天井を一匹の金魚が泳いでいる。
 金魚は竿縁天井いっぱい、縦横無尽に遊泳していた。しばし目で追う。あまり泳ぎ方がうまくないようだ。首を左右に激しく振り、たまに体全体が斜めに傾いだりする。銅は丸くこんもりとしていて、泳ぎっぷりは優美な舞いとは程遠くその動作は忙しないが、長く繊細な尾鰭は体を反転させるたびに翻り、天女の羽衣かとみまごうほどに美しくなめらかだ。眼が離せなかった。金魚は決して小壁にも長押にも衝突せず、天井版と竿縁の下を目一杯を遊泳する。よくよく観察すると、口先は尖っていて、各鰭が極めて長い。土方十四郎は右手を金魚に向けて緩慢に持ち上げた。今の土方には天井の金魚は遠すぎた。身体全体が夢の中にいるように重かった。
 最初の医者の見立てでは咳と鼻風だった。だが、体調を崩して二日目、腔内に、赤く中心が白い斑点が幾つか発生して、医者の見立ては麻疹に変わった。「命定め」と告げられて、副長室から部屋を移った。離れにある旧武器倉庫は埃臭く、隙間風が甚だしいが、熱で浮かされ、瞼は重く、感覚が鈍くなっているので然して不都合を感じなかった。土方はただ、ぼんやりとしていた。最早苦痛も感じなかった。高熱に身体は慣れ親しみ、咳をすれば一瞬は喉の痒みが落ち着いた。金魚を眼で追っていると、時々、天井が回る。世界も回る。その時の対処法は目を閉じて大人しくやり過ごすしかない。やがては一時的に治る。だが、また偶発的に発生するのが厄介だった。
 土方は、金魚にこの手は届かないのだと悟り、一気に力を抜いた。腕が敷布団の上で二三弾む。それでも金魚は素知らぬ顔で、体は些か不細工に、鰭は優美に体をくねらせている。金魚は赤い。薄暗い倉庫の中でそこだけが、発光している。
―――トシは、死ぬのか
 唐突に、近藤勲の声が脳裏に響いた。幻聴だと分かっていても鮮明だった。医者に詰め寄った時の、すさんだ顔まで想像でき、土方の心は少し和んだ。数日前の記憶だった。
 体に不調を感じてから、嫌な予感がした。自室に篭って、医者以外は誰も入れなかった。その判断は正しかった。こういう時、自分は決して間違えないのだ。
 麻疹だと宣告し、診察を終えた医者は部屋から出ていった。それを副長室の前で近藤が待ち構えていたらしい。襖は既に閉じていて、土方からはその姿がみえなかった。
―――近藤さん、土方さんがそう簡単にくたばるわけがないでしょう
 沖田総悟の呑気そうな声も聞こえた。
―――そうですよね、松本先生
 江戸幕府の医官でもある松本不順は襖の向こう側で「命定め」とだけ答えていた。近藤と総悟の声はそれっきり聞こえなくなった。天井で金魚は泳ぐ。近藤と総悟のものではない幾つもの声が脳内に呼応する。最初は誰が発したのか判別ができたが、いつしか際限なく言葉は錯綜し、やがて混沌と化した。話声の渦の中に巻き込まれ、耐え切れなくなって耳を塞いでも、直接頭の中に流れ込むのでは防ぎようがない。攪拌される。頭が激しく揺れ動かされる感覚に嘔吐く。枕元の盥を咄嗟に引き寄せ、顔を突き出し蹲る。吐いてしまえば楽になるのかもしれないが、吐き気は滞るだけで、吐瀉されない。脳を犯す声は止まない。眉間が割れそうだ。唾液だけが盥に数滴こぼれ落ちる。
 脳が焼ききれる覚悟をした時、天井で水音が鳴った。澄んだ反響音は、無数の声を取り払った。土方は緩慢に首を曲げて天井を向く。そこに、金魚はいなかった。そもそも、天井に金魚がいる分けがないのだ。そこは元の通り、蜘蛛の巣だらけの天井に変わりがなかった。犬張子が奇妙の具合に垂れ下がっているだけだった。見間違えたのだろう。そう思い、首を戻すと、何時の間にか盥に水が張っていて、天井にいたはずの赤い金魚が泳いでいた。
 幻惑だ。
 金魚が広げる水面の波紋が、土方の意識を絡め取った。

 昊天は晴れ渡り、額にはうっすらと汗が浮く。それでも緑風はそよぎ皮膚の熱を浚ってゆく。
 街道に建ち並ぶ旅籠屋の店先で出女が目ぼしい客に呼び込みをしていた。土方も腕を度々引っ張られるが、軽くいなして進むうち、宿場も途切れ、神社がみえてきた。そこでは尻絡げをした棒手売らが参拝者相手に元気に立ち回っている。
「きんぎょうーえ、きんぎょー、きんぎょ〜、めだか」
 独特の甲高い口上に土方の草履が止まる。土方は出稽古の帰途だった。目敏く土方が関心を寄せた事に気がついた振り売りは、身軽な足取りで直ぐ前までやってきて、天秤棒を地面に置いた。天秤棒には左右に盥が提げてあり、右の盥の中には数匹の金魚が泳いでいる。盥の持ち手のところには、紐で括りつけられ、硝子の金魚玉が三つ下がっていた。
 土方は腰を落とした。
「兄さん、ランチュウ、ワキン、ヂキン、自然の鑑賞美は土産にも喜ばれるよ」
 振り売りは若かった。壮健な身体に浅黒い顔をしている。笑うと眼が細くなり、涙袋が膨れた。
「どれが、どれだ?」
「この背鰭が欠如してんのがランチュウ、この三つ尾がワキン、この独特な色してんのがヂキンで六鱗っていう体色が特徴だな」
「これは」
「ああ、それはリュウキン」
 土方の眼を惹き付けたリュウキンは、上から見ると尾びれがひらひらと花のように広がっている。
「リュウキン」
「そう。明国から琉球を経て渡来したことから命名されたそうだ。だから琉金」
 土方は懐具合を頭の中で確認した。何時もなら、気にもかけないで素通りする金魚売りについつい足を止めたのは、つい先日、近藤と共にミツバと総悟の住む家に立ち寄った時、総悟が近藤に金魚のことを聞いていた事を思い出したからだ。縁側に近藤と総悟は並んで腰をかけていて、土方は少し離れたところに立っていた。西日の眩しさをよく覚えている。「近藤さん、金魚ってなんです」と総悟が近藤に聞いた。
「金魚? ああ、赤くてなァ、こーんなちっせぇ魚だよ」
 近藤は片目を瞑って、親指と人差し指をコの字型にしてみせた。
「美味いんですかい?」
 純粋な総悟の問いに、近藤は気のいい笑みを浮かべて、
「美味くはねェだろう。ありゃ鑑賞もんだ。ひらひらひらひら泳ぐんだよ」と教える。
「まぁ、素敵ね」
 茶を運んできたミツバは、四人分の湯呑の乗った丸盆を縁側に下ろす。総悟とミツバは並ぶと兄弟そのものだった。土方は、縁側に並んで座る眼の前の三人が、夕焼け色に輝いているのが眩しくて、思わず目を細めた。
「なんだ、ミツバ殿も金魚を見たことがないのか」
「ええ、そうなの」
「姉上と昨日、金魚は一体どんなものなのか、話をしていたんです」
「なんだ。じゃあ今度、俺が出稽古の帰りに金魚売り見かけたら買ってこよう」
 近藤は宣言したものの、それきり金魚を買ってこなかった。きっと他の事に気を取られて、忘れてしまったのだろう。出稽古から帰ってくる近藤を楽しみに待っていて、それらしいものを持ってないのを見てとると、何も言わずに肩を落とす総悟を土方は何度か見てきた。
 金魚売りは売値を二十文といった。まけさせて、十五文で買った。
 石原村の天然理心流道場の真向かいにある近藤の家に戻ったが、食客連中がいるばかりで近藤が見当たらない。藤堂に聞くと、
「出稽古からは帰って来てたんで、総悟のとこじゃないですかね」とのことだ。
 土方は手にしている金魚玉の中のリュウキンを困惑気に眺めた。近藤に渡して、近藤から二人へということにしてもらおうと思ったが、これでは一寸都合が悪い。暫し考えたが、こんなことで二の足を踏むのも馬鹿らしい。土方は総悟とミツバの家に向かった。
 裏門から入ると、何時もの縁側で三人を見つけた。腰ほどの茂みに身を屈めて、なんとか近藤を呼ぼうとしたが、不意を突かれた。
 ミツバの手に、金魚玉がある。そこには、赤い金魚が狭い硝子の中に収まっていた。
「遅くなって悪かったなァ」
 と近藤がすまなそうに笑っている。ミツバも総悟も嬉しそうだ。土方は暫く呆気にとられたが、間の悪い自分に自嘲した。
 茂みから離れて裏門から出た。どうするかな、と手の中の金魚玉に視線を向ける。金魚は、無表情に硝子の中を漂っている。畷をぼんやりと往くと、多摩川に突き当たった。川辺に腰かけ、傍らに金魚玉を置く。川にこのまま放してしまおうかとも思うが、きっとこの鈍い魚は生き残れやしない。体色が目立ちすぎて、鳥に喰われるか、他の魚の餌になるだろう。金魚は人のために生きる鑑賞魚だ。
「難儀だな」
 と土方は誰とも無しに独り言つ。
 多摩川は穏やかで、川床まで透き通っている。滑らかに動くのは鮎。吹く風は涼風で頬をかすめてゆく。対岸は橘樹郡だ。二艘の渡し船がゆっくりと流れていく。
 ごろんと横になって、土方は眼を閉じる。腕を後頭部で組み、眼を開けば、どこまでも広がる空を前に途方無さを感じる。これから一体、どうなるのだろうか。「将来」というものが漠然としすぎていた。近藤のもとに集まった食客は剣術の腕が確かな者ばかりだが、浪人だったり、百姓ばかりの、要するにゴロツキで、一向に見通しが立たない。このまま、ここで終わるのか。そんな不安も感じる。硝子玉の中の金魚のように先行きは不透明だ。何かをしたいという気持ちはある、ここでくすぶっていたくはない。だが、現実問題、できる事は何一つない。この手で、生きていきたい。何かを掴みたい。剣の腕で近藤たちと歩んでいきたい。道を拓いていきたい。だが、何もない。結局は同じ所で、この場所で一生、うだつの上がらないまま年老いて死ぬのではないだろうか。
 偶然手に入れた恩恵は手の上の砂のように、簡単に流されてしまう。自ら掴み取りに行き、握り続けなくてはいけない。そうすれば、失うことは無い。今度は絶対に間違えないのに。
「金魚」
 頭上から降ってきた声に驚いて起き上る。振り向くと、総悟だった。剣術の才能に愛されたこの子供は、日に日に頭角を現してきている。稽古嫌いで生意気だが、人の何倍も勘の鋭い土方の背後を、いとも容易く取るのだ。当の総悟はそんな土方の内心は知らず存ぜぬで視線を金魚に向けている。
「総悟、お前ェ、なんでここに……」
「金魚、俺の?」
 首を傾げて聞く。普段より幾分毒気のない総悟に、なんとなく土方は気恥ずかしくなった。
「近藤さんが買ってきてくれただろうが」
「ありゃ、姉上のです。俺も欲しい」
 土方と総悟の間の金魚玉の金魚は己の未来を知らずに、狭い硝子玉の中を右往左往している。上から見下ろすと、尾鰭が花びらのように揺れる。
「なんか、コイツ、いいですね。一生懸命泳いでる。ねぇ、これ、くだせぇよ」
 土方は総悟から視線を外し、落ちていた石を拾って川に投げながら「やるよ」と呟いた。

 頬に手が触れる感触がした。
 薄く瞼を開けると、その手は頬から抜けていく。消えていく感覚を取り戻そうと、掴んで引き戻す。再び添えられた感触に安堵する。焦点の合わない視界が、やがては定まってくる。土方の頬に触れる人物は、想像通りの坂田銀時だった。
「感染るぞ」
 ひどく嗄れた声しか出なかった。銀時は片膝を立てていた。膝に片手を置いてその上に顎を乗せている。
「麻疹なら免疫がある」
 熱の気怠さに、瞼は重く、口唇は乾く。銀時は上体を倒すと、土方の顔に自分の顔を密着させ口唇を浚った。乾燥したところを舐められて、土方は瞼を閉じる。手は勝手に、銀時の袖を掴んでいた。
「もう、大丈夫だってよ」
「ん?」
「さっき、松本先生だっけ、来てた。お前、快くなってるって」
 銀時の背後、天井で金魚が泳いでいる。土方は目だけで語りかける。お前は、あの時のだろう、と。金魚は素知らぬ素振りでただただ泳ぐ。銀時の体温は冷たくて気持ちが良かった。
 瞼に手がかかる。
「もっかい寝ろ」
 銀時の声に誘導され、意識が微睡む。不思議なほど簡単に訪れた眠気に、逆らうことなく従った。

 総悟の金魚は簡単に死んだ。
 あの日から六日も経たずに、沖田家に押し入った泥棒に硝子玉を割られ、畳の上で息絶えた。安達善之の「金魚養玩草」と動かない金魚を抱いて総悟が飛び込んできたのを覚えている。
「近藤さん!! 金魚が!」
 普段の太太しさは見る影もなかった。姉の手を引いて、近藤の寝室で大声で叫んでいた。何事かと食客に交じって、土方も木刀を手に近藤の寝室に向かった。金魚は、水に入れても最早動かなかった。力なく浮かんで、水面を無抵抗に漂っていた。ミツバの顔色は蒼白で、門徒の一人が大慌てで村医者を呼びに走った。
 泥棒は総悟の一撃が効いて伸びていた。ミツバの金魚は生き残ったが、総悟の金魚は死んでしまった。翌日、近藤、沖田と土方で早朝に多摩川へ向かった。総悟が金魚を多摩川に放った。赤い花びらのような金魚は流れにまみれてゆっくりと見えなくなっていった。総悟は何も言わなかった。その日の稽古での総悟は苛烈を極めた。我武者羅に打ち当たっては情け容赦なく相手を伸した。ミツバの体調は悪化した。ミツバの金魚だけが悠々自適に泳いでいた。
 
 再び意識が浮上すると、もう金魚は天井に見えなくなっていた。
 床上したのはそれから四日後だった。武器倉庫から出ると、壁一面に白澤像の画が貼られていて苦笑を招いた。真選組を上げての床上げの宴はいつも通り、無秩序で騒がしかった。翌々日には土方は銀時と連なって、あの、金魚を流した多摩川まで赴いた。あの頃と少しも変わらない風景に水の流れ、清涼の風と、枝垂柳の垂れた葉が川に少しだけ浸かっていた。土方は額の汗を拭い、徐に履物を脱ぎさると隊服の裾を上げる。銀時の訝しげな視線を受けて苦笑した。川に素足を浸けると、身体全体の熱感が引いていく。
「気持ちよさそうだな」
 銀時も土方に倣うように履物を脱ごうとする。
 その時、土方の足に何かが触れた。水面を覗くと、赤い花びらのようなものが見えた。息を飲み、凝視するが、それは一瞬だった。どんなに探しても澄んだ川の川底しか見れなかった。赤い花びらのようなものはどこにもいなかった。
「どうしたんだよ、お前」
 銀時が聞いてきて、土方は自嘲めいた笑みを浮かべる。
「金魚がな、いたんだよ」
 炎天の下、奇妙な感覚だけがいつまでも残っていた。