十四郎は泣かなかった。
 母親の死顔と対面しても静かな瞳で見つめるばかりで、表情からは感情も汲み取ることができなかった。幼いのに気丈なものだと感心するには十四郎の眼差しが寧静すぎて、銀時は慰めの言葉を口にするのも何もかも憚られた。もしかしたらこの子供は、自分に関わる環境の大局を俯瞰し見通しているのではないだろうかと危ぶんだが、銀時は十四郎の事を知らなさ過ぎる。握りしめた掌に力を込めると、十四郎も僅かに力を込めてきた。
 恵津は美しい女だった。眠るように死んでいて、その表情は穏やかだった。生前の彼女の姿を見たことがないので分からないが、高杉の言うように良い女だったのだろう。もしかしたら、歌舞伎町で働いていたということだから銀時とすれ違ったことがあるかもしれない。十四郎は母親似だ。顔色は白いを通り越して青白く、唇は荒れて、髪の毛もろくに梳かしたことの無いような有様だったが、顔立ちは整っていた。
 葬儀社の社員の指示に従い焼香を上げ、これからの段取りのことを告げられたが、高杉の判断に任せた方がいいと思われた。自分の妻であるはずなのに自分の意志で事を何一つ運べない申し訳無さと、葬儀社員の訝し気な表情に気後れしながらも、取り敢えずという形で恵津を近くの斎場の遺体安置所に運んでもらうことにした。
 霊安室を出る時だけ十四郎は何度か母親を振り返ったが、結局、最期まで泣き言も弱音も何一つ口にしなかった。健気とは違う。諦観でもない。まるでその態度はすべての出来事をそのまま感受しようとしているようだった。ありのまま受け止めて、そのまま当てもなく流れていくような、十四郎が自分の心を護る術として築き上げてきたものがそれならば、これ以上に悲しい世の中との関わり合いは思いつかなかった。
 受付に戻ると十四郎を待たせて自販機に飲み物を買いに行った。お茶のペットボトル二つ分買い戻ると、小さい身体の背筋をピンと伸ばす十四郎がやけに心細く見える。銀時が戻ると安堵した様子を見せ、お茶を渡すとぺこんとお辞儀をして大事そうに膝の上に置いた。
「これから俺と一緒にホテルに行くけど、一度家に寄るか?」
 十四郎は少し考えてから首を縦に振った。この時、銀時は漸く十四郎が緊張していることに気が付いた。手を差し出すと、両手で大事そうに銀時の手を握り自分の頬に当て、控えめに頬を擦る。銀時は胸が熱くなるのを感じた。シコリのようなものが喉に迫上がり圧迫し苦しくなった。うっかり気を抜くと目が潤んできそうだった。十四郎は猫のように銀時の掌の感触を得ると、持っていた手提げから封筒を取り出し、そこから数枚の写真を抜いて見せてきた。
 全て銀時の写真だった。そのうちの一枚は、場所はおそらく新宿でどこかのビルの手前に立っている。笑いながら、何かを喋って配っているようだった。チラシ配りのバイトの写真だ。ピントがぼけて、視線が合っていないから、おそらく銀時には黙って撮ったのだろう。もう一枚は見覚えがある。これは高杉の事務所で撮った写真だ。もう一枚は学生時代の写真で、もう一枚はおそらく万事屋開店当初の写真だ。どれもこれも、銀時が笑っている写真ばかりだった。
「これを持っていい子にしてたらお父さんいつか会いにきてくれるってお母さんが言ったから、ちゃんと大事にお父さんの写真持ってた。十四郎がいい子にしてたから会いに来てくれたんでしょう?」
 銀時は唾を飲み込む。身体の芯に何か暖かいものが生まれて、震えた。心臓が跳ねるほど十四郎は可愛らしく、いじらしかった。銀時は十四郎を抱上げて、小さな頭を胸にあてがった。
「そうだよ。十四郎はこんなにいい子だもんな」
 十四郎の身体が僅かに震えた気がした。このまま、泣いてしまえばいい、と思ったのだが、やはり十四郎は涙を見せなかった。

 十四郎の暮らしていたのは多摩川支流の浅川に沿うように伸びている道路に面している一角で、平屋の長屋群のなかの北側にある一軒だった。周囲には区画整理を行おうとした残骸のような場所が残っており、昭和の初期に町工場で働く人々が生活していた名残が色濃く残されているようだった。隣家は荒れ果てた無人長屋で、その隣は草臥れた洗濯物が風に揺られ靡いている。辺りはひっそりと息を潜めていて、人の住んでいる気配が薄い。
 十四郎は家に入ろうとして不意に立ち止まった。屋内に誰か人が居るようで、曇りガラスの向こうで人影が動いていた。
「誰かいるのか」
「三浦さんかな?」
 でも今日は来ない日だし、と十四郎が呟くので銀時は前に立って引き戸を開けた。建付けが悪いのか途中で詰まったが力を加えると難なく滑って行った。
 家屋の内に居たのは中年の女だった。煩わしそうに振り向くと、銀時を見つけて不審そうな顔を向けた。
「あんた、誰だい」
 手には大きな段ボールを抱えている。銀時は十四郎の困惑した表情を見て取った。
「ここに住んでいた恵津の夫ですけど、あなたは?」
「ふうん、あの女の……ねぇ」
 不躾な視線を受けて、銀時はちょっと嫌な感じがした。まるで恵津を見下しているような態度だ。
「勝手に入って何をしてるんです」
「勝手じゃないよ。生前、あんたの女房と契約を交わしてんだ。自分が死んだら家財道具一切を処分してこの家を明け渡すってね。あ、そうだ。あんたに手紙も預かってんだ、これ」
「手紙?」
 それは確かに銀時宛てのようだった。封筒に坂田銀時様としたためられている。
「とにかく、ここはもうあんた達の家じゃない。引き取っておくれ」
「いや、まだ十四郎の荷物が」
「家にあったのはこれで全部だよ。こんなもん未だ使うのかい」
 大仰なため息をつくと、女は持っていた段ボールを乱暴に落とした。床が悲鳴を上げて、思わず銀時は女を睨む。十四郎は銀時の脇からひょっこり出てきて段ボールを覗き込んだ。手を入れて上の方の台所用品を掻き分け、取り出したのは尾崎豊の「回帰線」というアルバムだった。それを大事そうに手提げに仕舞うと、逃げるように踵を返して銀時の脇をすり抜けた。不機嫌な顔をしている女に取り敢えず頭を軽く下げて戸を出ると、十四郎は少しはなれた場所で銀時を待っていた。
「それだけでいいのか」
「うん、いい」
「本当に他のもの、持っていかなくていいのか」
「大丈夫」
「じゃあ行くか」
「うん」
 十四郎が指を絡めてくる。その手を握って多摩川方面に向かって歩き出した。空は夕暮れの残りを僅かに後引かせているだけで、全体的に夜の気配が濃かった。街灯が点いて随分経つ。十四郎と銀時の影が小石がざらざら動く路に長く伸びていて、河川敷の風景は赤っぽかった。ぽつぽつと話をしながら日野駅までの道のりを戻っていたのだが、十四郎の口数が次第に減っていき、歩みも遅れてきた。今日一日いろんなことが起きたので、その疲労は当然だろうと思われた。母親が死に、今まで会った事がない父親が現れ、住んでいた家を出るかたちになった。普通なら途方に暮れて、世を詰ってもおかしくは無いのに、十四郎は幼いながらにその現状を理解しているようでもあった。不条理に慣れているようだった。立ち止まり屈んで十四郎の脇に手をやると、ひょいっと抱き上げた。十四郎がわっ、と戸惑うような声を上げた。軽い身体の尻と背中を支えてやると銀時の首に縋るように抱きついてくる。子供特有の匂いがした。十四郎の心臓の音が速くなった。
「寝てもいいぞ」
 ぎゅっと銀時の襟元をきつく掴んできた十四郎の頬が銀時の肩に触れた。人肌の温もりが心地よく感じた。
「お父さん」
 甘やかな声で呟くから、銀時は愛しさと罪悪感が掻き混ぜられたような心境になる。
 昔、先生の胸に抱かれた時、今の十四郎と同じように首に抱きついた。肩に頬を当てると先生は髪が長かったから、擽ったかった。夕焼け空の下、田圃に挟まれた畦道を見下ろした。ずっと続くような長い道のりを満たされたような気持ちで、先生の腕の中で揺られた。どこからか、蝉の鳴声と夜虫の鳴声が聞こえていた。よく覚えている。今でもたまに夢でみる。
 十四郎の身体が重みを増した。寝てしまったのだろう、身体が弛緩している。だが、銀時から離れる事が嫌だとでも云うように、首に回った手はしっかりと繋がれていた。銀時は十四郎の背中を軽く叩いてやってから、溶けていく夕暮れに向けて足を進めた。