かったな」
 銀時はひどく疲れていた。
「全くだよ、商売上がったりだ」医者は冗談めかして云った。「あの時みたいにビタミン剤でも打ってやろうか?」
「よしてくれ」銀時はホロ島での過酷な来寇が脳裏に掠った。モロ族の蛮刀を受けた背中の刀傷の痕が疼くように熱くなる気がした。「土方はどうなんだ?」
「最善は尽くしたけど、どうなるかな」
「症状は?」
「栄養失調に虱による発疹チプス、それに併発で肺炎になりかかっている。免疫力がかなり落ちているから経過を見てからでないと何とも言えん。あとは――――――性病だな。梅毒と………。銀時、あの患者、肛門が壊れてる」
 何でもない表情を作ろうとしたが、唇が歪んだ。土方は滅法、排他的だった。触れようとすると過剰に戦慄いた。瞳には常時、絶望感が漂い、生きることがひどく億劫そうであった。だが、綺麗な顔をしていた。痩せ衰えていも一寸目を惹くような美青年だった。
「肛門に陰茎を挿入する性交をしてたのではないか、と思うんだが。大根なら易々とはいるぜ、ありゃあ」
「土方は………シベリア抑留者だ」
「シベリアか………ってことは、満州………」医者は咄嗟に顔色を変えた。「松陽先生か、おい、銀時」
「そうだよ。土方は満州で松陽先生と接触してる」
「じゃあ………先生は」
 期待と恐怖を瞳に宿した医者に銀時は首を横に振った。
「分からん。まだ何も聞いてねぇんだ。先生の消息を各地で情報収集していた時、大島温泉で土方の義兄、為五郎ってのと会った。盲目だったが、この人も義弟の消息を探していた。だが、土方十四郎は松陽先生と同じ場所にいた。これは確かだし、絶対に接触してるはずなんだ」
「高杉や桂には」
「悪いが、まだ伏せててくれ」
「なぜだ?」
 銀時は眉を顰めた。自分でも自分が煮えきらない。松陽の安否はずっと探し求めていた。これ以上ないほどに切望している。土方に初めて会った時から、彼が土方十四郎だということに気がついていた。為五郎からの書簡に寫眞が同封されていたのだ。だが、銀時は為五郎に土方十四郎が生きていたことを報告していない。それに、松陽に関しての情報も何一つ聞いていない。何度も尋ねようとしたし、為五郎にも連絡を取ろうと思いはした。だが、いざ土方十四郎に会うと、急速にその意思が凋んでしまう。顔を見て、声をかけて、短い時間を共有し、それだけで引き返してしまう。
「銀時、難儀したのは土方だけじゃないんだぞ。お前だって、俺も、みんな―――――――」
「わかってる。わかってるが、頼むよ」
「松陽先生の事なんだぞ、俺達の恩師だぞ、お前にとっては命の恩人だろう、それを!」
「頼む、頼むよ」
 医者は口を噤み、銀時を睨み据えたが、軈ては項垂れた。自分を落ち着かせるように頭を掻き、立ち上がっては、また座リ直す。溜息を吐いてから口を開いた。
「今まで行方が知れないんだから、情報を仕入れたところで直ぐに会えるとも限らないしな。お前にはホロ島で命を助けられてるから、仕方ない………だが、時がきたら話せ、いいな」
「ああ」
「お前のお気に入りと俺達の鍵だからな。俺に任せろ、なんとかするよ」
 コップを銀時に預けて医者は出て行った。銀時は一人、長椅子に横たわり目を閉じる。身体が途方もなく怠く、頭は靄がかかったように曖昧で、痺れていた。戦争を生き残った松下村塾出身の銀時の仲間達は口にしはしないが、もう恩師である吉田松陽が生きているという希望は抱いていない。危険思想、思想犯と汚名をきせられた松陽は何処で囚われてもおかしくはないのだ。ただ、皆、松陽の事蹟が知りたいのだ。どの方角に向かって手を合わせればいいのかを教えて欲しいだけなのだ。
 しかし、今の土方に精神的負担になるような事を聞きたくなかった。ただでさえ弱りきっている土方にこれ以上の負荷を与えたくはない。
「それだけか―――――――?」
 銀時はもう何も考えたくはなかった。ただ、今は、恩師よりも土方の生還を願っていた。