昭和三十五年のこの年、景気の上昇を促すものとしてカラーテレビの本放送があった。そして、家電メーカーの生産競争で高根の花だったカラーテレビが一般家庭に普及しだし、NHKの契約数が五百万を突破した。また、インスタント食品が続々と発売され、「マイホーム主義」が流行語になったのもこの頃であった。そんな好況の時代の流れに逆らうように、右翼少年の凶悪犯罪が増加した。浅沼稲次郎社会党委員長が日比谷公会堂で演説中に右翼少年山口二矢に刺殺され、その後、またも右翼少年が中央公論社嶋中社長宅を襲い、家人二人を殺傷する事件が起きた。世間が急速にうねりだす時代だった。
 血相変えた近藤が尋ねてきたのは、桂の屋敷に数日滞在し、漸く踏ん切りがついて、万事屋に戻った翌日だった。
 勢い余って詰め寄ってきた近藤に眉を顰めながらも、されるがままにされていた。なんとなく自分のペースというものがついていて、近藤から土方を連想しても心は乱れなかった。
「万事屋、トシは来てないか!?」
 胸倉を掴まれ怒鳴られて、銀時は首を横に振る。
「来てねェけど・・・・・・また、放浪癖が?」
 近藤は銀時の胸倉を放すと歯噛みした。青褪めている近藤の焦燥ぶりに、銀時は引き攣った笑みを浮かべる。落ち着いていたとはいえ土方はまだ睡眠過多だし、ここ暫く安定していただけで、また症状が不安定になっただけだろうと思っていた。気がかりではあるが、そこまで切迫した事態だとは思えなかった。沖田からの予備知識もあったから、近藤の心配性を内心で苦笑した。
「そんな心配しねーでも、そのうち・・・・・・・・・」
「もう、二週間も戻ってきていないんだ。こんなに長い事戻ってこないのは今まで初めてで、しかも気を抜いていた。トシ、金銭持って出てねーんだよ」
「は!? なんだ、それ!」
 銀時は一変して顔を青褪める。土方の寝入りばなの苦しげな表情が思い出されて、心臓が泡立った。
「しかも、今回は外套も、ズックも持って出てねぇんだ。食べるもんも何もねェし、方々尋ねてるが、どこからも連絡もねェ。見つからねぇんだ」
 わなわなと身体が小刻みに震えた。銀時は気が付くと近藤を突き飛ばし、駆け出していた。どこに行くのかアテも無く、ただ、心臓が凍るような息苦しさを感じていた。生きてこそ、という言葉が脳裏を旋回する。生きてこその人生だ。このまま、土方に二度と会えなければ、銀時に残るのは後悔しかない。街中、土方の姿を探しながら、戦場での記憶がフラッシュバックしていた。それは、朧気で夢の中のような不安定さで巡った。恐怖も後悔もおぞましさも感じなく、ただ、銀時の記憶の中で断続性をもって映し出していた。特に今まで記憶に留めていなかった戦友との会話も次々と思い出した。日頃、思い出さないようにという努力をしていたわけではなかったが、なぜか記憶から、ついこの前の出来事であるというのに遠ざかっていた。不思議だった。衝撃的な体験だったはずなのに、何一つ、手繰り寄せようと今まで思わなかった。
 だいぶ走ったのにも拘らず、疲労もなにも感じなかった。精神が麻痺しているような、自分が自分から離れていくような感覚に囚われていた。夢の中にいるような、心中に陽炎が揺らめいているような妙な浮遊感を感じていた。土方を探しながらも、土方を通して、何か違うものも探しているような気がした。知らない裏路地や、バラックの残骸、人混みに、繁華街と、ありとあらゆる場所を通り過ぎながらも、眼に映る全てがあやふやだった。銀時はそうしているうちに、叫び出したいほどの切なさを感じた。
 あの時の、飢えと殺戮と寝不足は苦しかったように思う。だが、世が泰平でも苦しい。落ち着いて周囲を見舞わせる現在の方が、あの頃よりもずっと苦しい。土方を探さなくては、と強く思った。土方を探して、心の裡を吐露したかった。土方の気持ちも知りたかった。苦しかろう、辛かろう、起きていたかろう。夢の中はいろんなものを見せる。さぞかし息苦しかろう。不安さえも心細ささえも攫っていく眠気は、恐ろしかろう。
 探し回ったが、結局土方は何処にも見つからなかった。銀時は肩を落として帰途についた。万事屋に戻ると怒涛の疲労が押し寄せてきて、倒れる様にすぐに眠った。夢は見なかった。もっと前に会いに行っていればと後悔していた。何を躊躇っていたのか、また目の前に居た者を失うのかもしれないと思うと、怖かった。
 次の日、朝早くに沖田宅に赴いた。近藤も沖田も家に居て、今日も一日かけて土方の捜索をするというので、銀時もこれに加わった。二人は計画的に探索範囲を決めていて、二人の旧知の人間も手伝ってくれているとのことだった。銀時は上野方面を捜索する事になった。聞き込みをしながら探し回ったが、この日も見つからなかった。土方は金を所有して出ていないのと、足腰が弱っているから県外の可能性は少ないとみていたが、既に失踪から二週間も経っているし、もしかすると何かしらの方法で遠出しているかもしれなかった。
 駅の近くで座り込むと、群馬県高崎市発、上野着の列車が駅に到着した。デッキにぶら下がり無理して乗車している姿が何人もあった。一斉に電車から降りた人が散るその光景を眼にしながら、眠っている土方と特急列車に乗って東京に二人で帰ってきた事を思い出していた。近場で見つからないとなると、これからは県外の可能性も視野に入れなければならない。見つけて、連れて帰ろうと思った。また、電車を乗り継いで、途中宿に泊まって、土方と戻ってこようと強く思った。眠り込む土方の重さを肩に感じて、銀時もうたた寝がしたかった。二人で夢を見たいと思った。銀時は、土方が遠国にいる気がしていた。
 戻って県外の可能性を示唆すると、近藤も沖田も厳しい顔をしていた。
 それからも、必死の捜索虚しく、土方の行方は依然として知れなかった。
 吉左右が入ったのは土方が失踪してから二ヶ月と数日が経った日だった。
 近藤や沖田、土方の昔馴染みの男が遠国の土佐―――――高知県のサナトリウムに友人が療養していて見舞いに行ったら土方を見かけたのだというのだ。呼びかけても返事が無く、そのまま看護婦に付き添われるように姿を消してしまい、結局それきり会えなかったのだが、あれは土方では無いのかと近藤に訪ねてに来たのだという。
 銀時は万事屋の依頼を遂行して、その後、沖田と近藤を訪ねて聞かされた。
「それは確かなのか?」
 銀時が問うと、近藤は腕組して暫く思案していたが、「さすがにちょっと出来すぎって事もないではないが、そうだなぁ・・・・・・この前の仙台は外れだったしなぁ」と自分に言い聞かせるように言う。この手の話は何度かあったのだが、訪ねて結果は全て空振りだったのだ。
「だいたい、そこまでの金をどうやって払ったのか。土方さん、一銭も持たず行方不明ですぜ。四国っつったら、三等で行くにせよ、結構な金がかかりますぜ」
「そうなんだよな、銀時、お前はどう思う?」
 近藤に振られて、銀時は黙り込んだ。銀時自身も外れである可能性が高いと思っている。だが、サナトリウムかそれ関係の施設に土方が保護されている可能性はもしかしたらあるのではないか、とも思えた。なんらかの糸口にならないかは期待してもいいのではないか。
「取りあえず、行ってみるだけ行って見るか。ちょうど明日から暫く依頼も入ってないし、近藤は仕事で沖田君は学校があるだろ。三人そろって行くこともねーからな、俺だけで見てくるよ。高知には知人の実家があるんだ。案内もしてもらえるだろうし・・・・・・」
 近藤は申し訳無さそうにした。
「悪いな、お前を巻き込んで。今度こそ、そうであるといいんだが」
 沖田はちょっと悪戯めいた笑みを浮かべる。
「旦那はなんだか厄介ごとを背負う性質みたいでさァ」
 銀時は苦笑した。
「まぁ、乗りかかった船だしな。最期まで付き合うよ」

 土佐には北山越えという言葉がある。古くから中央文化を遮断していた北の山は、かつては官道で、四国山脈を横断して南下する。銀時は激しくバスに揺られながら、必死に遠い景色を眺めていた。車体が恐ろしく揺れるので、尻からの振動が脳天を揺さぶり、三半規管が体のバランスを取れなくなって気分が悪い。更に、窓の下を覗けば道は山道は四センチでも右に反れれば崖から真っ逆さまである。銀時以外の乗客も決して外を見ようとしなかった。そんな余裕も無かった。道は、未舗装の酷道で、バス車内には備付のアゲカンがあり、乗客は気分が悪くなるとこれを持ち上げた。銀時はたまらずに途中で下車し、長い道のりを歩く羽目になった。
 潮風の届かない四国山地の高知から愛媛県西条に延びる国道百九十四号線は、国道とは名ばかりの狭いデコボコ道である。だが、この細路がこの地方の唯一の交通路であった。木材を積み出す大型トラックが通るのは木造家屋が所狭しと並ぶ狭隘道路で、銀時は街中に入ると、トラックとトラックの合間を注意して歩き進んだ。家屋の軒先には注意のしるしに一升瓶が吊るされている。なるほど、これは酒の国ならではの工夫で一升瓶を注意の標識に見立てているらしかった。難所の曲がり角をトラックが曲がるときは両側の軒まで指一本の隙間も無い。なんとか前のトラックが無事に曲がり終えると、銀時はそのハンドル捌きに拍手喝采を浴びせたい気持ちになったが、住民はたまったもんじゃないだろうと同情した。
 国道を抜けて、一般道に曲がると、そこにマツダR360クーペの四人乗りが停まっていた。運転席に回ると、若い女が銀時に気付いてドア開け、もろこしにかじりつくような微笑を向けた。
「おまさんが坂田さんなが?」
「ああ、坂本の姪っ子さんか?」
「そうちや。遠いところようこそ。早く車に乗っとおせ。叔父さんから話は聞きゆうが、私の職場のサナトリウムだってのは奇遇やき」
「遅くなっちまって、随分待たせたんじゃねェかなと」
「なぁに、気にしやーせき。今日は休日ながら」
 車に乗り込むと、薬品の匂いが鼻についた。後部座席は医薬品をおさめたダンボールで埋まっている。サナトリウムで使っている車なのだろう。窓を開けて首を出すと、坂本の姪っ子は不思議そうな顔をした。
「バスで酔ってまいった」
 取り繕うように言うと、坂本の姪っ子は地元民らしい理解の仕方を示して笑った。
「それほんなら行きゆうか」
 四十分ほど車を走らせて、山麓のいかにも診療所らしい白い造りの建物に到着した。坂本の姪っ子の運転は気を使ってくれたのか丁寧だった。車から降りると、空気のは涼しいを通り越して寒気がした。周囲はブナの木や山桜、欅などの木々が建物から距離を保って鬱蒼と茂っている。空が一段と近く、日差しは春めいていた。建物のいくつかの窓から、黄色いカーテンが翻っている。辺りは森閑としていた。たまに、奥から鳥の囀りが聴こえていた。
 坂本の姪っ子について建物の中に入ると、こめかみの辺りが少し重く感じた。階段を一つ上って、一番手前の部屋に入る。そこは、雑居病室で、六台のベットが枕の方を壁に張り付くかたちで設置されていた。
「二階は喘息の患者さんが療養してるき安心しとおせ」
 坂本の姪っ子が宥めるように銀時に言ったが、銀時は一番窓際のこちらに背を向けて、寝ている男に釘付けになっていた。黄色いカーテンは窓の端っこできっちりと結ばれている。男の首筋の細さが際立っていた。銀時と坂本の姪っ子に気がついた他の患者は興味深そうにじろじろと視線を向けてきていた。そんな視線には眼もくれず、銀時は男に近付いていった。
「土方・・・・・・」
 病室のベッドで眠る土方の身体はその輪郭がぼやけているように見えた。肌もずっと蒼白く、全体の印象が薄かった。布団からはみ出している腕が病的に細く、生気をどこかに落としてきてしまったように感じて、恐ろしくなった。けれども、今の土方は儚気でとても美しかった。壊れやすいものがみせるある一種の危なげな麗しさを土方はその身に纏っていた。身を屈めて呼吸を確かめると、土方の口元から微量の息を肌に感じた。
「見つけたときは満身創痍で、これでもちくたあよおなったがよ」
「満身創痍?」
「そうよ。傷じょきけで・・・・・・」坂本の姪っ子は周囲を憚って、銀時に耳打ちするように言った。「ちょっと暴行のあともあったがよ」
 銀時は息を呑む。口の中の水分が一気に蒸発し、目の前が白くなった。土方の蒼白い肌だけがぽかりと浮かび上がり、気が遠くなり、何の音も聞こえなくなった。何も考えられないまま、ただ、土方の肌の色だけを見ていた。身体が凍ったように動かなかった。本当に何も分らなくなった。銀時はただ、目前の土方の肌だけをおっていた。