日野から新宿方面に戻る電車に乗って、一駅隣の立川駅で降り、駅からほとんど直結したホテルで受付を済ませると、ホテルの中の食事処で少し早目の夕食を済ませた。食べ終わる頃、高杉の部下がやってきたので、十四郎を宿泊する部屋で待たせて、高杉の部下で顔見知りの三郎とロビー脇に設えてある待ちあい場で落ち合った。一番奥の柱に遮られたソファに腰を下ろすと、三郎が鞄から書類を取り出し、円形のガラステーブルに置いた。
「銀さん久しぶりだな」
 三郎は人懐っこい笑顔を浮かべると、これからの段取りを要領良く話してきた。高杉が重宝するのが分かる仕事ぶりに感心しながらも、ある一点が気になった。
「施設、か………」
「それが十四郎にとっても、勿論、銀さんにとっても一番いいだろう」
 待ちあい場には銀時と三郎以外ほとんど人がいなかった。音といえば背後のテレビから雑音が聞こえる程度で、フロントからこっちは随分離れた位置に中年のサラリーマン風の男がコーヒーカップを傾け、眠たげに新聞に目をやっているだけだ。
「十四郎の施設入りはちょっと落ち着いてからになるかな。恵津の葬式を済ませてからだから……それまでは銀さん、どうする?」
「どうするっつったって、俺が面倒見るしかないだろ」
「そんな事もねぇんだ、金払えば預かってくれる場所はあるよ」
「その金はどうすんだよ」
「高杉さんが出すだろ。今回の一件はこっちの落ち度なんだしさ」
 銀時はむっつりと押し黙った。三郎は銀時の顔を見て溜息をつく。そして、苦笑いを浮かべた。
「高杉さんが言ってたよ、銀さん、十四郎を放り出すことを渋るかもな、って」
「だってよ十四郎な、俺の事を本当の父親だと思ってるんだ」
「でも実際は違うだろ。銀さん、子供を一人養うってのは大変なことだぜ。しかも、血のつながりのない子供だ。一時の情に絆されて軽はずみな判断をすると後で後悔するぜ」
「うん、それは分かってる」
「やっぱりどっか他所に預けた方がいいな。銀さん、きっと十四郎とこのまま居ると情が移っちまうよ」
 銀時は再び沈黙し、背凭れに寄りかかる。三郎は暫く書類に目を通していたが、やがて、沈黙に押される形で事務所に電話してくると立ち上がり、公衆電話に向かっていった。銀時はうまく言葉にできない、通りの悪い気持ちを肚に抱え、それでも理性的には十四郎の傍に居ない方がいいのは分かっていた。三郎はこのまま傍に居ると情が移るといったが、それは違った。情ならもうとっくに移ってしまっている。
 三郎は戻ってくると、書類を銀時と自分のものとに丁寧に分けて、自分の書類を鞄に仕舞った。どうやら仕事に戻るらしい。
「銀さん、とにかく明日役所に行って手続きだけはしてくれよ。葬儀屋には俺らのほうから連絡しとくからさ。それと、今日は十四郎とこのホテルに泊まってくれ」
「お前は?」
「俺はまだ一仕事残ってるから、これから事務所に戻るよ。あ、それから」
 三郎は鞄を漁り、茶封筒を取り出した。宛名も何も書いてない封筒である。うっすらと膨らみがある。受けとると、三郎は腕時計を確認して銀時の肩に手を置いた。
「じゃあ銀さん俺そろそろ行くよ。十四郎は明日にでも引取るからさ、あんまり気に病むなよ、銀さんらしくもねェ」
「そう、だな」
 三郎の後姿を眺めながら、これからどう十四郎と向き合えばいいのか、何を話せばいいのか途方に暮れる思いだった。封筒の中身は後で確認することにして、十四郎を残してきた部屋に戻ろうと、席を立ち振り返って、銀時は息を呑んだ。
「十四郎………」
 手提げを小脇に抱えた十四郎は顔を真っ赤にして柱の脇に立っていた。それは、出会ってからここまでで一番顕著に変化した十四郎の表情だった。十四郎は銀時を見上げて、おそらく何かを口にしようとして、そうして、諦めたように項垂れた。満面朱を注いだ十四郎の顔色は、しかし直ぐに青白くなった。再び顔を上げた十四郎は、もう、消沈した容子は見受けられなかった。ただ、気のせいかもしれないが先程までのどこか甘えを含んだ気安さはその眼差しには感じられなかった。
「………十四郎、戻るか」
 十四郎は長い睫毛に縁どられた二重の瞳を瞬かせ、いかにも不憫そうな、だが利発そうな顔立ちで「うん」といとけない声がまろび落ちた。その表情には、一縷の色も無かった。銀時はその時分かってしまった。十四郎はつい今しがた銀時を諦めたのだ。今みたいに十四郎はずっと、諦め続けてきたのだ。俯いた十四郎は涙堂に翳りが過ぎり、とても疲れた顔をしているように見えた。銀時は何かを言おうとして口篭る。言うべき言葉など、慰めるべき資格など銀時は何一つ持っていなかった。
 十四郎に背を向けて歩き出す。傍に居てやりたいとは思う。だが実際、銀時は十四郎の望むような事は決して選ばない。どんなに心動かされようと、最終的に十四郎を見放す。そうしなければならない理由があった。
「十四郎、今日はこのホテルに泊まるからな。そんで明日、母さんを天国に送ってやろうな」
 そして、明日銀時は十四郎を一人にするのだ。
「うん」
 十四郎の返事を背中で聞いた。
 仕事で随分前に子供の御守りを依頼された事がある。十四郎と同い歳くらいの年齢の子供で、半日近く面倒を見ていた。裕福な家庭の幸せな子供だった。その子供はもっと生意気で、我侭で、全てが自分中心に回っていると信じて疑っていないようであった。気に入らないことがあれば全身で訴えてきた。十四郎のようにじっと耐えたりはしなかった。母親が戻って来たら、その胸に抱きついて思う存分に甘えていた。十四郎はどうだっただろう。生前の母親に甘える事はできたのだろうか。
 銀時には先生がいた。甘えられる存在があった。では、十四郎には誰がいるのだ。これから十四郎にとっての安らぎとなれる人ができるのか。
 いつの間にか、泊まる部屋の前に着いていた。考え事をしていたせいで、どういう道筋を辿ってきたかも覚えてなかった。十四郎は銀時の後をちゃんとついて来て、銀時の隣に立っていた。鍵穴にキーを差し込んで回す。かちゃん、と手応えがあった。
「おとう……さん………」
 銀時は強張った。十四郎の覚束ない声が足元から這い上がり、銀時を圧迫した。
「どうした」
「ごめん、なさい」
 銀時は息を呑んだ。十四郎は銀時を見上げて、ひどく緊張した面持ちで、ごめんなさい、と繰り返す。銀時は必死に言葉を探した。違うんだ、俺が悪いんだ、俺はお前の母親に戸籍を貸して、それで、だからお前が気に病む必要は何も無いんだ、十四郎、大人の都合でお前を振り回してごめんな。何一つ、言葉にならなかった。嘘もつけない。真実も告げられない。畢竟、何を言っても傷つける。
「言いつけ通りに待ってなかったから、お父さんとの約束破っちゃったから………」
 十四郎はそう信じたいようだった。いい子にしてたから父親が会いに来てくれた。いい子にしなかったから父親が去っていく。そう、必死で思い込もうとしている。それ以外の何かを、決定的なものを避けている。銀時は耳を塞ぎたかった。止めてくれ、と叫びたかった。心臓がバクバクと拍子を刻み、脂汗が噴き出る。怖気づいていた。十四郎は銀時を一生懸命見ているのだ。銀時が何を考え、何を思い、自分がどうすれば銀時に好かれるか、一緒にいてもらえるか、小さい頭で必死で考えているのだ。十四郎は銀時に甘えたかったのだ。繋がりを、ずっと続く、繋がりを持ちたかったのだ。
「お父さん………」
「入ろう」
 十四郎の伸ばした手を銀時は避けた。部屋に入って靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。そそくさと窓際に座って、銀時は頑なに十四郎に振り向かなかった。やがて、部屋のドアが閉まり十四郎がそろそろと室内に入ってくる気配がした。言葉は無かった。十四郎がどういった表情をしているか見ようともしなかった。
 非情な話だな、と銀時は思う。先程まで十四郎にあんなに優しくしておいて、今は突き放している。最初からこうやって冷たくしていればまだ十四郎の傷も浅かったかもしれないのに。母親が死んで、家を失って、父親に冷たくされて。恵津に対する八つ当たりのような怒りが込み上げてきても、それを抑えることはできなかった。どうして最期まで責任を取れないにも関わらず産んだんだ、どうして十四郎に適当な事を言ったのだ、と押さえても押さえても止め処なく溢れてきた。
 十四郎はワンルームしかない部屋の隅で息を潜めて座っているようだった。銀時に対してどうしていいか解からず、ずっと押し黙っているのだろう。その重苦しさを背中でずっと感じていた。銀時は小さく溜息を吐く。窓ガラスはこちら側が戸外よりも明るいので室内を反射していた。十四郎に目を向けないよう、暮色の山の稜線を眺めていたのだが、意識を逸らすことにもなんだか疲れてしまった。
 銀時が振り返ると、十四郎の肩が震えた。
「十四郎、先に風呂、入って来い」
 銀時が言うと、十四郎は銀時の眼を見詰めたままこくんと頷いた。
 すぐ目下は立川の街が広がっている。街灯やらビルの灯りやらが細かく連なって、山に近付くにつれて数を落としている。丁度ここからは半々に山の光景と街並みが望めた。銀時は十四郎が居なくなったので肩の力を抜き、遠窓際の籐の椅子に腰を掛けた。そして、まずは十四郎の暮らしていた家に居た女から手渡された封筒を開けた。中には便箋が四枚入っていて、流れるような美しい文字が並んでいた。
 銀時はフロアスタンドの灯りをつける。

 坂田銀時様
 はじめまして、恵津と申します。
 病院で手紙をしたためています。日に日に胸の辺りが重くなるようです。痛くてたまらない時があります。薬を飲めば暫くはおさまるけど、まだ直ぐに激痛が襲います。今は比較的落ち着いています。薬の副作用か手が震えます。ゆっくり書きます。あまり上手な手紙ではないけど、勘弁してください。
 実は、あなたに今まで沢山の手紙を書きました。昨日、これまであなたに書いて出せず仕舞いだった手紙を全て処分しました。結局いままで一通も出すことができませんでした。
 この手紙がもしかしたらあなたに書ける最期の手紙かもしれない。最期の手紙だとしたら、きっと、あなたに届くでしょう。
 あなたにはとても感謝しています。私に戸籍をありがとうございます。あなたのおかげで、私は生活が出来ます。日本で生活が出来て本当に幸せです。ありがとう。本当にありがとうございます。
 この手紙を読んでいるという事は、きっと十四郎のことを存じ上げていることでしょうね。隠していてごめんなさい。本当にごめんなさい。
 十四郎を産むのは本当に大変でした。仕事仲間の由美ちゃんには本当にお世話になりました。もし、何かでお会いする機会があったら私が感謝していたことを伝えてください。差し出がましくてごめんなさい。十四郎はデリバリーだったからなんとか産むことができました。本当にこの仕事でよかったと思います。辛かったけど、この仕事でよかったと思います。
 あの子は私がこういった仕事をしているせいか、低出生体重児で満足にお乳もあげられず、ずっと人を雇ってその人に任せきりにして、母親らしいことは何一つできていません。雇って十四郎を世話してくれた人もあまり親身になってはくれませんでした。私がもっとお金を持っていれば、もう少し、十四郎によくしてあげられたのに。何一つままならない、何一つしてあげられない、だめな母親でした。
 十四郎の父親は分かりません。沢山の男性と体を重ねたから、誰の子か分かりません。本当にだめな母親です。ごめんなさい。お金をくれるなら、平気で体を開くだめな女です。ごめんなさい。でも、私は、そういう生き方しか選択肢がありませんでした。
 あなたにはとても迷惑をかけていると思います。でも、私は十四郎が可愛いのです。あの子がお腹に宿ったと分かった時から、私はあの子が愛しくて愛しくてたまらないのです。堕ろそうなんて考えが微塵も湧かなかったのです。あの子を産む事ができて本当によかった。
 産もうと決めた時、日頃から懇意にしてくれたお客さんがいて、その方が日野の平屋を譲ってくださいました。その方はもういません。何かいけないことをして追わているようです。どこかに行ってしまいました。その方はいなくなる前に、私に求婚してくださいました。本当に好きなんだ、一生養うから一緒になって欲しいと私に言ってくださいました。でも、私は断りました。行為中、私の首を絞めるのです。その時の目がどこか異常で怖くて、十四郎にもしものことがあったらと思って断りました。家だけはもらえましたが、もし、戻ってきて十四郎に何かあったらと思うと怖くてたまりません。私は病気だし、早く死んだほうがいい、そうしたら十四郎はあなたに会えるし、どこか安全な場所にいける、そう思っても、死ぬのはやはり、怖いです。痛くて辛くても怖いです。何より、十四郎に会えなくなると思うと涙が止まりません。
 私はよく、夢を見ます。おかしな夢です。笑ってください。
 あなたが私と十四郎を抱きしめてくれるのです。私たちは、普通の家族で、私と十四郎はあなたの帰りを玄関で待つのです。おかしいですね、笑ってください。
 私は実はあなたを何度もお見かけしたことがあるんですよ。歌舞伎町で仕事をするあなたや、街を歩くあなた。遠目から、こっそり見ました。あなたの写真、あなたの趣味、あなたの癖、あなたとは喋ったこともないのに、私はあなたの事を沢山知っています。パクられた時に言い逃れが出来るよう、あなたのことは沢山暗記しています。
 十四郎には嘘を沢山つきました。あなたが十四郎をどれだけ愛してるか。あなたは仕事で忙しくて会えないけど、十四郎の事を自慢の息子だと思っていること。いい子にしていたら、あなたは必ずいつか十四郎に会いに来てくれること。沢山いけない嘘をつきました。ごめんなさい。
 でも、あなた、本当に私はあなたに感謝しているのです。ありがとうございます。何度言っても足りないくらい、感謝しています。そして、ごめんなさい。
 優しいお客さんは沢山いるけど、あなたが一番優しいです。ごめんなさい。愛しています。おかしな空想を抱いて、死ぬことを許してください。十四郎に会ったら、愛してると、嘘でもいいから言ってあげてください。
 ごめんなさい。本当にごめんなさい。
 でも、あなたがいると思うと、どこかほっとするのです。高杉さんからあのたのことを聞いたことがあります。あなたは優しくて素敵な人です。夫になってくれてありがとうございます。
 父親になってくれてありがとうございます。ありがとうございます。ごめんなさい。
 恵津
 

 読み終えた手紙を綺麗に畳んで封筒に入れ直し、鞄の中に仕舞ってから銀時はぼんやりと窓の外を眺めた。しばらくは虚脱しきって、なにも頭に入らなかった。どこかのビルの明かりが一斉に消えたらしく、目の前の景色が少し薄暗くなったようだった。このまま明かりが全て消えれば、夜空の星が故郷のように鮮やかに見えるのだろうか。
 この手紙を読んだ後に恵津の安らかな死顔を見ていたら、もう少し何かが違っていたかもしれない。眼を閉じる。あの病院で十四郎を視た瞬間、自分の心に宿ったものが確かにあった。それは銀時の心に波紋を広げ、やがて大きくなり、今は波のようにざわめいている。銀時を真っ直ぐ見詰めたあの眼差しに、見覚えがあった。
 冷静に考えれば三郎や高杉の云うように銀時は直接、恵津や十四郎を傷つけてはいない。だが、恵津の借金に嵩んだ銀時の戸籍代が重荷になった事は確かだ。銀時は戸籍を貸して五十万円を手に入れた。おそらく恵津には百万以上の借金が嵩んだ。十四郎の貧相な身体はそのツケを少なからず受けている事は一目瞭然だった。日本で働きたいと、恵津は所望していた。銀時が売らなくても他の誰かが売っていただろう。恵津や十四郎にとったら同じことだ。
 だが、関わった。銀時が貸した。恵津は銀時に託した。そして、十四郎は一人になる。
 古里が蘇った。
 幼い銀時は畦道を駆けた。背後には今日のような怖いぐらいの鮮やかな夕焼けが忍び寄っていた。吹く風は生暖かく、稲穂の匂いが山の奥からの風と共に舞っていた。足裏に感じる石ころの硬い感触は期待と不安を足元から奇妙な興奮と共に感じさせた。先生に内緒で生家に帰ったのは、こっそり忍び込んで押入れに隠れたのは、子供ながらの無邪気さだった。銀時は親に捨てられた。だが、あの時はもしかしたら捨てられたという意味を軽く考えていたのかもしれない。もう一度両親の顔を見たかった。会いたかった。捨てられたと知っていても、もう一度だけでも、名前を呼んで欲しかった。
 押入れの中は埃っぽい匂いがした。家はがらんどうで、今日、父親と母親が最後にここに来ることを知っていた。暫く待っても二人の気配が無いので、うとうとして眠ってしまった。
 寒気がして眼を開けると、口論が聴こえた。知らない声がすることを不審に思い、押入れを少しだけ開けて部屋を盗み見た。眼に飛び込んできたのは光景は、なぜか思い返すと色彩がない。
 ずっと銀時は見ていた。一言も言葉を発さず、ただ呆然と事の成り行きを最後まで見ていた。
 動けるようになったのは三人の男たちが去った後だった。襖を開いて這いながら部屋に立ち、血まみれの畳の上に立ち竦み、父と母を見下ろした。もうっ、と訳の分からぬ複雑な臭気に咽かえり喉の奥から溢れるものを嘔吐して、気がつけば畳に手を付いて泣いていた。室内は暗かったが、血の色は鮮明だったように思う。その時は、心も身体もひたすら空虚で、自分はもしかしたら透明になるのかもしれないと思った。ただ漠然と、本当に捨てられて、置いていかれてしまったんだな、と漸くその後になって理解した。
 母親の鞄から飛び出ている手鏡を見た。そこに映った自分の顔は何の感情も映さず、真っ直ぐな静かな眼をしていた。
 そうだ。あの顔が、十四郎のあの時と同じだ。同じ、眼をしていた。
 あの後、銀時を探しに来た先生は銀時を見つけるとすぐに抱きしめてくれた。何も云わず、先生は強く銀時を抱擁した。先生の着物はお日様の匂いがした。銀時はその胸にしがみついて、悲しいのも怖いのも苦しいのも何も分からずにただ泣いていた。
 東京の高層ビルから見下ろす夜景を銀時は少しも綺麗だとは思わない。月明かりだけが瞬く田舎の夜の壮観には逆立ちしても適わない。何年も東京に居を構えても、あいも変わらずに銀時はそう信じている。だが、東京の夜は明るかった。暗闇を覆い隠す明かりがそこかしこにあった。
 ふと、我に返った。十四郎の戻りが遅いような気がした。時計を見る。風呂に入りに行ったっきり時間が経過しすぎている。銀時は嫌な予感にざっと青褪めると、バスルームに走った。洗面所の扉を開け、浴槽の扉も乱暴に開くと、十四郎は裸体をシャワーに浴びせながらうつ伏せに倒れていた。銀時が慌てて抱え上げると、十四郎は浮腫んだ顔を辛そうに歪めさせていた。額に手をやると、淹れたての茶を陶器越しに触れるような熱さだった。
「十四郎、オイッ! 十四郎! 大丈夫か!」
 一先ずバスタオルで身体を包み、ベッドに寝かせるとすぐさまフロントに内線を掛ける。子供の容態が悪いので医者を頼む、と叫ぶように告げると、直ぐに手配しますとのことだった。部屋の内鍵を開錠させて、十四郎に洋服を着せ、水を用意する。荒い息遣いで眼を閉じたままの十四郎に備え付けのハンドタオルを水で冷やして額に置いてやる。頬に手をやると、十四郎の手がゆっくりと銀時の手の甲に触れた。
「お父さん?」
 薄目を開けて潤んだ瞳を銀時に向けると、痰の絡んだ咳をした。
「大丈夫か?」
「ごめんなさい」
 さっきから十四郎は謝ってばかりだ。
「ちょっと疲れちゃったんだな。大丈夫だから、医者が来るまで寝てろ」
 銀時の手を包むようにして両手で覆う十四郎に笑いかける。手の平はしっとりと汗ばんでいた。今日一日、十四郎は目まぐるしかった。気丈そうに振舞っていても神経は消耗していたのだろう。
「お父さん」
 緩慢な動きで、銀時を呼ぶ。
「どこにもいかないから」
「嘘だ…………行く。嘘だ」
「本当だって、ここにいるから」
「十四郎が、いい子じゃなかったから………」
「十四郎はいい子だよ。だから、会いにきたんだ」
 頬に触れた手を返して十四郎の手を握ると、十四郎は口を噤んで眼を閉じた。銀時の手をしっかりと握りこんだまま、眉を寄せて何かに耐えるようにしていたが、硬く閉じた目頭からボロッと大粒の涙が零れると、堰を切ったように、まるで雨のようにボロボロと溢れてきた。胸が必死に上下する。硬く閉じている口元から、喘ぐような噎ぶおかしな音が聞こえた。そこからはもう止まらなかった。くうっーと子犬の鳴くような音を漏らしながら、身体の中心に力を込めて眉間に皺を寄せながら泣いた。思いっきり泣いてしまえばいいのに、そうやって我慢しようとする十四郎がいじらしかった。言葉は切れ切れで、鼻水をたらして、その子供らしい様子に銀時は微笑んだ。
 十四郎の隣に横になり、抱きしめてやった。泣いているせいか、逆上せたからか、熱があるのかもしれないが、体温が高い。十四郎の涙が布越しに銀時を濡らした。十四郎のくぐもり声を、銀時は嘗てないくらい穏やかな気持ちで訊いていた。背中を擦ってやり、十四郎の身の内から溢れる不安を、たとえば、一人は嫌だとか、寂しいとか、苦しいとか、そういうここに来て初めて噴出した悲嘆に頷き、ウンウンと首肯した。
 暫く経ってドアがノックされた。銀時は「ちょっと待っててな」とベッドから立ち上がり医者を出迎えた。診察を終えた医者の見立てでは神経疲労で熱が出たのだろうとの事だった。しばらく安静にして、滋養のあるものを食べさせなさい、栄養不足も免疫力を下げている、と銀時にきつく云った。銀時は素直に謝って「俺が、これからは気をつけます」と答えた。医者はちょっと怪訝そうな顔をしたが、特に何も云わずに帰っていった。
 十四郎の寝息を聞きながら、三郎から渡された封筒を開ける。厚手の紙が一枚入っていた。見覚えのある綺麗な字を認めて銀時は笑う。
 依頼書だった。
 銀時は万事屋だ。依頼は受けねばならない。
 眠る十四郎の蟀谷の辺りに口付けながら、銀時は確かにその依頼を、受託した。