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 〜東京の中枢は丸の内
 日比谷公園、両議院
 いきな構えの帝劇に
 いかめし館は警視庁

 東京節は坂田銀時の好きな曲の一つだ。大正時代を代表とする滑稽な持ち味の歌で、昭和に世が移り変わっても、歌詞の一部を世相や政治を風刺し面白おかしく変えられて歌われてきた。原曲はアメリカのものらしい。後半の出鱈目な歌詞が特に気に入ってる。
 口ずさみながら歩けば風景が愉快に映る。戦後の混乱から抜け出し、経済が廻り始めてきた世の中は、何かを補うように急激な変化で慌しい。皆が皆、取り残されないようにと必死で、銀時にはそれが息苦しく、猪突猛進にいつか無理がきて破綻するのではないか、と危ぶんでいる。先年、赴任した高等学校の教頭が、政府からの教育方針の度重なる路線変更指示にうんざりした顔をして、時代遅れの髭をなぞりながら「ここで遅れちまったら世界に取り残されるんだろうよ、急速に発展しねぇーと、まぁた敗戦国だぁよ」と零していた。日々変わっていく町並みにわけの分からない焦燥を感じる時、銀時を慰めるのは歌や小説や詩だった。それらは身の回りがどんなに変化しても、速度を変えず、ずっと同じ拍節で流れ続ける。ビルディングからも路地からも西洋かぶれの家からも木造住居からも。
 生きている、という実感が未だ銀時にはあやふやだった。身体の一部が取り残されたまま、流れているように感じられることがよくあるのだ。取り残してしまったものを引き寄せようと思っても、いっこうに銀時の元に返ってきてはくれない。いっその事、気持ちが掴むことの出来る物体であったならと、何時もぼんやりとした調子で思う。
 それでも、生活用品を配給に頼っていた頃より、身の回りの世界は格段に明るい。目覚しい文明開化と伴って、確実に日本は立ち直り始めている。街頭テレビで観覧した力道山の活躍は憔悴しきっていた人々の胸を熱くさせた。ラジオからは「復興」の二文字が聴こえない日は無い。何よりも、見舞いの品を持ち、生徒の入院先の病院に訪れることが出来る、というのは銀時にとって感慨深い事であった。生徒といっても、銀時は担任している学級を持っているわけではない。名目上の副担任で教科担任のクラスの生徒が運動活動中に骨折したので、休日を利用して訪れたのである。
 真新しい病院は白く瀟洒な建物だった。敷地は広く、前庭には木や花が人工的に植えられていて、通路の端には腰掛がいくつも配置されている。寝巻きのような服を着た入院患者が散歩したり、腰を掛けたりして各々本を読んだり喋ったりぼぅっとただ座ったりしていた。日の光は温かく、たまに吹く風は涼やかだ。この庭に居る人々は総じて、穏やかな容子だった。
 その中で、鮮やかな桃色をしたツツジの花の前の青年に眼がいったのは、戦時中によくツツジの蜜を啜った事を思い出したのと、彼が車いすに乗っていたからだった。膝には紺色の膝掛けが掛けられていて、その上には尾崎士朗の「ホーデン侍従」が置かれている。銀時はそれを見つけて可笑しくなった。青年の静かな佇まいと「ホーデン侍従」の組み合わせはどうも不適当だ。「ホーデン侍従」は俗本である。これは、ホーデンとペニス話なのだ。

 〜ペニス笠持ち
 ホーデンつれて
 入るぞヴァギナの
 ふるさとへ

 出だしにこのような珍妙な詩が載っている。なんでも文人が飲み屋で唐突に即興を口に出したそうなのである。そこに居合わせた北原白秋がたちどころに筆をとって次韻を附したらしい。

 〜来たかヴァギナの
 このふるさとへ
 ペニス笠とれ
 夜は長い

 愉快である。銀時は贔屓にしている書店で立ち読みし、すぐに気に入り購入した。蜜の印象濃いツツジの前で見かけるとは、これまた愉快適悦である。清水崑の表紙に招かれるようにして銀時は青年に近づいた。
「お前のペニス大公は使いもんになるのか?」
 青年は振り向くと、何度か瞬きをし、ちょっと唖然とした。銀時はニヤニヤし、筒も持つようにして、軽く手を揺らす。青年が怪訝な表情をしてくるので、慌てて本を指差した。青年は膝の上の本に目を遣ると、また銀時を仰ぎ見てきた。銀時はちょっと羞恥した。どうも青年は、見掛けどおりに静寂とした性格らしく、粛然としている。なにやら見当違いのようである。「ホーデン侍従」は何かの間違えなのかもしれない。と、もう一度表紙を確かめたが、それはまごうことなき清水崑の表表紙であった。余程の物好きか、好き者でないと手に取らない随筆なのだ。てっきり、諧謔に富んだ返答が返ってくると思っていた。どうやり直そうかと考えていると、青年は突然ニヤリと笑う。男だというのに、やたらと妖艶な表情だが、その口からは、
「ふるさとあらず、ペニス孤独、脚がないので、待ちぼうけ」
 と下品で拙い即興詩が飛び出す。呆けて、しばし考えてようやっと、その意味を理解した。
「え? はばかりか?」と訊くと、青年は頷いた。
「看護婦がどっかいっちまって、悪いけど連れて行ってもらえるか?」
 どうやら尿意を我慢していたらしい。銀時は青年の車いすを押して院内のトイレに向かった。青年は、広めの個室トイレに入ると戸を閉める。トイレには手摺が付いていた。
「できるか?」
 と訊くと、戸の向こうから「大丈夫だ」と返答が来る。なんだか可笑しかった。
 銀時は青年の病室まで送ってやることにした。一階の一番奥の病室が青年の部屋だった。病院の匂いというのはどうも独特で慣れない。生まれてこの方、医者に掛かるような怪我や病気をしたことがない銀時は、やたらと新鮮だった。
「手動車いすってのが、最近出始めてるみたいなんだが、まだ廻ってこないんだよな。おかげで人の手を借りなきゃなんにも出来ないんだ」
 青年は忌々しそうに言うと、腕力を使って身体を持ち上げ、ベッドに座った。脚が使えない分、筋肉の隆起する腕だけが、青年の身体で唯一逞しかった。
「戦争でか」
「ああ、まぁな。建物に潰されて、放置してたら動かなくなったんだよ。生きてるだけましか、と今は思ってるんだけど、何かと不自由だぜ」
「それにしてもこの病室広いな。入院患者ってこんな広いとこに住めんの?」
「俺は、親父が政府関係者だから待遇がいいんだ」
 政府、と聴いて、銀時の腹に黒いものが過ぎった。それは、自分でも愕くような感情だった。一瞬、心のどこかで青年に向けて、当然の報復だと思いがじわじわ湧いた。青年は銀時の心情に気付いたのか、控えめに笑みを浮かべて黙り込んだ。銀時は自分を恥じるような、青年を恨むような、釈然としない気持ちに苛まれた。銀時は青年から眼を背けた。病室は一人部屋で、大きな本棚があり、そこに雑多な本が並べられている。銀時が読了した小説もいくつかあった。白いカーテンが外からの風に揺られる。はためいては元の形状におさまる。病室は二人きりで閑と静かだった。遠くで、細く人の話し声が聞こえるが、夜なんかは静寂に包まれるだろう気がした。
「そろそろ行くわ」と立ち上がると、青年はやっぱり控えめに「ありがとう」と礼を言った。
 病室を出てロビィに向かう途中、銀時は青年について考えてみた。きっとあの青年は、銀時が抱いた種類の感情を受け慣れているのだ。看護婦が何処かへ行ってしまった、と云っていたが、あれはひょっとすると、ちょっとした悪意で置き去りにされたのではないだろうか。うっすら後味の悪さを感じたが、それでも、政府の父親を持つのなら脚が使い物にならなくても不自由の無い生活を送れるに違いない、と思い直した。なまじ、教育者などという立場なので国家政府の噂は嫌というぐらい耳にしている。横領、隠蔽、責任逃れ。最も許せなかったのは配給の汚職だ。斉藤寅次朗の東京五人男を映画で視て、嫌悪は一層膨らんでいた。
 生徒の病室をロビィで聞き、二階へ上がった。生徒の病床があるのは大部屋で、六人の入院患者が相部屋をしていた。カーテンは開かれた状態で、銀時が他の患者に挨拶すると皆、愛想よく返してくれた。
「先生」
 照れた表情の生徒の頭を乱暴に撫でる。生徒の病床には花や菓子が並べられていた。千羽鶴なんかも飾ってあり、手紙もいくつか置いてある。
「結構みんな見舞いに来てくれてさ」
 右脚が布で固定されていた。包帯には落書きがしてあって、クラスの何人かの生徒の名前が記されてある。
「おー、入院生活はどうだ?」
「退屈だよ。でも、相部屋の人たちが結構親切でさ、仲良くなったんだ。それに、看護婦さんが結構可愛くてさ怪我してよかったかも」
「おいおいおいおい、羨ましいな、このヤロォー」
 銀時と生徒の会話を聞いていた相部屋の患者がどッと笑った。持ってきた見舞いの品を生徒に渡す。「病室の皆で食えよ」と言うと、生徒は「ありがとう」と云って包装紙を開けた。
「俺の学校の副担任の先生なんだ。菓子もらったからみんなで食べようぜ」と生徒が相部屋の人達に声をかけると、ベッドに集まってくる。元気そうで安堵した。熱心な野球部員だったので、練習から遠ざかり気落ちしているかも、と案じていたのだが、案外平気そうだ。相部屋の人たちや見舞いにくる友人の存在が慰めになっているのかもしれない。
 不意に、先ほどの青年はどうなのだろう、と青年の病室を思い起こしてしまった。広く簡素な部屋だった。見舞いの品や千羽鶴なんてものは影も形もない。花も飾ってなければ、手紙も眼に入らなかった。見舞いに来る人間は居るのだろうか――――――関係ないとは思っても、一人、はためくカーテンを眺めている姿を想像しては、なんだかむしょうに同情してしまう。
 生徒に、学校で会おうな、と言い残し一階に下りて末端の病室に向かった。端に向かうほど、廊下は森閑とする。リノリウムの床は足音を吸収するのか、途中いくつかの病室から機械的な音が聴こえるばかりだった。
 ノックして戸を開けると、青年が倒れている―――――――ように見えて慌てて駆け寄ったが、どうやら倒れているのではなく車いすに這い上がろうとしているところのようだった。青年は銀時がまた訪れたことに驚いた顔をした。
「大丈夫か」
 身体を持ち上げて、その軽さに驚いた。顔には出さぬようにして、青年を車いすに納める。青年は杖を持っていた。おそらくそれで漕ぐようにして車輪を動かすのだろう。室内を見回すが、やはり見舞いの品や花なんかは置いてなかった。病室は水を打ったように静まり返っていた。なんとなく気まずかった。
「名前、なんていうんだ」
 静けさを振り払うようにして聞いた。銀時は博愛主義者ではない。心中には複雑な思いが交差するが、ここに舞い戻ってきたのは好奇心もあったのだろうと思う。青年に同情し、ほんの少し憎み、そして、好奇を抱いた。足が使い物にならないことも気になったし、ずっと一人で居るのだと思うと憐れだった。
 青年は瞬きをして、少し口篭ってから遠慮がちに「土方十四郎」と答えた。
「俺は坂田銀時な、高等学校の教師をしている」
 土方が口元に笑みを作った。
「へぇ、あんた、先生なのか。ちょっと意外だ」
 土方は入院してから今年で六年になるらしい。最初の一年やそこらは戦後のどさくさで慌しく、翌年にちらほらと見舞いもあったのだが、流石にこれだけ入院生活が長いと足が遠のくだろう。それに、退院の見込みはないようなので、見舞われてもな、と土方は苦笑した。
「親父もお袋も忙しいし、こんな時代だろ。お荷物なんだよな、俺。脚が使い物にならなけりゃ仕事にも就けないし、親父の立場的にも息子が半身不随だと聞こえが悪いんだよ。それに、誰も来てくれないわけじゃないんだ。たまに、幼馴染が来てくれるんだ。離れたとこに住んでるけど、決まって毎年来るんだよ」
「本、好きなのか」
「ああ、退屈しのぎになるし、結構好きだな」
「そこの本棚の本、何冊か俺も読んでるから。粋人随筆の類が好きなのか?」
「なんでもいいんだ。月に一度、近くの古書店が売りに来るんだけど、人気あるのは直ぐ売れちゃうからな」
「今度なんか持ってきてやろうか?」
 土方は遠慮とも返上ともとれる顔をして、動かない足をぱたぱたと叩いた。
 
 翌週は修学旅行の引率で、四国に行くことになっていたのだが、洞爺丸と紫雲丸の沈没事故が続いたので広島県の宮島に変更になった。
 ここのところ修学旅行列車やバスの事故も多い。発火性ペイントを積んだアメリカ軍トレーラーと衝突したり、突然バスが火を噴いたりと災害続きなので、見送りに来る保護者に生徒は出征かと思うような仰々しさで暫しの別れを惜しんでいる。北海道のある小学校では修学旅行に備えて避難演習をしているらしい。しかも、避難訓練に教員が「総員退避!」と叫んだりする。抜けていないのだ、と実感したりした。
 八人掛けでも足りず、通路に直座りする満員詰めの列車では、生徒は命綱を握っている始末で、さらには不寝番も交代で行っており、生徒の顔は戦々恐々だ。銀時の後ろに座っている生徒はお守り札を握り締め念仏を唱えている。この子達はもしかしたら修学旅行で生きることの難しさを一番に学ぶのかもしれない。救命具の着け方を学ぶ生徒の表情は、日頃の授業を聞くよりも真剣だった。
 銀時が何より参ったのは、二日目のバス移動で急カーブ続きのうねり坂をボンネットバスに揺られ続けたことだった。重力をもろに感じて、吐瀉袋を手放せなかった。生徒は悲鳴すら出ない有様である。運転手は身体を捻ってハンドルを操作している。ハンドルが抜けそうである。怖い。頭の中でずっと「禿山の一夜」が鳴り響いていた。橋が壊れている道路では、一度バスを降りて人が渡りきってからバスが渡り、また乗る、という面倒くささである。
 先を突っ走って日々変わり行くのは都心だけで、地方は一歩も進めない場所も多くあることを学び、きっとこの先も東京に地方が追いつくことは無いのだろうな、と漠然と思った。
 銀時は顔色を悪くしながら、東京に帰ったらこの旅行を土方に話そうと考えていた。面白おかしく話して、ちょっとの脚色を加えてでも、笑わせてやろうと思った。結局、あの日は日が暮れるまで病室に居座った。土方はただ銀時の話しを訊いているだけだったが、帰れとは一言も口にしなかった。銀時は密かに、土方はひっそりと風に揺られる花麒麟のようだ、と思っている。土方と話している時、下宿先の庭に咲いている四季を渡り通す紅い花が思い浮かんだのだ。窓ガラスを振動させる航空機の爆音を聞くたびに身体を硬直させるのが、なんとも言えない気持ちにさせた。銀時は話しているうちに、土方の眼が好きになった。節々に陰を感じるのだが、その影の掛かりようが好きであった。不幸めいていて、それでいて、決して薄幸ではない眼差しが気に入った。身に纏う奇妙な落ち着きも、控えめな所作も気に入った。美しいとさえ思ったのだ。庇護を求めないばかりか、無言で同情や憐憫を突き放すような性根も銀時と同調した要素だった。土方という人間が面白いと思った。
 銀時はこの旅行を良く覚えておこうと、行く先々で記憶に残る風景を焼き付けた。遠くへ行くことのできない土方に聞かせてやりたかった。風に靡く広いイグサ畑の美しさや秋の宮島の美しさ、それに大鳥居の浮かぶ瀬戸内海の潮の干満の差の大きさ。電車内で一夜を明かしたこと、小柄な生徒は網棚の上で寝ていたこと。こんな世相の中でも逞しく元気に子供は走り回っていること――――――。銀時は子供の笑顔を見るたびに、戦争が終ったことを実感する。不安定な銀時の世界は、そういった一つ一つの小さい希望になんとか支えられてきた。
 宿泊先の旅館にある蓄音機から「りんごの歌」や「東京キッド」が風にのって銀時のところまで流れてくる。口ずさみながら、縁側に座り空を眺める。ビール片手にほろ酔いで、生徒の部屋の視回りをさぼってふわふわと笑う。日頃は口うるさく厳粛な他の教諭も各々好き勝手に飲んでいる。叱られることはまず無いだろう。女給がぱたぱた通る縁側に座っていると、人気が濃くて安心する。息遣いや話し声が自然と耳朶を擽る。遠いところに来ても安心して過ごせる時代は幸せだ。これからは幸せな時代が来る。きっとあんな大々的な悪夢はもう暫くは来ない。懲りているのだ。本当に、もう懲りた。銀時はズボンのポケットから黄ばんだ紙を取り出した。二十三歳で比島山中に消えた竹内浩三の鈍走記を抜き出し書いて持ち歩いている。

 〜おれは、ずるい男なので、だれからもずるい男と云われぬよう極力気を配った。
  
 なぜが「骨のうたう」よりも好きだった。この一節がむしょうな慰めだった。竹内浩三は昭和十一年、中学三年の頃に回覧雑誌「まんがのよろずや」を友人と発行している。銀時は目を通していないのだが、この「まんがのよろずや」という題名が好きで、とくに「よろずや」という言葉が気に入っていた。教育職を辞めたら、漫画のような面白おかしいよろずやを生業にするのもいいのかもしれない、と本気で思っている。竹中に感化されたのかもしれない。天性の無邪気さで、どこにでも面白いことを見つけられた竹中浩三の文章は、教員資格を取るために奔走した銀時の血となり肉になっていた。
 これからは自由なのだと思うと、背中にはぽかりとした空虚な穴が忍び寄って、目前にはどこまでも高い果ての無い宇宙がある気がする。背筋には悪寒が、腹には昂揚が不思議な具合で同居している。
 星の綺麗な夜だ。日本で仰ぐ、日本の星の綺麗な夜だ。顔を出したのは上弦の月。明日は東京に戻る。
 もう一つ、竹内浩三で好きな一節がある。

〜お前の生まれたときは、お前の国にとって、ただならぬときであり、お前が育ってゆくうえにも、はなはだしい不自由があるであろうが、人間のたった一つの務めは、生きることであるから、その務めをはたせ

 脚が使えなくても、絶望ばかり見てきても、生きている。ビールは美味いし、そうそう夢に悪夢ばかりもみなくなってきた。何時の時代も大なり小なりやり切れない事は沢山あるだろう。そういう事に遭遇しても、後に美味いビールが飲めるのだ。銀時はぐいっと一気に呷ると眼を閉じる。四肢が弛緩する。陽気になって一人、歌う。
「ありゃピンボケだ、こりゃピンボケだ、みーんーなピンボケだ」
 季節は、秋である。

 戦争終結直後は物資の不足で、娯楽用出版物は故紙や砕木パルプなどを原料としてつくられた屑紙を漉き返した、質の悪い紙で作られていた。これを、紙のカスをとって作られたのでカス・トリ紙と呼ばれ、また粗悪で、たいてい三号で休廃したことから、「三合飲むとつぶれる」といわれたカストリ酒にかけてもそう呼ばれた。最も、このカストリ酒は工業用アルコールを酒の中に混ぜたものが出回り、それを飲んだ人が失明する事件も多発していた。酒も少ない配給で辛抱せねばならなかったのだ。呑まないとやり切れない気持ちは銀時にもよく分かった。知人の中には失明するかもしれないことを承知した上で呷るものもいた。
 大抵、カストリ紙またの名を仙花紙で作られた大衆向け娯楽雑誌はエロ、グロ系の内容が多く、出版された何冊かは、わいせつ物頒布罪で摘発を受けたりもしている。銀時は赤線区域を題材とした色街探訪記系の何冊かを所持している。赤線区域はGHQによる公娼廃止指令が下されても、半ば公認で未だに売春が行われている。昔の吉原のようなものだ。
 安価で粗悪だと専らの悪評のカリスト雑誌だが、艶笑本はなかなかに面白いのである。物資が足りないのにも関わらず、手に入る範囲内で作られた装丁や挿絵にむやみやたらと気合が垣間見れて、いっそ爽快な気分になったりする。それを数冊と川端康成と織田作之助の「清楚」と「二十歳」という小説を持って土方の病室に顔を出しに行った。
 土方は病室で目を閉じていた。規則正しい寝息を立てて、埃がキラキラと舞う日の光を浴びていた。カーテンが中途半端に開いていて、そこから真っ青な空が覗いている。寝台の直ぐ傍まで来て枕元に風呂敷に包んだ雑多本を静かに下ろし、丸椅子を引き寄せて腰掛けた。隣の病室からだろうか、榎本健一の「洒落男」が聴こえてくる。銀時は端正な寝顔を見せる土方の両方の鼻の穴にちり紙を差し込みたくなった。きょどきょどと見回すと、調度、本棚の脇にある台の上にちり紙の束があり、一枚手にとって裂くと丸めて土方の鼻の穴に恐る恐る突っ込んだ。むず痒いようで、寝ながらに眉を顰める土方が面白くて噴出す。慌てて口元を押さえて、自分の額を二度手の甲で叩く。起きた時、どういった顔をするのか、わくわくした。怒るだろうか、笑うだろうか、呆れるだろうか。
 それにしても、青白く痩せこき過ぎだと寝顔を眺める。軽く閉じていた唇が鼻を塞いだことによって少し開く。ちょうど、指を突っ込めるぐらいの隙間が開いた。銀時は、その隙間に指を差し込みたくなった。人差し指をそろりと突き出し唇に触れぬよう慎重に土方の咥内に侵入する。温かい息が当たって、震えそうになる。第二関節まで入ったところで、舌に触れた。土方が流石に目を覚まし、唇を閉じた事によって指が咥えられた。銀時を見つけて瞬きをすると、指を咥えていることに気付き、眉を顰め、鼻にちり紙が差し込まれていることに気がついて、眉が吊りあがった。銀時はニヤニヤした。
 顔を振って銀時の指を払い、鼻からちり紙を抜くと恨めしそうに睨んでくる。
「何してんだ、馬鹿」
「ちょっとした悪戯をね。気持ちよさそうに寝てたから」
「お前が馬鹿なことしなければ気持ちよく目覚められたのにな」
 そう言うと、土方は少し笑った。呆れたような笑いだったが、銀時は嬉しくなった。
「今日は本、持ってきたぜ」
「本当に来るとは思ってなかった」
「ついでだよ。二階で俺の生徒が入院してるんだ」
 土方は銀時の持ってきた風呂敷を解いて、表紙に目を通し始めた。心なしか、機嫌が良さそうだった。
「助かる。退屈だからな」
「退屈だと思って、ちょっと話を仕入れてきたから聞いてよ」
「なんだよ」
「先週さ、修学旅行に行ってきたんだよ。俺は引率な」
 土方は前回と同様、少し目を細めて穏やかな表情で銀時の話を聞いていた。時々、小さく笑ったり鋭い切り返しをしてくるのが面白かった。前回よりも土方が少し近くなった気がした。土方のことを控え目だと思っていたが、それは少し違うのかもしれないな、と銀時は感じた。 
 日が傾き始めた頃に土方の病室を出て、生徒に会いにいった。生徒は銀時がまた見舞いに来た事が意外だったらしく、
「先生また来たの?」
 と目を丸くした。
 次の休日も銀時は土方の病室に訪れた。学校での出来事を話して、近所で新しく開店した店や、変わる景色、歴史談義を楽しんだ。土方は織田信長が好きらしく、戦国時代の話では遠慮のない論戦を繰り広げ、それもまた銀時には痛快で、土方と赤提灯の飲み屋で呑んだら楽しいだろうに、と思わせた。
 休日に何度か通ううちに、生徒はすっかり退院した。口実がなくなっても土方の元に顔を出した。土方も薄々感づいているようだったが、その事を口に出すような事はしなかった。土方との距離は益々近くなっていった。何も喋らないで二人で居ても、特に気を使う必要も無かった。土方は催促こそしなかったが、言外に次の訪問を望んでいることを匂わせていた。だが、銀時は少し不満だった。また来いよ、の一言がいつも欲しかった。

 下宿の壁は薄い。隣の部屋の様子は手に取るように分かった。その日、隣の部屋からは男と女の声がした。銀時の隣室はずっと空き家だった。今日、入居者が入ったのであろう。
 女は歌を歌いながら、台所で硬いものを切っているようだった。小気味の良い音が均等の感覚で聴こえてくる。男はこちらが恥ずかしくなる言葉で女の歌を褒めた。女の声は線が細く、照れて「やだわ」と返す。
 衣擦れの音がした。包丁の音がやんで、女の短い可憐な悲鳴が聴こえた。
 セックスは女が男から命を貰う行為だと気付いたのは戦中だった。抱いて欲しい、と当時付き合っていた女はあの日、銀時に懇願した。銀時は女を抱いた。
「生きて帰ってきて、必ずよ」
 涙に濡れた女は美しかった。だが、銀時は答えなかった。
「待っているわ。必ず帰っていらして」
 銀時は女の秘部をなぞりながら、ずっと目と口を閉じていた。女は喘ぎながら、頑なな銀時を詰った。
「なぜ、答えてくれないの、なぜ、約束をしてくれないの」
 帰るよ。日本は勝つ。そう言えばいいものを、銀時は返す言葉を持たなかった。女は声を上げて泣きながら、ずっと「なぜ」を繰り返していた。行為が終わった時、女のことを本当に愛していたのか、分からなくなった。全ての感情が掌から砂のように抜けていくような空虚な感覚を味わっていた。翌朝、銀時は背を向けて寝ている女に何も言わずに立った。もしかしたら女は、銀時の気持ちを全て感づき、気付かない振りをしていたのかもしれなかった。
 それ以来、女の消息は知れない。
 隣室から漏れる情事の音は、万年床に寝転ぶ銀時の耳に纏わりついてきた。女の喘ぎ声も、男の獣のような呻きも、滴る音も全てが明け透けだった。銀時はなぜか、土方を思った。あの脚で、どうやって女を抱くのか。無理だろう。いくら見目がよくとも、今の時代に土方を抱えることの出来る女は滅多にないだろう。あのままずっと病院暮らしなのだろうか。土方も女を抱いて呻くのであろうか。土方の愁眉な容子は、余程、艶めくのではないだろうか。銀時は土方に咥えられた指を目の前に翳して、それをおもむろに口に含んでみた。
 皮膚の無味乾燥な味がした。
 どこか禁欲的のも感じる土方の身体の線は細めだろう。肌の色は青白いくらいである。体温は低く思われた。
 銀時には、思う女がいる訳ではない。女房も控えてはいない。縁談はあるにはあるが、さほど興味も湧かなかった。しかし、独り寝は妙に侘しい気にさせる。人間というのは実にけったいな生き物だ。寂しさと鬱陶しさが同居し、それでも誰かの温もりを欲する。だが、温もりも過ぎれば真夏の暑苦しさに変わる。
 土方の温度の低さが調度いい気がした。銀時の食指は土方に動いていた。二重瞼に切れ長の目元、すっと尖った高い鼻、口元にはしまりがあり、都会の埃にまみれたような眼つきは散文的だが、決して乾ききっているわけではない。隣室の湿った情事の声色と、銀時が土方に抱く思いの差は清潔さにあった。銀時は、この清らかな気持ちを持っている自分が、照れくさいような、生きているよう、なそんな気にさせた。
 銀時は翌日の午後、空いた時間に神保町の喫茶店に寄った。戦後五年経ってから開店したこの店は装に使われている松や杉が店内を落ち着いて和ませて、壁のレンガが重厚で、温かみのある雰囲気を醸している。中央に置かれているストォブは西洋からの輸入品なのだそうだ。瓶の形をしていて、下方中央にちょっとした空洞があり、ぼうぼうと薪が燃えている。
 席に腰掛て『肉体第一号』を珈琲を啜りながら目を通していた。坂口安吾の「桜の木の満開の下」を読んで、深い消失感に襲われた。「救いがないということ自体が救いである」とはいったいどういう事か。孤独は人間の本質だ。それは合点している。あらゆる自然的流動に身を任せてしまえばいい、とそういう事なのだろうか。ただ、喪失を感じると同時に安堵する心地も無いではなかった。救いがない事柄というのはいったい何を指すのだろう。政治か労働か人間性かそれとも、恋か情愛か。いや、ありとあらゆる全てであろう。
 店内は閑散としていた。レコードからは江利チエミの「テネシーワルツ」が流れている。銀時が目頭を揉み、凝り固まった肩を関節から回し背を伸ばした時、ドアに掛かった鈴が低く音を立てた。何とはなしに視線を向けると、着古された外套を身に纏った男が入ってきた。なかなかに恰幅がよろしい。帽子を脱ぐと店内を見回した。初見の客だろう。なんとなく、銀時はその男を見つめたままでいた。男は銀時の視線に気付いて、揉み上げの辺りを掻くと、人好きするような、人懐っこい笑みを見せた。
「お前、坂田銀時だろう」
 喜悦を含ませて、銀時の向かいの席に座り「覚えてないのか、サイパン島で」と男はもどかしそうにして「近藤だ。近藤勲だよ」と名乗った。
「ああ」と銀時は気の無い返事をした。
「久しぶりだな。元気だったか」
 まるで知己の友人を相手にするような態度だった。銀時は確かにこの近藤とサイパン島で会っている。だが、部隊が違ったし、一夜だけの知り合いである。近藤と知り合った夜、襲撃を受けて―――――――――――。
「まぁ、どっちかといえば元気だよ」
「そうか」
 近藤は銀時の態度を物ともしていないようだった。底抜けに鈍いのか明るいのか、放っておくと戦場の想い出話に咲かすような真似をするのではないか、と危ぶんだが、そんな事は一切なかった。
「この辺に住んでいるのか?」
「そう。下宿がこの辺で職場も近いんだ」
「俺も最近上京してきてな。縁故の伝手で、石油の下請に就職が決まったんだ」
「この辺なのか」
「おう、そうなんだよ。それにしても都会は人が多くてなぁ、電車になかなか乗れなくて弱った」
「下手したら輪タクの方が早いからな。何か頼めばどうだ?」
「ああ、そうだな」
 不純物の一切混じらない、明るい表情で近藤は珈琲を頼むと、店内を見回して頻りに「洒落た店だなぁ」と感心していた。日の光を直接浴びることすら気後れしそうな銀時にとって、近藤の明るさは最初、凶器のようだった。途方も無い場所に連れ去られるような怖さを孕んでいた。だが、明るい場所は慣れるのだ。次第に、凝り固まった気持ちが解かされていくような気がした。何か、眩しいような気持ちで近藤の笑顔を眺めた。目を細めている自分に気がついたとき、土方も、近藤に最初正体の知れない怖さを感じた銀時のように、銀時のことを恐れたのかもしれない、ふと思った。
「お前、東京は長いのか」
「戻ってきてからはずっとこっちだよ。いろいろあったが、今は学校教諭だ」
「へぇ、それはさぞかし大変だっただろう」
 銀時は苦笑した。大変じゃない人間なんて、果たしていたのだろうか。
「長いなら、ちょっと聞いてみるか。実はな、人を探してるんだ」
「おいおい、東京つったって広いぜ。それに、学校外での知り合いなんてそんなにいねーよ」
「そのうちどっかで会うかもしれないだろ。とりあえず、頭にだけ入れててくれよ。そいつは俺の悪友であり親友なんだ」
「あんま当てにならないと思うけど、名前は」
 うん、と頷いて、懐かしそうな顔を近藤は浮かべた。懐かしさは孤影悄然の趣を感じる。戦後もう年月が経っている。生死を未だに知れない人が生きている確立は少ない。近藤も分かっているはずだった。
「土方っていうんだ。土方、十四郎」
 銀時は持ちあげた珈琲カップをそのままに、「桜の木の満開の下」の『これはおかしいと考えたのです』という一節が、まるで黒い珈琲に混ざり始めたミルクが渦を描くかのように回転する奇妙な感覚に陥っていた。

 土方は呆然として、近藤を凝視している。
 銀時は近藤を眼中に留めたときから、全く微動だにしない土方を複雑な気持ちで眺めていた。近藤を土方に引き合わせたのは、週末の午後だった。風が強く、塵や埃が舞う日だった。髪の毛は乱れて、眼にゴミが頻りに入ってきてたまらなかった。近藤は早く土方に会いたがったが、銀時が了承しなかった。仕事があったし、なぜか近藤を土方に早急に合わせるのが厭な気がしたのだ。
 近藤は大股で土方に歩み寄ると、肩に触れ、頬に触れ、強く抱きしめた。近藤の肩越に見える土方の表情は、歯を食いしばり、瞼をきつく閉じていた。土方の腕が近藤の腰にまわった時、銀時はなぜか心底、安心した。短い付き合いではあるが、土方が過去に関わって、信頼を寄せている人間に拒絶されたら心が折れてしまうことを銀時は分かっていた。おそらく土方も戦地に赴いたのであろう事は、薄々感づいていた。何があったかわからないが、戦場を生き抜いて、両足の機能を失ったのだ。
 銀時は背を向けた。もしかしたら土方と出会ったのは、近藤と土方を繋ぐためだったのかもしれない。神や仏などは信じないが、往々にして偶然が重なり、奇跡的な偶然が沸き起こることもあるのだ。何かに導かれるみたいに。銀時があの戦場で最後まで生き残ったように。
 戸を閉める。薄いので、去り際に、二人の声が聞こえた。
「なんで連絡一つしなかった」
「ごめん、近藤さん、ごめん。失うのが怖かった。会うのが恐ろしかった」
 銀時はひどく穏やかな気持ちだった。口元に緩く笑みを浮かべながら土方から遠ざかる。ズボンのポケットに手を突っ込み、口笛を吹いて廊下を歩く。最早、あの過去は夢のように感じることもある。銃器を捨てて捕虜となり、帰還船で横浜港に着くまでの奇妙な浮遊感。まるで、地に足が着いていないようだった。昭和二十二年の秋だった。漸く祖国の地に足を踏み入れたとき、体中か溶けてしまうかのような怒涛の疲労感に襲われた。
 土方と出会って、一つ自分に区切りがついたようだった。土方の存在が、銀時の区切りだった。きっとこれから前に進める気がした。
 右のポッケにゃ 夢がある 左のポッケにゃ チュウインガム
 美空ひばりの「東京キッド」の歌詞の好きな個所を口ずさみながら、病院の門を抜ければ、強い砂塵を含んだ風に煽られる。銀時は前を見据えて、力強く一歩を踏み出した。

 その後、銀時は土方の病室には行かなかった。
 近藤と落ち合った喫茶店にも顔を出さなくなった。それは銀時の中での不思議なほど頑ななけじめだった。月給を貯めて資金を集めたら教員を退職し、自由気ままにまんじやを開業させようと、それだけを目指して邁進していた。その矢先だった。銀時の勤めている高校に近藤が乗り込んできたのは。教員室にずかずか入り込んできて、銀時を見つけるなり「ちょっと来てくれ」と強引に腕を引っ張った。
 呆気に取られる他の教員など眼に入らぬのか、近藤は銀時の了承を得ぬまま、強引に連れて行こうとする。
「おい、ちょっと待てよ!」
「いいから、来てくれ。話は後だ」
「このあと授業がある。困るんだ」
「俺も困るんだ。あいつはもっと困ってるんだ」
「あいつって」
「トシだよ」
「なんで土方が困るんだよ」
 教員室を出た廊下まで銀時を引っ張り出して、近藤は腕を放さぬまま振り返った。
「お前が会いに来ないからだ」
「な、そんな事・・・・・・俺は・・・」
「聞けば、毎週週末に会いに来てたそうじゃないか。もう四ヶ月も経ってんだぞ。一度ぐらい見舞いに来れるだろう」
「俺の勝手じゃねぇか」
「あいつは、一人で移動できねぇんだ。お前が来るのを待つことしか出来ないだろ」
「だから、俺は!」
「いいから」
 銀時の抗議などお構いなしに、近藤は大股で歩いていく。正面玄関を出て内履きのまま昇降口を出ると、杉の木が立ち並ぶ往来の中央に車いすに座った土方が一人そこで佇んでいた。
 銀時は息を呑む。咄嗟に振り返ると、近藤はもうそこには居なかった。
「土方・・・・・・・・・」
 土方は照れたように笑うと、突然身体を前に傾けて、車いすから転がり落ちる。
 銀時が慌てて駆け寄り、その身体を起こすと、土方は銀時の助けを借り、起き上がりながら肩を掴んだ、そして、真っ直ぐに銀時の目を見つめた。澄んだ色をしていた。銀時が好きになった眦だった。
「俺は、一人じゃ歩けないんだ。もう、独りじゃ、無理なんだ」
 銀時は唇を噛んで俯き、そうか、と呻くように、口にした。







 





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