坂田恵津が倒れたのは日野駅を降りて息子のいるアパートに向かう途中だったらしい。突然の発作に崩れるように倒れてそのまま起き上がらなかったので、近くを歩いていた通行人が救急車を呼んだ。かなり病態は悪化していたらしく、一週間ほど入院し闘病したが身体が持ち堪えられなかった。店には電話で具合が悪いので数日休みを貰っていた、という事だ。恵津は真面目で精勤だったのでスタッフは誰も疑わなかった。最も、職業柄体調不良は付き物だったし、女性には生理がある。
 病院側は家族を再三見舞いに来させるよう催促したが恵津は一度も首を縦には振らなかった。最期の最期まで銀時の存在も息子の存在も黙秘し、ひっそりと一人で死んでいった。
 日野駅はJR中央線で新宿から一本だ。中途半端な時間帯なので車内は空いていた。席の端に座り、恵津の住民票や保険証の写し、写真を繰り返し眺めては生前の姿を想像した。写真に写った、笑顔を浮かべる恵津は白い肌に大きな瞳が印象的な美人だったが、どこか薄倖な印象をも受けた。それは恵津の渡世を哀れんでいるからなのか、写真から受ける印象なのか銀時は解からなかったが。
 今日初めて知った人間に同情するというのも、どうも無責任な気がするし、そういう半端な態度は本来なら嫌悪するところである。人の幸せ不幸など他人には窺い知れないことだ。価値観は千差万別であり自分の物差しほど信用ならぬものは無い。それでも、思い做しかもしれないが、孤独だったのではないだろうか、と銀時は思う。
 借金が増えるのも厭わず子供の世話人を雇ったのも、愛情や本能も勿論あっただろうが、自分の事跡を残したかったのではないだろうか。恵津には膨大な借金があった。身を売って五年かかって漸く返せるぐらいの額だ。息子がいなければもっと早くに返済できたのかもしれない。だが、恵津は宿った命を手放さなかった。身を削って働いた。幾人もの男の相手をした。銀時には想像できないぐらいの苦しみや恥辱を堪えていたのでは無いだろうか。絶望を知っても、息子が希望だったのではないだろうか。
 恵津の写真を撫でる。故人を偲ぶというには、銀時は余りにも妻だった女を知らなかった。
 目的の駅に近付くにつれて、都会の喧騒がどこかしら薄れていく。同じ都内であるのに新宿に比べればずっと緑が多く、建物の高が低く密集していない。日野駅のプラットホームに降りると空気の質が違った。新宿よりもずっと澄んでいる。交差する人の群れも格段に少なく、どこか郷里を彷彿させた。といっても、銀時の故郷は日野とは比べ物にならないぐらいの田舎である。駅は駅員の居ない無人駅で風景は山と田地一色だ。
 ふと、銀時の孤児院の先生、吉田松陽の陽だまりのような笑顔を思い出した。最近は思い返す事が少なくなってきている。それは自分が時を刻んで生きているからだ。
――――銀時、人は人、虫は虫、己の寿命を精一杯生きているのです。私たちのただ一つの務めは生きることなんですよ。こうしているだけで立派に勤めを果たしているのです。ままならないことも多いけれど、生きている、それだけでも大したものなのですよ
 改札を出て停まっていたタクシーに乗り込み行き先を告げると、運転手は銀時を視ずに頷き車を発車させる。車は十五分ほど走り、署の前で停まった。高杉に今回の費用として六十万を渡されている。切符代で余った五千円を払うと釣りが三千五百円だった。その金をポケットに無造作に仕舞いこむ。
 相談窓口の婦警に来意を告げると、書類を持ち出してきて身分証明書の提出を求められた。保険証を渡すと書類に事務的にペンを走らせる。婦警は愛想の無い中年の女で先ほどのタクシー運転手同様、銀時に視線をやることなく口にする。
「ご主人様、ですね」
「はい」
「この度はお気の毒でした。病院は日野病院ですね。あとはそちらでお手続きをおねがいします」
 すんなり保険証を返されて拍子抜けした。こんなに簡単に済むとは思わなかったからだ。
「これでいいんですか?」
「はい?」
「いえ、書類とか、調書とか・・・・・・・・・・・」
「はい、大丈夫ですよ」
 手に戻ってきた保険証の軽さがやけに心許なく、鞄の中の恵津の写真がやけに重くなったように感じた。警察署から日野病院は歩ける距離だった。途中公衆電話を見つけて高杉に連絡をいれ事を告げると、高杉は「そうか」とそれだけだった。
「簡単なんだな」
――――そうか
「何も訊かれなかった」
――――証拠も何もねェし、警察も暇じゃねぇからな
 確かに、偽装結婚なんていう蔓延する犯罪を一々神経質に取り締まっていたらキリがない。
「これから、仏さんに会いに行く」
――――葬儀だ何だはこっちで手配するから、お前は恵津の息子、十四郎とどっかのホテルに居てくれ。俺の配下を向かわせてるから、ホテルが決まったらまた連絡しろ
「分かった」
 受話器を置くと、松陽先生の遺体に取りすがって号泣する高杉の姿を思い出した。あの時、自分はどういう表情をしてどこに立っていたのか、いくら記憶を辿っても思い出すことができない。周囲のすすり泣く声が恐ろしくて、松陽先生の動かない身体に現実味が無かった。
――――銀時、自分に正直でありなさい。
 事あるごとに、先生は銀時にそう云った。その言葉は、銀時の心の根っこに今でも根強く残っている。先生との想い出の日々は優しすぎていけない。優しい想い出は辛いのだと銀時は知っている。
 日野病院は六階建ての壁の白い建物で、敷地の周りは緑に囲まれている。隣地はテニスコートがあり、落ち着いた雰囲気だった。
 受付にいた看護士に声をかけると、先程の婦警とは打って変って気の毒そうな顔で銀時を見た。霊安室までご案内しますと歩いていく看護師の後ろについていきながら緊張している自分に気が付いた。どういう表情をして何も繋がらない息子と対面したらいいのか分からなかった。
 地下に下りて霊安室の前に来ると、長細いベンチに座っている少年が顔を上げた。隣には看護士が座っていて、銀時に気が付くと看護士は立ち上がりお辞儀をする。誘導してくれた看護士は銀時と少年に頭を下げると、戻っていった。銀時は少年を見た瞬間から足が動かなくなっていた。少年も銀時を静かな瞳で見詰めるだけで声を発しない。
 銀時は言葉を失っていた。静謐すぎる空間に喉が張り付いた。
 暫くお互い見詰め合って、先に声を発したのは少年の方だった。
「・・・・・・・・・・・・・・・お父さん」
 細く頼りない声を聞いて、銀時は目を瞠った。頼りないのにその声は地下に反響する。
「お父さん、来てくれてありがとう」
 銀時は唾を飲む。少年の瞳はひたむきだった。たどたどしい口調で、だが、現実を受け入れていた。銀時は前に進むことも後ずさることもできずに、ただ呆然と少年を見詰める。
 記憶の中の松陽先生が「銀時、自分に素直でありなさい」と優しく諭す。
 ゆっくりと寄ってきた少年は、銀時と何の繋がりをも持たなかった息子は、この時に初めて銀時と接した。おそるおそる銀時の左手を握った。冷たくて小さい手だった。
「十四郎です、お父さん」と銀時を仰ぐ。
 銀時は堪らなかった。
 寂寥と罪悪と愛しさを感じながら膝をつき、その小さな身体を手繰り寄せた。