その男は異質だった。
 高橋智子は抗えない何かに惹き寄せられるかのように、無意識に土方十四郎に視線を向けていた。大抵、気持ちが集中していない時、意識が彼に向かってしまうのだった。
 大学受験を間近に控えた教室内の感情や表情は各人各様であり、ひとつ空間に多数の人間がいるのにも関わらず他人に注意を向けるものはあまりいない。窓の外では灰色の雲が空を凌駕しているせいで日差しが入ってこないため、室内は陰鬱に思えた。蛍光灯は照っているけれど、人工的な明かりが午過ぎのこの時間にはかえって白々しい。そのうちの何本かは寿命が尽きたまま放置されている。まるで、そのうちお前らは居なくなるんだから、これ以上の計らいは無用とでも謂わんばかりである。それに、無風である。開け放している窓は室内に澱んでいる空気を換気するわけでもなく、かえって戸外の澱みを引き受けているかのようだ。
 智子は十中八九、否、言葉があるとしたら十中十、進学する大学に受かっているようなものだった。智子の唯一の取り柄は頭脳であったし、志望の看護大学は偏差値がそこまで高いわけでもない。余裕の合格圏内で、寧ろ、余りあってお釣りがくるぐらいだった。この高校への進学動機も実家から近くて偏差値は平均よりも上、校風も可もなく不可もなく特色があるわけでも別段欠点があったわけでも無かったからだ。智子には熱意というものが欠けていた。智子自身も自覚している。看護大学に進むことを決めた理由も看護師の資格があれば就職には困らないだろうという消極的だか無気力だか、その程度のものだった。
 智子には無垢な期間、世に云う子供の期間が極端に少なかった。現実や人間社会の合理性や秩序や矛盾を幼いころから逸早く理解していた。要するに、冷めた子供だったのだ。冷めたまま一八歳になった。
 そんな智子が高校生になって興味を抱いたのが土方十四郎という存在だった。土方十四郎は智子がこれまで出会ってきた人間の中で最も得体の知れない男だった。といっても、智子は土方十四郎と特別親しいわけではない。高校三年間を通して同じ学級にも関わらず、言葉を交わした回数はほんの数える程度だ。接点も見当たらなければ、共通点も無い。それなのに智子にとって土方十四郎は無視できない存在だった。そうでなくとも、土方十四郎は目立つ。整った顔立ちに、均整のとれた体躯、何より彼が纏う印象の隙のなさは、近寄りがたく危うい。彼と同じ空間にいるのだと思うと奇妙な気がしてくる。本来、遠目から眺めるべき存在が彼なのだ。周囲と比較すれば顕著である。土方十四郎に対して同年代の男に対して感じる幼稚さを智子は全く感じなかった。
 土方十四郎は基本的に単独だ。周囲が避けているわけではなく、必然的にそうだった。近寄り難さもあるけど、一番の要因はおそらく、彼の無駄だと思うものや必要のない事柄に執着しない人間性故だろうと予測している。他人からどう思われようと一切、頓着しない。自己という確固たるものを持っていて、だからこそぶれること無く生きていける人なのだ。土方十四郎の発言や行動は、彼という軸から逸れることがない。性格が派手なわけでも、だからといって地味なわけでもない。ただ、異質なのだ。
 土方は頬杖をついて曇天を仰いでいた。智子の座席からだと、彼の横顔の半分が見えるくらいだった。智子はそのうち正体の知れない焦燥を感じて、目線を卓上に移す。参考書の問題集を解こうとしても、文字が頭の表面を空滑りするかのように逃げていく。考える気力が萎えていた。
 ここではないどこかへ……不意に、先日都内の書店で手に取った日本語の訳された洋書の題名が脳裏に上った。思わず手に取ったが、自嘲し再び棚に戻した一冊の文庫本の題名が妙に気がかったのは、その響きが魅力的だったからだ。ここではないどこかへ、非現実的な世界へ、智子はノートの端に何かを書こうとして止めた。前の座席の女の子が背を伸ばす。制服に浮き出た肩甲骨を眺めながら、智子は妙な腹立たしさを覚えた。それから、土方の進学先はどこだろうとふと思った。近くにいるのに土方は智子にとってひどく遠い存在だった。

 五つ年上の従姉に夕御飯を誘われたのは受験一週間前の木曜日だった。
 待合場所で正面のビルの大時計を眺めながら、従姉が来るのをすることもなく待っていた。目の前では人が急ぎ足で右から左から追われるように歩いている。規則性のない人の波が今は他人事でも一度そこに踏み入れれば自分も大勢の中の一人に過ぎなくなる。個性は失われ、波の一部になる。ひどく空虚な思いを抱いていると、前を知人が横切った。都内、主要駅の駅前は混雑していて、知り合いに会ったとしても気がつかない場合が多いのに、その知人を発見したのは、特徴に富んだ人物だったからだ。すぐに人混みに紛れて行方が見えなくなったが、智子は一寸意外な気がした。
 指定時刻から五分遅れて従姉が着いた。従姉の顔を見て、この人と同じ血が流れているとは思えないな、と毎回抱く想いをその日も繰り返す。無邪気さがおさまりきらずに表情に溢れている。智子と違い、一緒にいると人を変に愉快な気持ちにさせる。物怖じすることも無く、自然に人の懐に入り込むことができる才能を従姉は生まれながらに持っていた。
「智ちゃん、遅れてごめんね」
 悪びれもせずそう云うと、従姉は雑踏を歩きだす。智子も彼女に続いた。従姉の足取りは軽く、人混みを流れるようにすり抜けていく。振り返っては話題を振り、智子の話に耳触りのいい返答をする。なんでもない話をしているのに、従姉の話はまるで特別な唯一無二の面白い事のような気がしてくる。言葉の抑揚や表情、少し大げさな表現が魔法のように作用する。智子にとって従姉も一種の異なる存在であった。だが、土方よりは大分馴染み深いし、身近である。
 従姉に連れられて入店したのは駅から少し離れた路地を入ったところにある地下一階の沖縄料理のお店だった。幅の狭い階段を降り、店内に入ると琉球石灰岩のフロアや壁が沖縄らしさを醸し出していて、木製ラティスなどを使用し、琉球ガラスの青く幻想的な照明で、洗練された雰囲気が漂っていた。店員に案内され付いていくと、個室に通された。親しげに従姉が定員と話す様子から、よく利用している店なのだろうと察する。自分も社会人になったら、こうやって行きつけの店の定員と仲良くなれるのか智子には想像がつかなかった。
 お絞りを持ってきた定員が去ると、従姉は智子にメニューを見せ「食べたいものある?」と聞いてきた。
「おすすめ頼んでよ。なんでも食べれるから」
「そうだね。智ちゃん好き嫌いないもんね。えーと、ビール飲んでいいかな。智ちゃんはオレンジジュース? コーラ?」
「烏龍茶がいい」
「了解」
「じゃあ頼んでおいて。私、お手洗い行ってくる」
 メニューを吟味している従姉に言って席を立つ。表示がなかったので、とりあえず入口と反対側に向かって手洗いを探していると、特徴のある髪色の人物に目がいった。まさか、と思って開いている扉から個室に視線を向けると、奇遇にも先ほど駅前ですれ違った知人だった。知人といっても四年前のことで、さらに智子はその知人にとって大勢の中の一人に過ぎないから向こうが覚えているかどうか分からない。声をかけようか逡巡する。プライベートなのか私服姿で、スーツ姿しか目にしたことがなかった智子は少しだけ高揚した。一時期、智子は彼に憧憬していたのだ。
 少し迷って、智子は「先生」と声をかけた。「坂田先生」
 坂田銀時は顔を上げると、智子に視線を向けてきょとんとした。智子はその表情に些か気落ちしたが、それでも微笑って「四年前、特進塾でお世話になった高橋です」と口にする。
 途端に坂田は笑みをうけべて「ああ、悪ぃ」と謝ってきた。
「いえ、突然ですいません。懐かしかったものだから」
「女の子って、高校生になると途端に色っぽくなっちゃうもんなぁ」
 悪戯っぽく云われ、智子は足元が浮きそうになる。嬉しかったのだ。
 照明が暗いので坂田の色素の薄い銀髪は燻銀に見えた。特徴の強いパーマも健在で、見た目は四年前とほとんど変わらない。日本人離れした容姿なので、若いとは思うのだが年齢不詳だ。塾講師の中で坂田はそこまで熱心な先生というわけではなかったが、何故か生徒に人気があった。
 座卓にはビールジョッキが汗をかいている。小皿にはお通しと簡単なつまみが何品か。坂田は一人で飲んでいて、智子はもう少し会話がしたかった。だが、従姉が待っているし、一緒しましょうなんて事は言えない。坂田に声をかけるだけでも結構な勇気を振り絞ったのだ。同席に誘ってもらえたら、とも思ったがとうとう諦めて、
「では、また」と、またなんて次の宛てのない場を離れる常套句を使って、手洗いに向かった。
 ここではないどこかへ、坂田なら連れて行ってくれるような気がした。違う場所へ、智子の居場所へ―――――――――――
 席に戻る途中、また坂田の居る個室の前を通ったが、今度は戸がぴったりと閉ざされていた。連絡先を書いたメモ用紙をぎゅっと握って、歩みを遅くしても戸は開かず坂田の姿を見ることは叶わなかった。従姉みたいに軽い調子で相手のテリトリーに入り込むことなどできない。智子はメモ用紙をポケットに突っ込むと、従姉の待つ個室へと戻っていった。
 従姉の話は面白く、目新しい。だが、智子の世界との隔たりがありすぎて、興味深く愉しいのに疎外感も感じた。語学留学でオーストラリアに行った話、横田基地の在日米軍と付き合った話、タイに旅行に行き、飲みすぎて気がつくと知らない場所にたった一人になっていた話。智子の日常は学校での出来事がほとんどを占めている。学校か自宅が。部活にも入っていなかったし、バイトもこれといった習い事もしてこなかった。仲の良い友達はいるが、休日にどこかに一緒に出かけるほどの親密な付き合いではないし、今年に入ってから受験でそれどころではない。従姉は社会人で自分は高校生、生活圏内が違うし経済事情も違う。そうは思っても、この先、智子は自分が従姉のように世界を拓かせることができるのか分からなかった。智子は行動的になれる自分が、広い世界で活発に行動している自分が想像できなかった。
 従姉の話に相槌を打ちながら智子は坂田のことを考えていた。彼との偶然の邂逅が自分に差し込んだ一筋の光のような気がしていた。そんな都合のいい話があるわけないと否定しながらも、平凡な生活が一変するような出来事をどこかで望んでいる自分に気が付いている。
 自分を突き動かしてくれる誰かが堪らなく欲しかった。
「そろそろ帰ろうか」
 腕時計は二一時を少し過ぎた時間を指していた。店内は話し声や笑い声が響いている。店は盛況で店員の接客態度も快く内装は清潔で味も申し分なく美味しかった。お酒を飲む人達はまだまだこれからなのだろう。
「お腹いっぱいになった。ありがとう」
「うん、良かった。今日は受験がんばれの景気づけね」
 昔からそうだった。この従姉は智子の生活の区切りに連れ出して御馳走してくれる。小さいころから何かと面倒を見てくれた。自分のどこを気に入ってくれたのか、智子は全くもって分からない。従姉と智子の性格はほとんど正反対なのに。自分と一緒にいて従姉は愉しいのだろうか。
 個室から出ようとしていた従姉が戸を開いて、不意に動きを止めた。鞄を持ちあげて「どうしたの?」と聞く。足を踏み出そうとしてそのままその前に進まなかったから不思議に思ったのだ。
「うん……ちょっと」と従姉は腑に落ちないと云った感じで首を捻った。
「なんかあったの?」
「圧倒された、みたいな。なんか上手く表現できないんだけど、なんか近付いちゃいけないようなそんな気がしたの」
「何に?」
 開けた戸を何故か閉めて、従姉は振り向いた。照れた表情を浮かべていた。
「なんかね、今、銀色の髪の人ともう一人男の人が通ったんだけど、なんだろう。ちょっと変な感じがしたんだ。普通の人……っていってもちょっと格好よかったんだけど、まぁ、普通の人なんだろうけど。それだけじゃなくて……なんか、なんだろう。ちょっとわかんないや」
「銀髪の人?」
「そう。染めてるのかな? すごく綺麗な色だった。色素が薄くて髪色が自然だったの。日本人かなぁ、なんか顔は日本人みたいだったけど、肌もすごく白くって」
「坂田先生だ」
「坂田先生?」
「うん。さっき会ったの。お手洗いに行く途中で。中学校の時の塾の講師」
 智子は従姉が閉めた戸を開け見回したが、もうそこには坂田の姿は視えなかった。連絡先を書いたメモはポケットの中にまだ入ったままだ。
「なんか、今まで見たことがないタイプの人だったな」
 従姉が独り言のように呟いた。
 人工的に乱立されている建物や人込みだらけの都会でも、地下にいたせいか地上に出て頬をくすぐる風は気持ちがよかった。来週は受験だというのに随分と自分はのんびりしている。級友は受験に向けて猛勉強しているのに。思えばいままで、一生懸命何かをやり遂げようとしたことなどこれまで一つもない。なんとなく、傍にあった取りやすいものを選んでここまで生きてきた。そこには不満が無い代わりに、満足も無い。ただ、鬱屈している。退屈で気怠いだけだ。
 タクシーに乗り込む。従姉が場所を運転手に告げ、車が動き出す。料金メーターを起動させた運転手はどこにでもいる中年男だ。フロントミラーに紙魚のある鼻と細い眼が映った。この運転手は高校生の頃、自分が今の職業に就くなんて事を想像していたのだろうか。現在の自分に満足しているのだろうか。狭い車内で客の乗車と降車を繰り返し、指定された場所まで言われるがまま運転していく。味気なくはないのだろうか。街を往く草臥れた顔をした会社員も化粧の濃いホステスも誰も彼も特別じゃない大勢の中の一人だ。この世界の中でどれだけの人が、自分の生活、自分の世界が唯一無二のものだと誇れているのだろう。
 大学に通い、看護師の資格を取得し、どこかの病院に勤める。それは自分にとって価値のある人生になるのだろうか。親も教師も志望校はもう少し高いところを狙えるんだから上を目指せと度々持ちかけてきた。智子はその度に、大学に進学することの価値を失っていった。結局、どんなに環境を変えたところで智子の世界は色褪せたままだ。倦怠が付き纏い、意欲を削ぐ。どこに行っても何をしようとしても同じだ。これから先も、おそらくは。
 雑居ビルが連立する大通りを時速四十キロで進んでいく。街灯の光を眼の端で追いながら、では自分はどこに行きたいのだろうと、自問した。どこにたどり着き、何をしたいのか。隣に座っている従姉が欠伸を漏らした。どこにも行けない。行けないののではなく、行く気力がない。熱意がわかない。その癖、焦燥ばかり感じている。
「智ちゃんはさ」従姉が眠た気に話しかけてきた。「なんで看護師さんになろうとおもったの」
 理由はない、なんとなく、就職に困らないかと思って。と、そんな本音を云うのは従姉には憚られた。目指した道を邁進する従姉に智子の気質が分かる筈がなかった。諭されるのも同情されるのも気が重いし、別の理由があるはずだと掘り起こさせられるのも面倒だ。
「小さいころからの夢だったから」そう云うに留めた。自分で云った言葉の空虚さが脳に蟠る。
「へぇ」と、従姉の声は意外そうだった。
 大通りの途中で左折し、住宅街に入ると途端に人気が少なくなった。街路樹が街灯に照らされて静かに佇んでいる。駅周辺とは違い、緑茂るちょっとした公園があり、庭の広い家はガーデニングが施されている。自宅に近付いてきたせいか、なんとなく疲れが滲んできた。
「あのマンションの前で停まってください」
 智子の自宅より、従姉のマンションの方が近い。マンションの脇に停車すると、従姉が財布から五千円札を取り出し運転手に渡した。それから智子に「お釣りはお小遣いであげるから、じゃあまたね」と云ってタクシーを降りた。車が動き出すまで従姉はそこに立って智子を見送ってくれた。運転手がこちらに話しかけてこないので安心した。知らないおじさんと会話するのが、智子は苦手だった。たまに道を案内する以外は無言で流れる住宅街をぼんやりと見送っていた。
 小学校の正門を通過しようとした時だった。智子は思わず「停めてください」と声をあげていた。運転手がブレーキを踏む。サイドブレーキを上げる。智子は視界を捉えた人物に驚いていた。何かに突き動かされるような気がした。強い意志が働き、智子は驚かされて目が覚めるような気持ちになっていた。
「開けてください。ここで降ります。お釣りは結構です」
 ドアが開くと同時に滑るように降りて、逸る気を抑えながら小学校の正門に向かう。正門の向こう側、昇降口の前に立っているのは先ほどの沖縄料理店で邂逅した坂田銀時その人だった。坂田は横を向いていた。ジーンズのポケットに手を突っ込み首を竦めていた。正門の横引きシャッターは閉まっていて、施錠もされているようだった。もしかして、飛び越えたのだろうか。不審に思うよりも、心臓が早鐘を打って心が沸きたっていた。偶然に偶然を重ねている。なんて声をかけようか、それよりも何しているんだろうと坂田の視線の先に目を向け、そこで智子は意表を突かれた気になった。
 坂田の視線の先、敷地の片隅に石碑があり、そこにもう一人男が立っていた。暗がりで顔はよく見えないがシルエットで男だと分かった。智子は突然、自分が場違いな気がしてきた。そして、辺りがやけに静かなことに気が付いた。それは奇妙な静けさだった。そういえばと周囲を見回す。見慣れた風景なのに、何時もより暗く感じた。街灯はあるし、月も出ている。だが、心細くさせるような深い静寂を感じた。人気がない、それだけじゃない。夜だからだ、それだけじゃない。まるで、海底にいるような不安定な暗さだ。思わず後ずさる。坂田はこちらに気がつかない。彼はもう一人の男を見続けている。タクシーが停まって、智子が降りる音も聞こえたはずだ。そこまで離れていないのだから。なのに、坂田はこちらに見向きもしない。まるで周囲に注意を向けない。
 途端に、ぞっとしたものが背筋に走った。目には見えない圧力を感じ、智子は踵を返していた。慣れた路だ。十五分も歩けば自宅に着く。早足で離れる。路地への角を曲がり、小学校が視えなくなると胸の圧迫感が嘘のように消えた。智子は汗をかいていた。そして、唐突に入れないのだと理解した。景色はいつもと同じだった。再びあそこに戻ろうとは思えなかった。残ったのは疎外感だけだった。
 ここではないどこかへ行きたかった。坂田なら、その、どこかに行けたのだ。だが、彼は智子を選ばなかった。




 卒業証書の筒を片手に桜の木の下まで歩いてきた。新しい門出に向かう高揚感も、三年間通った高校を後にする寂寞も感じなかった。智子の日々は今まで通り過ぎていくのだと思われたし、波立たない気持ちだけが始終寄り添っている。少しだけ感傷に耽ってみようかと思い桜の木の下に立ってみたが、特にどう云った感慨も浮かんでこなかった。
 同級生はあちこちで何人かに塊り話をしたり、泣いたり笑ったりしている。智子はそういった馴れ合いが何よりも嫌いだった。筒を鞄に押し込み、そのまま帰ろうとすると、智子の脇を誰かが通り抜けた。その時、一陣の風が吹いた。その風は思いのほか強く、智子は歩みを止めざるを得なかった。
 屹然と正門に向かって歩いて行くのは、土方十四郎だった。その歩みはしなやかで、迷いなどは感じさせない確かな歩調だった。彼は智子と同様、感情を波立たせてはいなかった。だが、彼と智子には決定的な違いがあった。
 四か月前、ちょっとした耳目を驚かせる事件があった。学校中が話題にし、受験でストレスを抱える同級生たちの格好の捌け口となり面白半分に騒ぎ立て尾鰭がついて噂は広まった。だが、土方十四郎が公衆の面前でとある男に告白したのはどうやら事実らしい。周りから揶揄され、好奇な目を向けられ、蔑まれても、当の本人はどこ吹く風といった体で相手にしなかった。
 気が付くと、周囲の誰もが話を止め、土方十四郎を眼で追っていた。颯爽と歩く後ろ姿に魅入っていた。智子はその一人ひとりの瞳の中に自分と同じ想いを見つけた、鬱屈した色を見てとった。土方十四郎は特別な人間だった。彼はやはり、異質だった。同じ世界で違うものを見て生きていた。誰の表情にも取り残されたという思いがあった。彼は人と違った。それはある種の領域だった。
 土方十四郎を意識すると、自分が誰でもないことに気づかされるのだ。それは、焦燥と苦痛を伴った。自分をひどく小さな人間だと自覚させ、狭い空間に閉じ込められているのだと気づかされた。
 土方十四郎は校門を越えた。智子は目を瞠る。その先に黒いセダンが停まっている。運転席側に立っていたのは坂田銀時だった。坂田は独特な笑みを浮かべ、土方に何かを云った。ここからでは聞こえない。土方も何かを云い返したらしい。それから二人は車に乗り込み、そして、視えなくなった。
 智子は狐につままれたように、多時その場を動けなかった。
 彼らが去って残ったものなど、何もなかった。