冷美






 総悟が数え年で十になる少し前のことだった。
 冬至の夜四つ。風呂を済ませ布団の中で睡魔が訪れるのを待っていた。冷気が肌をかする寒い日で、しばらくは布の寒さに耐えていたが、大分体温が馴染んで暖かくなってきた。時折意識が遠くを彷徨う。何度目か夢現に片足を伸ばしかけた時、部屋の襖が静かに開き、凍った色をした月の明かりが室内を照らした。月明かりを背中に背負って土方十四郎がぼんやりと姿を現し、総悟は眉間に皺を寄せる。
「なんでいんの」非難を込めた口調で聞くが、土方は静かに見下ろしてくるだけだ。「寒いんだけど」
 襖を後ろ手で閉め部屋に入ってくる。それから取ってつけたように「悪ィ」と呟くように言ってきた。平坦な口調で、総悟の態度など知らぬふりだから、ちっとも悪びれた様子ではない。
 総悟は常々土方が気に喰わなかった。相容れないと頭ごなしに決め付けていたから、当時は土方の気配が感じる距離に居ること、それがとても不快だった。
 襖が閉まったから月明かりは途絶えた。暗闇が部屋を支配する。
 目が利かないと神経が過敏になる。土方の気配がいつもと違うことに気が付き、新しく新調したての畳の匂いに不穏が混じっている事に気が付いた。
「アンタ、血のにおいがする」
 土方が足を止めたのが気配でわかる。居るであろう場所を目を凝らす。僅かながらに身体の輪郭が見える。
「人、殺したんですかィ」
 土方は口を失ったかのように無言だ。だからそれは、肯定だった。総悟は土方が忌々しくて仕方が無かったのだ。こんな夜分に断り無くやってきて、しかも血の匂いを体中から振りまくとは、嫌がらせだとしか思えなかった。
「アンタが死ねばよかったのに」
 口元を歪めて言った。本心ではなかった。嫌がらせのつもりだった。土方が何も言わないのもいいことに、嗜虐心は加速する。この男をめちゃくちゃに甚振ってやりたかった。身に纏う余裕を根こそぎこそげ落としたかった。
「どうせこれまでも人殺してきたんでしょう。アンタみたいな人が居ると近藤さんや姉上までが汚れそうだ。マジでどっか行けよ土方」
 土方は動かない。それが総悟の苛立ちを募らせる。いつも感情を表に出さない無表情で、全部解っているみたいな顔をして、いつだって、何を考えているかわからなくて、でも、土方の行動は全て浅慮では決して無い。そういうの全て、腹が立つ。
「アンタが斬られて死ねばよかったんだ」
 土方が動く。咄嗟に身構えたのだが、気配が遠ざかっていく。かさ、と音を立てて襖が開く。月明かりが再び入り込んでくる。土方の後姿が見えた。
「あ………」
 総悟が何か言おうとする前に土方は夜に溶けたように消える。
 呆然と見送って、また暗闇が訪れた部屋に一人残された。
 心臓が激しく波打つ。後悔が押し寄せた。土方の後姿を見て、自責の念が胸を締め上げる。それでも、それすらも認めたくなくて、気持ちが方向転換をする。あの野郎がいけないんだ。あんな臭いさせて、こんな時間に来るから。あの野郎が全部いけないんだ。あの野郎のせいで、こんな気持ちになったのだ。
 野郎があんなに寂しそうな後姿を見せるから。
 布団を頭まですっぽりと勢いよくかぶる。寝てしまおう、早く、早く。焦れば焦るほど眠気は遠ざかっていく。土方の後姿が頭にこびりついて離れない。
 その日はなかなか寝付けなかった。
 翌日、近藤が朝早く飛んできて総悟を起こして抱きしめた。何事かと寝ぼけた思考で考えていると「無事でよかった」と喉から締め出した声で言った。「昨晩な、お前の家の付近で人斬りがあったんだよ。お前の隣の家や向かいの笹野家の一家は惨殺されてた。武家の家を狙った盗賊の犯行らしくてな。よかった、無事で」
 息を呑む。
「知りやせんでした」
「ミツバ殿は一昨日から入院していただろ、だからお前一人で、本当、朝聞いて飛んできたんだよ、よかった、お前、無事で」
「そんで、賊は」
「それがな」と近藤が怪訝な顔をした。「十数人の集団らしかったんだが、お前の家の表玄関の前で四人斬られて死んでいたらしい。後のモンは逃げたって話だ。仲間割れかなんなのか、まだ分かっていないらしくてな」
 総悟は声を失う。近藤は「よかったな、本当に」と総悟を力強く抱きしめて背中を擦ったが、総悟は放心するしかない。昨夜の土方の背中が鮮明に脳裏に焼きつく。
「昨晩トシがお前の様子を見に行くとか言って出て行ったきりで、晩くに帰ってきたら酒の臭いぷんぷんさせてるし。女と遊んでいたんだと、まったく、総悟が危なかったって言うのにアイツはァ」
 疼く痛みに耐えられず、近藤に抱きつく。
 土方はその後ずっと、あの夜のことを口にしなかった。あの後、顔を突き合わせたら、何もなかったかのように話しかけてきた。だから、総悟も謝ることをしなかった。

 どうする、と土方に聞かれて「行きやす」と答えた。小野旅籠屋でこれから新見を切腹に追い込む。
 酒に酔わせて、芹沢と新見の関係性の綻びを浮かせて失言したところで切腹させる。その筋書きを土方から聞いて総悟は土方の策士振りに感嘆とした。酒の席は芹沢、新見の他に芹沢一派の平山という男も居る。そいつに介錯をさせる。介添人は近藤派の藤堂を考えていた。芹沢粛清までの筋書きを知っているのは、発案者である土方。苦渋だが、致仕方ないと土方に任せている近藤。それに天然理心流古参の井上、沖田、山南、原田、土方直属の監察である山崎。この頃何名かの隊士が入隊していたが、知っているのは土方が最も計画を漏らさないと確信しているメンバーだけだ。
 隊の規律を乱してはいけない。士気を下げてはならない。暗殺は秘密裏に行う。筆頭局長である芹沢を暗殺するのだ。表立った殺しは利口ではない。
 酒の場の人員の配置も考えているらしかった。うまく誘導させる手筈は一縷の隙もない。
―――――――――――アンタが斬られて死ねばよかったんだ
 いつかの後悔が胸に舞う。土方は総悟を攻めなかった。そういう男だ。誰のせいにもしない。一人で全て抱え込んで、滅多に自分のことを話さない。常に高いところにいて鳥瞰している。芯はぶれることをしない。
 あの日、なぜ、総悟の部屋に来たのか、それをずっと考え続けている。
 土方の仕事ぶりは確実だった。首尾よく新見を切腹に追い込んで、首が転げても土方は顔色一つ変えなかった。
 言い訳も、誰かに頼ることもしない。そうやって、自分の中で積み重ねていく。そういう生き方しか知らない人なのだ。
 数日後、山尾という飲み屋で酒の席を設け酔った芹沢と芹沢派の者をいち早く屯所に口実を使って帰し、屯所で芹沢の帰りを待っていた女と芹沢が同衾し、眠っていたところを暗殺した。事を知らない者には気付かれずに遂げた。芹沢と同衾した女は総悟が判断して斬った。芹沢は土方と二人で滅多刺しにした。芹沢派の他のものは山南、原田が斬って斃れた。
 芹沢の死体を見下ろした土方はやっぱり表情を変えなかった。
 去り際に屯所の庭の椿がぼとりと落ちたのを見た。眉をしかめて土方を見ると、土方も椿が落ちるのを見ていたようだった。一瞬の横顔は能面みたいだった。
 血の付着した着物を取り替えて、急ぎ宴会場に戻ったが、山南と原田が高揚しているのに対して土方は平常となんら変わりはなかった。山南と原田も優れた剣客だから殺気は抑えられても、よそよそしさは残る。土方にはそれが無い。
 山尾に戻る途中、土方に「よくやったな、お前がいて助かった」と小声で労われたが、そう言う土方の表情に僅かに後悔が混じっているのを総悟は見逃さなかった。賊を殺しても新見を切腹に追い込んでも芹沢を暗殺しても何一つ顔色を変えなかった男が総悟が殺人に手を染めたことを悔やんでいる。泣きたくなったが、我慢した。ずっと土方も我慢してきたのだ。あの夜の土方の気持ちが掴みかけて、でも手を離した。そうすることが正しいことのような気がしたからだ。
 杯を口に運ぶ土方は涼しい眼差しをしている。近藤や隊士の言葉に耳を傾け、穏やかな顔をしていた。宴会が終わって屯所に戻って、凄惨な現場を目の前にして、きっと一騒動ある。多分、この人は何食わぬ顔で事を運ぶ。近藤へのフォローも、山南と原田への労いも忘れないだろう。そしてきっと、夜が明けるまで総悟の傍に居てくれる。そう言う人なのだ。この人は。
 だから、と総悟は思う。土方より多くを殺そう。そうすれば少しは土方の孤独に近づけるかもしれない。
 癪なのだ。いつまでも土方の下に居るのは、嫌なのだ。
 土方が近藤の言葉に笑う。
 近藤や気のおけた者の前で笑うときの土方の表情は穏やかだ。だが、今は、その奥に冷たいものを見た。あの夜、月光に照らされた後姿と似ていて、だが、すぐに掻き消される。
 屯所に戻って、案の定一騒動あって、それも大分落ち着いて、土方の部屋に総悟はいた。布団の中で土方の素肌を感じている。さっきからずっと総悟を撫でている手のひらは不思議にずっと冷たいままだ。口付けを強請ると頬に軽いのを一つされた。
「アンタが死ななくてよかった」
 ぽつりと言うと、土方が少し、笑ったのを覚えている。

 絶好のサボりスポットから屯所に戻ると土方が目くじら立てて怒鳴ってきた。
 それをのらりくらりと交わして、屯所の庭に逃げる。
 芹沢を暗殺してからもいろいろあって、働きが幕府に認められて、組織も大きくなり屯所も移動したからここには椿の木は無い。
 壊れたもの、無くなったもの、後悔したこと、沢山ありすぎて逃してしまったものも多くある。背負うとか背負わないとかそういったことももう何処か遠くにいって消えた。目の前のものを失わないようにするよりも、増えていくものがありすぎる。
「総悟!」
 怒鳴り声に振り返る。この人も随分と、と考えるとおかしくなった。
 江戸に来て、物怖じしない土方も手一杯だったのかもしれない。無くしていくことで、自分を削っていくことで、組織を生かそうと躍起になっていたのかもしれない。だが、今はどこは穏やかさが垣間見える。無くすことばかりではなくていい、と日常がそういう風を運んでくれている。失ったものは多いから、基本的なスタンスは変えることはできないし、敵は斬るけれど、斬り捨てた分だけ増えていくものを心のどこかで信じている。
「土方さん、アンタが生きててよかったなァ」
 悪戯を含んで言うと嫌そうな顔をした。冷たい無表情よりもこっちのほうがずっといい気がして、総悟は笑う。
 土方とのあの夜の事は、あの後姿は、今でも脳裏にちらつく。
 過ぎてしまったものは取り戻すことはできないけど、これから増やすことはできるのだ。きっとそれを土方も望んでいるのだと思いたい。