銀時、お前妻子持ちだってよ。
 午後一番に鳴った黒電話は高杉晋助のくだらない戯言を運んできた。
 麗らかな昼下がりである。ヒバリの囀りがどこからかともなく聞こえてきて、開け放たれた窓からは午睡を誘惑する爽やかな風が吹き抜ける。戸外は初夏の日差しがそそがれていた。銀時は椅子に深く腰を掛け両足を卓上に投げ出し、受話器を極限まで伸ばしているせいでうねりの緩いカーブを描いている電話コードを目視した。
「妻子どころか彼女もいないんですけど」
―――それがな、いるんだよ
 電話越しに高杉の低い笑い声がなる。余りにも低いので吐息までも感じた。
「なに? 晋ちゃん暇なの? 悪戯電話は止めていただけますカー」
「おそらく、もう少しでお前の元にサツが来るぜ。顔見知りの奴だから問題ねーとは思うが、一応な、報告だ」
「は、え? なに、どういう事?」
 腹筋を使って背凭れから背中を離し、両足を床に下ろすとそのタイミングで引き戸が開く音がした。
「誰か来たからまた後で掛ける」
 そう断って受話器を置いて立ち上がり、事務所と廊下を繋ぐ引戸を開くと、そこには果たして顔見知りの警察が立っていた。びっちりと隙無く着こなしているスーツと人相の悪さで、一寸見やくざのようだ。
「よお」
 銀時はあからさまに顔を顰める。先ほどの高杉からの電話といい、じわじわと嫌な予感が胸の辺りに広がった。
「テメーがとっ捕まると俺も何かと不自由だからな、こうして権力を使って俺が赴いてやったんだ。ありがたく思えよ」
「とっつあん、何?」
「まぁ、黙って聞けや。俺も一応は警察だからな」
 知人の警察官―――――松平片栗粉は口元を隠していた手で持っている煙草を外し、紫煙をくゆらす。それを手持ち灰皿で捻り消した。銀時は不承不承に身体を脇に逸らして「茶でも淹れる」と事務所を指せば、松平は手を振って辞退した。
「いや、今日はここでいい。手短に話す。単刀直入に言うぞ。お前の女房が死んだ。今日中に日野警察署に行って遺体と子供を引取れ」
「は?」
「以上だ」
「いや、事情が・・・・・・・・・」
 松平の眼光が光った。睥睨すると本当に人殺しのようだとも思う。銀時は気圧されて口を噤む。
「まぁ、人が何かに関わるのは事情がある事だってのは分かる。それが時に法律に引っかかったりもする。お前等のやったことは悪だとは思わんが、俺にも立場がある。だが俺は、お前が俺の正義に貢献してくれているから、見逃すんだ。お前を泳がせたほうが俺にとって都合がいいからな。ただ一つ云っておく、お前は了承してるかもしれんが、自分に起こった事柄は引き受けろ。不可抗力でも意思とは関わりがなかろうと、背負え、いいな」
 銀時は何事か分かりかねたが、これ以上訊いてもこの喰えない男は言葉をくれないだろうという事はこれまでの付き合いで心得ている。封筒を押し付けられるように手渡され、背を向け歩いていく松平をその場で見送っていると、去り間際に振り返り、銀時に「子供は可愛いぞ」と零した。松平には子供がいるんだな、とそれだけがたった一つ解かった事だった。
 銀時は松平が居なくなっても上がり框で暫し呆然とし、封筒を握ったままでいた。そうこうしていても仕方ないと封筒を千切るように開けて数枚の紙に噛み付かんばかりに貪り読む。書類には坂田恵津という二十五歳の女性がウイルス性肝炎で死去した事と息子が居ること、警察署に来る際には身分証明となるものを持ってくる事、遺体を安置している病院の場所などが説明書のように刷られていた。どういうことだ、とただでさえ散らばっている髪の毛を掻きまわし、事情を知っているであろう高杉に電話を掛けようとしたその瞬間、まるで銀時の行動を先読みしたかのように無機質な音が鳴る。高杉からだった。
――――来たか
「ああ、来た」
 全く事の全容が掴めず、苛立った声になった。おそらくこの事態の中心に自分が置かれていることはなんとなる理解したが、それ以外がまったくの不鮮明だ。自分の知らないところで厄介ごとに巻き込まれていることはよくあった。その都度四苦八苦し大変な労力を使っている。ただ、今回は厄介の毛色が違う気がした。
――――そう怒るなって、二年前の依頼、覚えてるか
 二年前といえば銀時が、何でも屋「万事屋」の稼業を始めて間もない頃だ。生活費に困窮し、渋々高杉からの依頼を一度だけ受けたことがある。依頼の内容を思い出そうとして、息を呑んだ。受話器を握る手が汗ばむ。
――――思い出したか
 銀時の沈黙を肯定と取って、電話越しに高杉が含み笑い交じりに訊いてくる。銀時は天井を見上げ、額に手を置いた。
「思い出した」
 戸籍を売ったのだ。という事は、銀時の戸籍に入った女に息子がいるとしたら、
――――まさか、ガキがいる女だとはこっちも思わなかったんだ。勝手に申請出されてたな。どこに隠してたのか
 銀時は頭皮を掻く。こうなったからにはどうするにせよ、息子とやらはを迎えに行かなければならないし、女の亡骸も引取りに行かなくてはならないだろう。警察にも事情を聴かれるはずだ。今日は仕事の依頼が入ってないにせよ、突然の事に思考が空回りする。しなければいけない事は判断できるが、気持ちのほうが付いてこない。
――――銀時、まずは俺の事務所に来い。必要なもん揃えておく。それから、ガキの事は心配するな。追々考える
 電話を切って、応接ソファに崩れるように腰を落とし、頭を押さえ横臥する。このまま午睡を貪ってしまいたいが、そういうわけにもいかない。後先考えず成り行き任せな性格を自認しているが、改めてその怠惰を後悔する。あの時は確かに生活が切羽詰っていた。だが、もう少し考えていれば、もう少し配慮しておけばここまでの衝撃を受けなかったはずだ。どうせ気楽な独り身で、将来に過大な期待は持ち合わせていない。付き合っている女もいなければ、気楽な自営業の身分で人の目があるわけでもない。妻子が突然できた事はそこまで気にならない。問題は妻だった女とその息子のこれまでだ。ウイルス性肝炎ならば病院できちんと治療をすれば治る病だ。それすらもできないほど、妻だった女、は金がなかったのか。それとも何かほかの理由で――――――苦しんで、死んだのだろうか。子供は母親の死をどう感受しているのだろうか。
 穏やかな昼下がりを迎えるはずだった。戸外では銀時の胸のうちを知らないヒバリが能天気に鳴いていた。

 眠らない町、また、欲望の迷宮都市やら外国人労働者の新租界と異称される新宿歌舞伎町でも日の光が当たるこの時間は若者の街だ。若いカップルや学生の姿が多い。中にはツアーコンタクターが外国人を誘導している姿も見受けられる。嗅ぎ慣れた多種多彩な臭いも今日この日は肺腑に重い。
 銀時は親に捨てられ孤児院で育った。孤児院の先生がとてもいい人で良くしてくれたのだが、その先生は銀時が十七歳の秋に亡くなった。十八歳になって東京に上京し職を探したが、どれもこれもしっくりこなかった。器用で体力があり洞察力が優れている割には怠惰で飽き性な性格が災いしたのか一般企業は向かなかった。同じ作業の繰り返しも飽きてしまう。社会的な地位は専ら興味がなかったし、元々の気質から将来の願望も持ち合わせていない。堅実とはかけ離れているし、その時その時の楽観主義者でもあるので、流れ着いたのが「万事屋」所謂何でも便利屋の家業だった。
 歌舞伎町は何かと物入りな街なので、それなりに依頼も増えてきて食うには困らないまでには客数もそこそこ増えた。元々、こういった雑多な仕事が銀時の肌に合っていた。世間様に顔向けできない仕事はごまんとしてきたし、危ない橋も幾度か渡ったこともある。警察にもお世話になった事は一回や二回では無い。松平はその時に知り合った。
 だが、銀時の身のうちにある義から逸脱した仕事は一切引き受けなかった。依頼内容を聞いたうえで選別し、受けるか受けないかは良心に恥じないようにしてきたつもりだった。
 高杉の事務所は歌舞伎町の歓楽街のほぼ中央に位置する真新しい雑居ビルの最上階十二階で、事務所以外のテナントはゲーム麻雀店やセクシーパブ、クラブ等の風俗店が店舗として入っている。最上階でエレベーターを降りて大層な扉を開けると上質な絨毯を靴底で踏む。とてもではないが、室内はヤクザの事務所には見えない。ちょっとした高級マンションの一室のようだ。高杉は紫煙を吐き出すと、書類を手に取り銀時に差し出した。
 高杉は菊屋興業という某大組織の一端を仕切っている。界隈に大小三百はある組組織の一部だ。仕事は人材派遣業といっても手配師で歌舞伎町の主に水商売を扱っていて、外国労働者や国内の女に働く店を斡旋している。手堅く神経質な男であるから他の組とのいざこざもなくうまく立ち回っているらしい。
「女の情報だ。覚えておけ」
「ここにも警察が来たのか」
「ああ、あの女の働いてたデリヘルはうちが人材斡旋してたんだ」
 紙に眼を通しながらふと、気になった。
「どんな女だった?」
「そこに書いてあるとおりだ」
「じゃなくって、性格とか何か・・・会った事あるんだろ?」
 書類には女の出身地や生年月日、凡その経歴が事細かに記されていた。斡旋する人間をきちんと管理しているらしく、体調や交友関係まで過ぎるほどに詳細だった。息子のことも短時間で調べ上げたのだろう。警察に事情聴取されても襤褸は出ない内容だった。ただ、性格や趣味といった人となりを示す情報は抜け落ちている。あくまで女は「商品」だった。
 だが、高杉は溜息を吐きながらも、銀時の問いかけに応えた。
「聊か複雑でな。女、恵津の両親は両方とも日本人だが、恵津が生まれて直ぐに離婚し後に二人とも別の人間と再婚している。恵津は母親に引取られ、一歳の時に母親と共に中国に出国した。母親の再婚相手はどうやら中国人だったようだ。恵津と母親とその中国人は暫く一緒に住んでいたが、やがて別居、恵津の母親は異国で水商売を始めたが、病気になり恵津が六歳の時に死んだ。恵津は日本にいる実の父親に引取られたが、十七の時に父親は恵津の前から行方を眩ましている。その後、恵津はうちの斡旋で「白露」というデリヘルで働いた。よく働く女だったよ。美人だったし、愛想もよかった。店ではかなりの人気だった。ただな、国籍にちょっと問題があって、お前の女房にしたんだ」
「問題って・・・・・・」
「父親には正式なかたちで引取られてなかったんだ。恵津の国籍は中国のままだった。不正入国してたんだよ。そんで、まぁ、船で一度内密に中国に帰して、今度は正式に日本に入国させた」
「親父の居場所はわからなかったのか」
「さすがにそこまで調べられねぇ。だが、本当に良い女だったんだ。面倒事抱えても、日本で働かせてやるくらいにはな。子供はおそらく懇意にしていた客との間に身篭ったんだろう。腹もたいして大きくならないし、体調も悪そうに見えなかったから誰も気付かなかったそうだ。うちは一応、無料で健康診断を任意で受けれるようにしてるんだが、受けなかったらしいな。子供は別宅でこっそり育てていたらしい。ちなみにこの別宅は恵津の客が用意したらしいぜ。その客も行方が知れねェ。家を女にやって逃げたんだな。恵津は最期までガキの存在を隠してたから、父親も探しようがねぇし、まぁ、お前が父親ってことになるわな」
「そうか」
「とにかく、遺体とガキはお前が迎えに行ってやってくれ。俺が行くと障りがあるし、お前が行かなければ、俺の組にもお前にも捜査が入る。四係が出てきたらどうしようもねぇしな。ガキはこっちで考えるから今後の事は心配するな」
「ああ」
 返事はしたものの、肺腑の辺りに付着したシコリのような翳りはいっこうに消えなかった。むしろ肥大し、銀時は困惑する。
 苦い顔をした銀時を案じたのか、高杉が「お前の責任じゃねーよ」と珍しく気を配ったが、返事をする気は起きなかった。