学校は夏休みに入った。運動場に打ち水をしていると、子供たちは面白がって銀時の向けたホースから放出される水を潜るようにして駆け抜ける。歓声を上げながら付き纏ってくる子供の群れに放水をすると、叫び声を上げて逃げ、また引き返してくる。
 汗雫が止まらない。
 高校最後の大型休みである。受験生という立場を考慮されて、このところ小学校に通う年長の児童達に勉強を教えることが多くなった。空いている時間に自分の勉強もしできるよう取り計らってもらっている。「外遊びをしてくれなくなった」と児童達は最初不服そうだったが、長谷さんに言い聞かせられると、存外に諦めの早い子供が多かった。
「銀時先生! こっちにもー!」
 大きく手を振ったのは、年下の子供を従えて面倒見ている六歳児の男の子だ。この子の家庭は、昨日離婚が成立したらしい。笑いたい時に笑えて、泣きたい時に泣けるというのは子供の特権かとも思うが、案外、そうでもない。それを銀時はこの「すこやか」で子供達に教えられた。
 頬を掻くと鈍い痛みを感じた。先週、短慮を起こした結果だ。暫らくバイト停止を言い渡されるかと思ったが、そうはならなかった。厳重注意だけで済まされたのがまったくの意外だった。
 地面の色が全体的に変わったのを見て取って、蛇口を捻る。中庭の端では、親が恋しいのか愚図る子供を、年端も行かぬ年長児が面倒を見ていた。
 どこまでも容赦のない日差しは中庭を白く染め上げている。フェンスを隔てた道路では陽炎が揺らめいていた。
 銀時は中庭の端にそっと向かい、愚図る子供の脇の下に手をつっこみ、高く持ち上げて肩車をした。頭より高い位置で、わっと驚いた声が上げる。
「コータ、サトより高いぞ。って事は、サトよりも分別良くなんなきゃな」
 コータは銀時の頭をしっかりと掴んで、「ぶんべつ?」と不思議そうだ。
「何が寂しいか、嫌なのか、その原因を考えるんだ。正体がわかったら、じゃあ、どうすれば寂しくないか、嫌じゃないかを考えろ。それができれば、コータは大人だ」
「大人……!」
 コータは大人だ、という言葉だけ咀嚼できたらしい。
 コータを下ろすと、サトに「暑いから、もう中入れ」と促した。サトは頷くと、コータと手を繋ぎ館に向かった。
 視線を感じて振り向くと、いつもの場所に座った十四郎がこちらを不思議そうな顔をして見ていた。目が合うと、咄嗟に逸らしたが、またおずおずと此方に視線を向けてくる。もごもごと口が動いたかと思うと、右手の人差し指で自分の頬を指差した。銀時が首を傾げると、焦れるように俯くが、再び顔を上げると、
「ありがとうっ」
 と十四郎にしては随分と大きな声だった。銀時は一瞬不意を突かれ、目を見開いた。意味を把握すると、身を捩りたくなるほど擽ったかった。

 頬の痛みは、云ってしまえば銀時の短慮が原因だった。先週、中庭で草刈りをしていると、フェンスの外から「こんな奴らと遊ぶのなんて嫌です」という声が聞こえてきた。訝しげに視線を向けると、二人連れだった。小さい方は十四郎と同じくらいの年齢か少し下だろうと思われた。もう一人は大人の男だった。小さい方は、ちょこんと座っている十四郎を一瞥し、小馬鹿にしたように眼を細め口を歪めた。銀時は自分の顳かみが痙攣するのを感じた。
 ちょうどその時、銀時は十四郎の傍にいて、その声は容赦なく二人の耳に届いてきた。
 小さい方がいけしゃあしゃあと云った。
「こんな奴らと遊ぶなんて、絶対嫌です。親が不潔な仕事してるんでしょ。片親の奴らなんて、嫌でさぁ」
 気がつくと銀時はフェンスを飛び越えていた。カッと頭に血が昇って、自分自身に制御が効かなかった。なんとかガキの横っ面を張っ倒すのは堪えた。代わりに、傍にいる男目掛けて拳を突き出した。男はあまりにも突然のことに、防ぎようがなかった。吹っ飛んで転がった大柄に跨って、胸倉をぎりぎりと捻り上げた。
「テメェ、どういう教育してんだ! ふざけんなッ! あそこにいるガキはな、人を貶めるような言葉は吐かねえぞ! そっちのガキのがよっぽど不潔だ!」
 激昂した脳には周囲の眼があるなんて些細な事は抜け落ちていた。遠くで自分の名を呼ぶ金切り声がした気がした。男は口の端から血を垂らしながらも呆然として、一切抵抗しなかった。
 頬に衝撃を受けたのはその時だった。あらぬ方向から頬を叩かれて、頭が白くなった。銀時の頬を張ったのは村松さんだった。
「ただでさえ、世間の風当たりが強いのに、君は………」
 何時もの温厚な顔とは違い、憤怒をたたえていた。銀時ははっとして、男の胸倉を離した。胸が急激に冷えていた。村松さんの怒りは痛いほどに分かった。
 「すこやか」は民間施設である。児童を学校終業後や保育園や幼稚園就業後に預かる施設は法制化されていなかった。働く親たちが自治体に学童保育の設置を要望しても「法律にもないものはできない」と門前払いを食らったり、共同保育に補助金を要望しても冷たい対応だった。それならば、子供達を多く集めて、預かり施設を立ち上げてしてしまおうと云うのが「すこやか」の開業目的だった。新しい事業には反発が付きもので、子供を預ける親の仕事内容や外国人の親に対する偏見、快楽街ともいっていい一帯、その立地に難色を示す者が多かった。遅くまで子供を預かることに難色を示す者もいた。戦後から二十五年もの歳月が経っていると云うのに、このような施設があるせいで戦後になってから子供を蔑にする親が増えているのだと荒唐無稽な発言を吹聴する者もあった。今から二年前、昭和四十三年に、第二回学童保育研究集会に参加した各地の関係者で全国学童保育連絡協議会が発足し、漸く、放課後児童に対する関心が増え始めてはいたが、国や自治体規模での積極的な促進はなかった。
 「すこやか」の放課後児童預かり施設は新しい事業で、世間から注目された。注目される事は必ず排斥しようとする風が生まれる。高木は風に嫉まれる。逆風も多い中、地域との関わり合いを深め、共働きの親や片親、特殊環境にある子供を積極的に援助していこうと、政府や大衆に訴えていこうと方針を決めた矢先だったので、銀時の暴行が明るみに出れば今までの努力が水泡に帰す。
 だが幸い、周囲の目は無かった。
 長谷さんは銀時に事の成り行きを聞くと「村松君も、銀時君も暴力はダメよ。特に子供の前では絶対にダメ」と何時になく厳しい口調だった。
 後日、男は小さいのを連れて謝罪に来た。
 銀時も長谷さんと二人に職員室で対面し、深く頭を下げた。
「ごめんなさいね、どんな理由があろうと暴力は絶対にダメだわ」
「いや、あれはどう考えてもコイツが悪いですし、俺も、甘やかしてばっかで。あの後ずいぶん灸を据えましたから」
 と男は恐縮する。小さいのは不貞腐れながらも、男の大きい手に頭を掴まれ何度も首を下げさせられていた。
「コイツは、総悟っていうんですが、去年、二親を交通事故で亡くしまして……」
 銀特と長谷さんは息を飲んだ。むっつりと黙り込む総悟を近藤は優しい目で見下ろす。その眼差しの温かさに兄や父親かとも思ったが、二人は血縁関係に無いようだった。
「総悟には姉がいるんですが、生まれつき身体が弱くって、今は入院していているんです。もともと家族ぐるみの付き合いがあったんで、総悟はうちで一緒に暮らせることになったんですが、俺の親は共働きだし、俺も高校があるしで、一人で留守番させるのも心配で。学校が終わって友達と楽しく遊べればコイツにとってもいい事だと思ったんで、あの日は見学に来たんですよ」
 銀時は些か衝撃を受けていた。まさか目の前の男が同じ高校生だとは思わなかった。高校生にしてはあまりにも老け顔だ。男は名前を近藤勲と名乗り、歳の割に随分と落ち着いている事も老けていると此方が印象を持つ一因なのかもしれない。
「総悟が放った言葉は、子供だからって、いくら自分が辛いからって、許されたもんじゃありません。散々云って聞かせたんでこいつも、理解してます」
「いや、俺も、頭に血が昇っちまって。そんなことより、とても高校生には見えないな」
 銀時が云うと、男は一瞬不意を突かれた顔をしてから、大きな口を心底嬉しそうに笑みに変えた。長谷さんは隣で噴き出した。総悟は毒を抜かれた顔で銀時を見上げた。
 話し合いの後、近藤は総悟を随えて十四郎に会いに行った。遠目から三人の容子を窺っていた銀時は、近藤が何かを喋った言葉に対して、十四郎が小さく笑ったのを見た時、すとんと何かが胃の中を落ちるような安堵感を覚えた。銀時は初めて十四郎の笑顔を見たのだ。近藤はどんな魔法を使ったのだろうかと思うと、少し悔しい気もした。だが、近藤が差し出した手に十四郎は今度は一変し困惑を浮かべた。近藤が触れようとすると、体を竦ませて咄嗟に身を引いた。十四郎は自分の行動に今頃になって気づいたように眼を見開く。手を引っ込めた近藤ではなく、避けた十四郎の方が傷ついた顔をしていた。 
 十四郎は無口だがしっかりした子供だ。控えめで、愛想は無いが、初めて会う大人に臆することはない。黒目がちの瞳を開いて、頷くか、頷くだけでは足りなければ、言葉にもする。この年頃はしっかりしているように見えても親の前だと甘ったれになるのに、迎えに来た母親の前でもこんな調子だ。手をつなぐことも、負んぶや抱っこをせがむこともなく、隣り合って帰って往く。銀時にも教員にも他の子供のように慣れることはなかった。そうか、と今になって銀時は気付いた。十四郎は、人に触れられないのだ。何が原因かは分からない。どうして触れることができないのかも分からない。だが、それはとてつもない苦労を背負い込むことになる。「すこやか」で頭を撫でられたり、背中を触られたりした時、人知れず我慢をしてきたのかもしれない。
 銀時はエプロンに手を突っ込み、三人に近付いて、近藤に向かい「こら、うちの児童を誘惑すんな」と茶化した。

「ありがとう」と銀時に云った言葉を区切りに、その日から、十四郎はベンチに座って通りを見なくなった。積極的に、とまではいかないが、他の子供とも言葉を交わすようになり、教室でみんなと一緒に勉強するまでになった。どういった心境な変化だろうかと不思議に思って長谷さんに尋ねたら、「さあ、雨降って地固まるって感じじゃないかしら」と観音様顔だった。
 そのうち、沖田総悟が入館し、これが顔からは想像もできぬほど、手のつけられない捻くれ者だったが、意外にも十四郎がその世話係りにかってでた。十四郎は総悟よりも二歳年上だったが、総悟は世話を焼く十四郎を邪見にするものの、何だかんだで二人で居ることが多くなり、二人とも顔が滅法顔立ちが整っていたので、早熟な女の子は色めき立っていた。
 銀時が近藤を殴ったことが原因かなんなのか、総悟は銀時には一目置いているようだったが、銀時と長谷さん以外の他の職員には傍若無人な態度だった。特に村松さんがいけ好かないらしく、「押しつけがましい」やら「好かれようとしているのが見え見えで見苦しい」など、子供らしからぬ辛辣さで扱き下ろした。
 暴走する総悟を止める十四郎という図式が出来上がると、十四郎はそれまでとは性格が少しずつ変わってきたようだった。驚くべきことに、怒鳴り声や、総悟の暴挙に対して諌める声をあげるようになったのだ。「すこやか」で引っ切り無しに総悟に振り回されているので、おそらくそれが原因だろう。
「いいんすか、あれ」
 偶に十四郎が不憫に思うことがあり訊くと、長谷さんは「いいのよ、あれで」と満足気だった。
「すこやか」は子供の自主性を尊重している。よっぽどのことがない限り、子供同士の間には立ち入らないこと、それが決まりでもあった。

 茄子と胡瓜の精霊馬が教室の外に飾られていた。銀時は参考書から目を離し、大きく伸びをして窓の外に視点を合わせる。子供達が作った精霊の大軍の何匹かは転んでいた。昼間の通り雨が去ると、暑気が鬱陶しかったが、夜になると風が出てきた。
 二十一時を過ぎてもその日、十四郎の母親は迎えに来なかった。
「遅いな、母ちゃん」
 教室は十四郎の鉛筆を滑らせる音と銀時の紙を捲る音だけが響いていた。銀時は受験対策の参考書を置いて、十四郎のノートを覗きこむ。見たところ、間違っているところは無かった。
「もう眠いだろ、その辺で止めて横になるか」
 十四郎は「うん」と返事をして、ドリルとノートを仕舞う。と、
「ん?」
 銀時は十四郎の顔をまじまじと見据えて「お前、ここ、傷がある。どうした?」と手を伸ばした。顎から首にかけて、赤い線だった。触れようとした手前で、手を叩かれ、はっとした。
 十四郎の顔色が変わった。銀時を恐れるように、顔が歪んだ。
「ごめんなさい」
 小さな身体を益々小さくさせ、十四郎は俯いた。払われた手は大して痛くなかったが、胸は小さな棘が刺さったように疼いた。
「トイレ」と銀時が呟くと、十四郎が眉をハの字にしたまま顔を上げた。「トイレ行った後、手洗ってなかったわ。ちんこ触ってさ」
 両の掌を十四郎の眼の前に差し出すと、十四郎の目が丸くなり、泣き出しそうな顔で途端に吹き出した。「汚ねーっ」と叫ぶと、ゲラゲラ笑い出す。
「銀時、汚ねー」
「おま、先生付けなさいよ」
「あんたなんか、銀時で十分だ」
 坂田先生、とそういえば最近十四郎は呼ばなくなっていた。ここのところなんて呼ばれていたか、思い出すことができなかった。
 その時、迎えのブザーが鳴った。長谷さんが駆けていく足音が聞こえた。十四郎は鞄を肩にかけて、二人で玄関に向かった。
 十四郎の母親は大きく盛った巻き髪を横に流し、露出の高い服を着ていた。厚い化粧が施された顔は疲労感が漂っていた。
「いつも遅くなって申し訳ありません」
 外面の印象からはかけ離れた声である。
 開いた胸元が、高校生の銀時には聊か刺激的だった。
 十四郎の母親は丁寧にお辞儀をして息子と帰って往く。二人の後ろ姿を見送りながら、
「あの親子、会話もしないし、手も繋がないですよね」
 と銀時がポツリと言うと、長谷さんは「そうね」とそれだけを口にした。