コンドルは飛んでいく






 駅前のこじんまりとした商店街を越えて、雄雄しい山々が聳える方向に向けて車を走らせる。山登りやバーベキュー川釣りなどのアウトドアのレジャーでなければ、こんなドがつく田舎道など利用することは無かった。カーオーディオからは「コンドルは飛んで行く」が流れている。この曲は東京から車を走らせること三時間と少し、サイモン&ガーファンクルのアルバムがエンドレスで流れているから軽く八回は聴いていることになる。
 十六時が通り過ぎて、空が茜色に染まり始めている。紫からのグラデーションが鮮やかで、山の稜線を曖昧に暈させる。助手席に座る沖田総悟は右手人差し指でリズムを刻みながら、夕焼けに染まる山間を眺めているようだった。山鳥が二匹、山よりも遠方を踊るように舞っている。
 煙草が吸えない口惜しさをウーロン茶で誤魔化す。信号が無いせいか運転が単調で軽い睡魔が訪れはじめた。目的地まであと十分も無いが、十分は短いようでなかなか長い。途中でコンビニに寄ろうと思ったが、商店街を過ぎて一店舗発見しただけで、ここ何キロか見当たらない。やがて舗装されている道も唐突に途切れて、あたりが一面田んぼになる。ため息をついてコンビニは諦めた。
「鮮やかですねぇ」
 総悟が感心するように言うから、改めて夕焼け空に眼を向ける。確かに、過ぎるほどに鮮やかだ。視界を邪魔するものが何も無いせいか、空に熟された茜色が世界を凌駕しているようにも感じる。そうか、夕焼けはこんなに綺麗なものだったんだな、小さく感嘆の意味を込めて吐息を吐いた。窓を開けてもいいか、と聞かれたから脱いでいたコートを着るよう指示をして許可をする。途端に冷たい山風が車内の温度を下げる。頬と耳が痛んだが、総悟は窓から顔を突き出して大きく息を吸う。主治医から何度も腹式呼吸の指示をされてもうまくいかなかったのに、腹部が動いている。
「暖房の空気よりずっといいですね」
「寒いぞ、身体に障るからそろそろ閉めとけ」
「大丈夫です。なんか、落ち着きやす」
 振り向いた総悟の顔色は確かにずっと良くて、もう少しだけな、と言うと、嬉しそうに笑う。その表情に喉が詰まった。ずっと見てなかった柔らかい笑顔だったから、不覚にも心の奥底に歯痒いものが蠢く。感情を誤魔化すように「しっかし、覚悟はしてたが本当に田んぼしかねぇのナァ」と零す。
「海も近いんですよね」
「そーだよ。山越えてちぃっと行けばもう海だ」
「じゃあ何も無くねぇじゃないですか。川もあるし、池もあんでしょう」
「自然の宝庫だよ、それ以外は何もねェ」
「それさえあれば十分じゃねぇですか」
「病院とかコンビニとかスーパーとかディスカウントショップとかドラッグストアとか相当離れてんじゃねーか」
「不便ですかィ?」
「そりゃ、オメェ………まぁ、病院が近くにないのは不便だが、テメーがいいんならそれでいい」
 総悟は瞳を細めて無言になる。それでも右手の人差し指は動き続けているから機嫌は冷えていない。
「そろそろ閉めるぞ」こくりと顔だけ頷いたので、パワーウインドウのスイッチを押した。
 総悟は土方に言わせると極度のマイペースな奴で、世間的には無気力症候群と呼ばれるようだった。掛かり付けの医者や心理カウンセラーにはアイデンティティがどうのこうのと診断され、心身ともに健康な状態ではないと見立てられ続けていたが、土方からみればそんな診断はチャンチャラおかしい。
 総悟の身体は健康そのものだし、確かに義務教育と決められている学校へは不登校だし周囲とのコミュニケーションは破滅的だが、周りのどんなものより、自己を確立している。土方以外と話すときは口数少ないが、言葉の重みも気持ちの有りようも毅然と理解している。
 まるで生まれてくる場所を間違えてしまったかのような奴だ。そう思った事は一度や二度じゃない。
 総悟は周囲の者と波長が合わない。具体的な解釈を求められても答えようが無いのだが、その異色さは明らかであった。物事の着眼点がいつも特殊で、哲学的とも違うが底知れず素っ頓狂でもない。独自の世界観を持っていて、それが総悟にとってひどく当たり前なのだ。変わっている、と総称してしまうには明らかに言葉が物足りなく見当違いな気がする。
 はみ出している人間は多い。そしてそういう奴は好んではみ出す。だが、総悟は大衆の中に交じれない。好んではみ出しているわけでは決して無い。総悟の事を理解するには普通の人間には無理だとも思っているし、理解をする必要も無い。総悟は総悟で生きればいいし、理解ができないのなら、手放してしまえばいいのだ。
 無理に理解しようとして、理解者ぶって、保護するから軋轢が生まれる。
 総悟の姉のミツバが持病で亡くなってから、沖田家は荒れに荒れた。ミツバの存在は総悟と総悟の両親を繋ぐ最後の糸だったからだ。血が繋がっていても、自分の思考の範囲を超える理解できないものは時に厄介になるらしい。総悟を病気だと決めつけ、過保護になり時に冷たく突き放し、夫婦間は冷めて泥沼だ。
 総悟を通して沖田家の実情をはずっと熟知していた。無表情で淡々とありのままを話すから、痛々しいとも可哀想だとも感じず、土方特有の性格も相成って、なるほどな、じゃあ俺が総悟を引き取るか。と当たり前のように実行していた。
 ちょうど大学を卒業して、これからをどうするか考える時期でもあった。何社かの企業からオファーがきていたが、全て蹴って友人が興した建築会社に頼み込み就職させてもらった。
 総悟をこれ以上都内で住ませるのは酷だと考え、だったらいっその事ド田舎暮らしはどうだろうか、面白そうではないだろうか、と安易に考えた結果、周囲に何も無い築三十五年の木造一戸建ての家を格安の値段で購入し、その家から車で一時間ほど走らせれば辿り着く友人の会社を懇意にしたのだ。
 総悟は喜んで付いてきたし、表面上は渋った総悟の両親も二言目には「十四郎君におまかせしようかしら」となった。土方の両親兄弟は大反対だったが、誰に反対されようと決めたことなので、と家を飛び出した。正確には静かに何も言わずゆっくりと出てきたのだが。
 曲は「明日に架ける橋」にいつの間にか切り替わっている。
「これって確か解散のきっかけになった曲じゃなかったっけ」
「音楽性の違いが表面化したらしいですぜ、でも、そもそも音楽性って何ですかねェ」
「そんなの解散の常套文句だろ」
「こんないい歌ァ歌っても音楽性の違いなんだから、世界は違うものばっかりなんだナァ」
「いい歌かそうでないかは価値観の問題だろ」
「俺にとって、って意味ですぜ。あ、そうだ、土方さん。コンドル和訳できますかィ?」
「ん、も一回流して」
 総悟がオーディオを弄る。三回巻き戻しを押して失敗した後、二曲目が流れ出す。
「確かこれ仮定法過去形とか高校英語で割りと文法理解できる歌詞だったと思うけど、合ってるか分かんねェからな」
 イントロで前置きを一応してから、そういえばサイモン&ガーファンクルが歌うのはカバーで原曲はアンデスのフォルクローレの代表的な曲だっけと思い出す。総悟は知っているだろうか。
 曲の節に聞き取れる範囲の和訳をすると、総悟は日本語にすると陳腐になるナァと苦い顔をする。
「お前っぽいんじゃねぇのか、特に、遠くへ遠くへ航海に出たい、去り行く白鳥のように、人は大地に縛られてこの世界で一番悲しい音をたてる、一番悲しい音をたてる、ってとこ」
「意味分かりやせん。じゃあ、土方さんは通りになるなら森になったほうがいい、そう、森になりたい、もしできるならもちろん森になりたい、ってとこかナァ」
「意味わかんね」
 田んぼ越えると、林に入る傾斜を背景にぽつんと家が見えてきた。先代の住人がなかなか綺麗に使ってたと不動産業者が言っていたが本当かもしれない。家の周りは整備が行き届き、思ったよりこざっぱりしていた。
「ここが今日から家になるんですかィ」
「そうだよ、取りあえず停めたら荷物持ち運ぶから」
 駐車場は無いが、どこに停めても誰に迷惑がかかることが無い。何せ隣家まで、百メートル程度の距離がある。
「はいよ」
「えらい元気だな」
「んー」と総悟はやっぱり懐かしい笑顔を受かべる。「俺にとって、いい事だらけですからね」
 総悟の顔は茜色に染められて、ずっと遠くを見ていた。いつか見た夢が現実になりそうで、それがひどく居心地の悪い感覚を呼び起こす。
 総悟の頭を小突く。
 俺にとってもいいことばかりだよ、と思ったが、言葉にはしなかった。


 車から詰め込んでいた荷を降ろすと、総悟が疲労を顔に出していた。久しぶりの長時間のドライブでくたびれたのか、畳の居間に運んできたばかりのカーペットに横たわる。ダンボールが部屋の端に置いてあり、これを開き片付けるのは億劫だな、とうんざりする。明日業者が残りの荷物を持ち込んでくるからその時にまとめて片付けてしまえばいいか、と早々に放棄した。土方も疲れている。
 できるものはその時に勢いでやる事が信条だが、確かに疲労も感じているし、何より総悟が気がかりだった。どうも舞い上がりすぎていて調子がおかしい。
「疲れたか、はしゃぎすぎなんだよ、馬鹿」
「んー。ちょっと休憩で、なんか気ィ抜けやした」
 そのまま土方も総悟の直ぐ隣に腰を下ろす。背筋を伸ばすと脊柱が軋んだ音を立てた。ここまで長時間の運転は久方ぶりだ。
 覗き込むと総悟の顔色が多少紅い。熱でも出したか、と額に手を触れる。土方の手の平の体温より少し高い。本当に気が抜けた顔をしている。肩もいつもより撫でていて、何か重いものをどこかに置いてきたのかもしれない。
「怠いか?」
「平気です」
「無理しなくていいから」
「無理なんかしてやせん。俺はそう柔じゃねェのに」
 沈んだ口調で言うのでため息をつく。心配されることに対して総悟は昔からずっと戸惑い続けている。身の置き場が分からなくて迷子の子供みたいな顔をする。
 風が吹くと窓縁が軋む。その音に慣れなくて、だが、心細さは無い。新しい家の匂いはそうそう悪いものではなさそうだ。
「人間は壊れやすいモンなんだよ」
「俺ァ、壊れてんのかなァ」
「まだ大丈夫だろ」
「まだって、ヒデェなァ」
 柔らかい髪の毛を乱暴に撫でると総悟はそのまま丸くなる。捻くれると後が面倒だが、多少気が荒れないと総悟の本心は覗けない。感情を表に出すことも、気持ちの根っこのところを深く追求することも総悟は下手糞だ。自分の気持ちを相手に伝えても何にもならないと思っている。発した言葉の重みも、捻じ曲がった思考の在りようも、衝動の行方も何より理解し達観しているから諦観も深い。
「土方さんはバカだなァ、きっと何も残らねェんですぜ」
「はァ?」
「こんな遠くまで来ちまって、何もありゃしねェのに」
 後姿が頑なで、それがずっと総悟だった。
「いいんだよ、俺ァほんとに要るモンだけありァいいんだ」
「土方さんはええカッコしーだからムカつくんでィ」
「さっきまであんなにはしゃいでたじゃねーか、オメーはほんっと、わけわかんねーな」
 苦笑が漏れた。総悟の背中が強張るたびに土方はそれが面白い。一種の嗜好のようなものだ。
「俺は元々わけわかんねー奴なんですよ、何に対しても考えが喰い違う」
「根っこから分かる奴なんて面白くねーからいいんじゃねェの? だいたいよ、皆が皆、考えが同じだとロクな事がねーんだ。歴史振り返ってみろよ、それに、なんだってそうだろ、絶妙なバランス保って成り立ってんだ」
「そんな規模の話じゃねェ」
「お前はお前でいいって事だよ、いいじゃねーか、どうだって」
 総悟は黙る。丸まっていたからだが徐々に弛緩し、背中越しに溜息が聞こえた。
「コンドル、聞きてェ」
「散々車ん中で聞いたろ」
「なんで日本にアイツらいないんだろ」
「知ってんのか、コンドルの主食は大型動物の死体だぜ?」
 とは言うものの、コンドル等の屍肉食者は腐敗した死体から発せられる病原菌の発生を防いでくれる役割がある。それ自体を食すからだ。自然界も絶妙なバランスでそれぞれの役割が存在している。
「そのかわり、生きたモン喰わねェじゃねーですか、土方さん、俺はね、多分、道徳っていうやつが欠落してるんです」
 煙草が欲しかった。だが、生憎持ち合わせが無い。総悟の前では吸わないようにしてきた。これからもそうなのだろうか。総悟の身体は健康体なのだが、何かが不安定に揺れることがある。落ち込むとかそう言うのではなく、もっと感覚的なものだ。世界からブレる、というか、歪む。空間に波紋を広げて、どこかに吸い込まれていきそうな、おかしな話だ。だが、土方はいつも危惧している。煙草一つでどうなる話でもないのは分かっているが、総悟に思い出させてはいけない事がある気がして。
「誰が死んでもきっとそこまで悲しくねェ、姉上が亡くなって、そん時くらいですかね。きっとこの先、俺が悲しむのは片手で数えてもお釣りが来るんです。ずっとそうだった。誰が目の前で転んでも、悲しんでも、テレビで誰が死んだと報道されても、なんでも、俺は悲しくねェんです。なんも心が動かねェんです」
「いいんじゃねェの、手に触れることができる関心のあるモンだけ大事にすれば。そんな自分とは接点のないもんにイチイチへこんでたら生きていけねェよ。今もこの時だってどっかの誰かが理不尽な死に方してんだ、俺はな、総悟、そういうのに勝手に感化されて可哀想だとかかわってやりたいだとか言う奴や、自分は何もしねェくせに、他の何かに責任押し付ける奴の方がいけすかねェよ」
「土方さん、生きてる奴殺すのと、死んだ亡骸に刃物たてんのはどっちが悪いことですかィ?」
「総悟、何が言いたい」
「例えばの話です」
 起き上がり、視線を合わせてくる。総悟の瞳はいつもと変わらない。だが、妙な違和感が土方に胸騒ぎを起こさせる。
「総悟」
「どっちが、悪いことですかィ?」
 総悟がもう一度聞いてくるのと、刃物を首筋ぎりぎりに向けられるのはほぼ同時だった。少しでも動けば斬れる距離、土方は少しもうろたえない自分自身にうろたえていた。何も怖くなかった。それよりも、総悟がいなくなるほうが怖かった。
 このまま首を掻っ切られても、総悟を恨むことは決してないだろう。
 無性に煙草が、吸いたい。
「どっちが悪いかとかは興味がねェが、お前が誰を殺しても、狂気に走っても、俺は全力でお前を庇うと思うよ」
 総悟が唾を飲む。沈黙が落ちて、視線だけが交わっている。総悟は土方に刃物を向けたまま、困ったような笑みを浮かべた。
「ずっと、生まれてからずっと、頭ん中で禅問答が繰り返されてるんでさァ」
 怖ェ、と呟くと、総悟の眦に涙が浮かぶ。怖ェ、怖ェと低く呟き続け、身体が震える。唇は弧を描いているのに、瞳は悲傷に伏せられて、刃物を持つ手は明確な殺意を抱いている。どうもちぐはぐで、それが総悟なのだな、と理解した。
 口から出た言葉は、自分でも驚くほどにピンとはずれだった。
「車、売ろうと思うんだ」
 総悟は一瞬不思議そうな顔をして「なんででさァ」と聞いてくる。瞬きするたびに涙が散る。
「イタ車は壊れやすいし、不便だし、ここであれ乗り回しててもどうしようもねぇだろ」
「親父さんはいいって言ってるんですかィ?」
「さァな、もらったもんだから俺の好きにしていいんじゃネェの」
「一応確認取ったほうが」
「いいんだよ、煩わしい」
「アンタ………ほんとに全部捨ててきたんですかィ?」
「言ったろ、もうお前以外なんもねーんだ」
 総悟は、バカな人だ、と刃物を下ろす。呆然としているのに、面に出ないから少し笑えて、頭を引き寄せてそのまま二人で倒れる。居間には数個のダンボール以外何もない、総悟と土方しかいない。
 「コンドルは飛んで行く」は、無くしたい、でも、穏やかに過ごしたい、そういった曲調だった。
 飛んでいってしまっても、きっと戻ってくる。そういう意味に捉えてもあの歌詞は間違いじゃないはずだ。
 腕の中の総悟は泣くばかりで、それだけで、ぶれない、歪まない。やっと一致する。それがひどく心地よい。
 あるいは、思い出してしまって、それでもココを選んだのかもしれない。