冷美



 水路は透き通っている。流れる水の音に耳をすませば、俗世から抜け出したような錯覚を覚えた。暫くぼんやりとしていると、椿が流れてくる。鮮やかな赤が気に入って、身を乗り出して花弁に触れた。
 江戸の何処かの植木屋が最近になって椿の掛け合わせに成功したと、盆栽に興味のある隊士が閑談に興じていたのを思い出す。これはその掛け合わせで交配した新種椿かもしれないと思うと嬉しくなって頬が緩んだ。
 読んでいた書物は水路の歪な脇の岩の上にちょこんと置いてある。ちらりと視線を向けたが、もう手に取る気にはなれなかった。近藤に借りた本はどうも退屈で、性に合わない。政事やら時勢やらがつらつら書かれていたが、最初のページで尻が痒くなり、次のページで瞼が重くなり、さらに次のページで身体の隅々が凝り固まってしまったような気分になった。
「総悟、これからは先を読む力を付けろ。政治に明るくならなければならぬ」近藤は口煩く言うけれど、総悟は時勢など全くと言っていい程興味が無い。だいたい、時勢や政に少しばかり詳しくなったところで何ができるというのだろうか、第一、面白くない事はしたくない。近藤は最近、幕閣の者と議論を重ねているようだが、武州で木刀を振り回していた頃を良く知っているから、なんだかおかしくなってしまう。
 近藤さんは随分立派になったものだ。
 近藤は自分の無知を知っている。だから誰よりも努力をしている。そういうところは大好きだ。できないことや知らないこと、分からないことがあるのを近藤は恥ずかしがらない。積極的に博識のある平の隊士に教えを願ったりもする。土方は歯痒く思う事があるそうなのだが、総悟は近藤さんらしくていいや、と楽観的だ。
 土方は要領が良い。勘も働くから近藤のように努力をしなくても世の動きを目敏く掴む事ができる。じっと黙って周りをよく見渡して、自分の目差しで何事をも測る。抜け目がないから、幕府の中枢を熟知している人間と陰で交流をとっているようでもある。もしかしなくとも近藤より政には詳しいだろう。だが、人が集まって話し合う事なんてたかが知れてると思っているから、その能力を公には発揮しない。近藤の顔を立てようと思っている可能性もあるが、無駄な事はしない人だから、この人がそういう場に立つ事は必要のない事なのだろう。
 土方は間違わないから、総悟は安心して剣に集中できる。
 剣だけの世の中になればいいのにな、といつも思う。
 思想やらなんやらでとても複雑な世だけど、本質はきっともっとシンプルなものだと思っている。みんながみな、剣を握って剣術を究めればもっと安全で楽しい世界になるに違いないのに。一流の剣客はむやみやたらに人は斬らない。対峙すれば相手の実力が分かるから、殺生なんかしないのだ。中途半端だからよくない。そこまでの域に達せば、つまらないことに惑わされたりなんかしないのに。
 一輪の落椿を拾い上げる。基部が濡れていて、手の平の皮膚がしっとりとした。
 水路の向こう側は雑木林で、総悟の背後には整備された庭園のような野が広がっている。風光明媚でお気に入りの場所だった。神社の境内を南の方角にひたすら歩いて見つけた場所だ。一人になりたい時によく訪れる。
 下駄を脱いで、水路に素足を浸す。冷たくて気持ちが良い。
 上半身を倒すと、太陽の光が眩しくて目を閉じる。あまりにも目を閉じ続けていると開けた時に眩むから、顔だけ横に向けて、ゆっくりと瞼を開けた。
 一人になりたいと思う衝動は、ふらりと突然現れる旋風みたいなものだ。
 特に隊士が殉死した二日後や不逞浪士を斬った四日後なんかに起きやすい。別に情緒が不安定になるとかそういう事ではないし、死体を見れば気の毒になァとは思うがそれだけで、別段、特別な思い入れも無いのだが、訳も無くやってくる。
 手の中にある椿を顔の前に持ってきた。近いうちに花弁は茶色く変色して地面に還ってしまうけど、今は散ったばかりなのか、鮮やかに綺麗だ。
 椿は基部ごとぼとぼと落ちる。まるで首が落ちるようだ、と表現したのは原田か山南だったように覚えている。妙な具合に印象深く残っているのは、初めて人を斬った場所に椿の木が生えていたからだ。