恐怖が胸に昂ぶった。
 すべてを飲み込んだ闇の間にいた。空間も時間さえも超越した果てのない闇が目前を覆っていた。呼吸は逼迫して苦しく、そして、際限ないほど孤毒だった。恐怖は喉に詰まり、手足を絡め、もはや沖田ミツバをも呑み込みそうだった。誰かを喚ぼうにも、喉が震えない。苦しさに藻掻いているのに、眼だけが異様なぐらい効いていて、これ以上深くなりようがないかと思われるのに、闇は刻一刻と重たくなるようだった。ミツバはやがては自分もこの闇に同化するのだと悟り、悲痛を感じた。誰もいないこの場所で、場所さえも判然とせぬここで想像さえ出来ない何処かに、はじめから無かったもののように消えていく。永劫の闇へと葬り去られる。もしかすると、消えた先も底知れぬ闇なのかもしれない。徐々に身体から平衡が失われ、少しでも油断すれば奈落の底に落ちてしまいそうになる。足を踏ん張りそれだけは避けようとするが、気力も体力も限界だった。
 悲しくて苦しくて寂しくて、ミツバは自分が一人であることを、誰も居ないことを、苦痛の現状を諦めようとしていた。ミツバはどうしたらいいのか分からなかった。

「姉上、姉上」
 幼い声に喚ばれて眼が覚めた。朦朧とした意識は最初、自分を覗き込む子どもの顔に靄がたち認識しなかった。だんだん頭が冴えてくると大きくて円な瞳を不安げに瞬かせ、ミツバの少しの変化も見逃さんとする沖田総悟の懸命な表情が明瞭になった。
「総ちゃん」
 乾いた唇を動かすと掠れた声だ。名前を呼ぶと弟は今にも泣き出しそうに表情を緩ませて「よかった」と呟いた。
 縁側に面したこの部屋は襖で締め切られている。襖が明るく発光しているので、夜が明けて陽が射す時刻になったことを知った。昨夜、咳が止まらなく、呼吸も苦しくて病に追い立てられるように身を横たえた。そこからの記憶が抜け落ちている。布団に入った記憶が無いのに、寝具の内側に収まっていた。誰が運んでくれたのか。まさか、小さい弟一人では難儀だろう。近藤勲か、土方十四郎か、あるいは試衛館の誰かが手伝ってくれたに違いなかった。
 弟はどれぐらいここにいたのだろう。どれほど心配してくれたのか。申し訳なくも愛しくて、両手を伸ばす。柔らかい頬を包むと、とても温かかった。
「ありがとう、総ちゃん」
 身体の何処にもたいした力が入らない。手を挙げることすら難儀だった。慧眼な弟に見透かされないように努めて平然を装ったが、弟はミツバの手を上から包むようにして支えた。
「すごく魘されてたから、心配していたんです。怖い夢でもみたんですか?」
 いつからか総悟は、ミツバの病に関係する全てのことを口にするのを躊躇うようになった。どんなに努力しても願っても情け容赦ない敵に真正面から向き合うことを総悟は恐れていた。
 ミツバは微笑み「覚えてないのよ」と応える。厭な夢を見ていた気がするが、記憶は跡形もなく霧散していた。
 土方十四郎が訪ねてきたのはそれから半刻ばかりである。勝手知ったる家なので、中庭から「総悟、遅刻だぞ」と喚ぶ。なかなか道場にやって来ない総悟を迎えに来たらしい。ミツバは自分の頬が複雑な感情で火照るのを感じた。総悟は姉の変化が面白くなく膨れっ面をすると随分と荒っぽい動作で立ち上がったかと思えば、勢い良く襖を開いて「今日は行かねェよ」と怒鳴り舌を出した。
 ミツバの眼に開け放した鮮やかな景色が飛び込んできた。もう季節は晩秋で、紅葉が散りはじめ唐松も濃い色に染まっている。土方はどんな季節にも馴染み、ミツバの胸を熱くする。
 悪態を付く総悟に年上の人にそんな言葉遣いしたらだめでしょうと戒めなくてはならないのに、可笑しさがとまらない。どうにも弟は土方に素直になれないでいる。一生懸命の罵りに土方がどこか揶揄う風なのがまたいけない。総悟はとにかく土方の顔を見れば突っかからないと気がすまないらしい。対する土方は土方でいなしたり、たまには喧嘩を買ったり、巫山戯て茶化したりと総悟の血気盛んな様子にいちいち付き合っては一寸気にかけてる様子だった。土方は出会った頃はもっと荒んで、まるで世の全てが仇的であるかのように凶暴な瞳をしていたのに、随分と変化した。無愛想は相変わらずだが瞳に不思議な色彩が浮かぶようになった。中性的な顔立ちだからこそ、振れれば途端に斬られる刃物みたいに冷たい印象だったが、試衛館の近藤と馴染むうち、少しずつ角が剥がれ落ちていった。
「ミツバ、また体調崩したのか」
 素っ気なくも心配した風でもない平坦な声だった。まるでそこにあるものを読み上げるように土方が言った。ここ数年、ミツバは体調の思わしくない日が増えている。総悟は認識したくないから敢えて触れないでいるのに、土方は事実を事実のまま口にする。案の定、総悟は激高した。
「うるさいッ! お前には関係ないだろ」
 土方はいつものようにさらりと受け流し、何かを会得したような顔をすると踵を返した。なぜだろうか、一つも迷いがないまっすぐな背中だと、去っていく後姿にミツバは得も知らぬ感慨を抱く。臥しているからだろうか、壮健な肉体は殊更大きく見えた。
 ぶつくさ文句を垂れている総悟の後ろ姿を見て、ますますミツバはおかしくなる。試衛館には行かないと啖呵を切ったのに、総悟は最初から稽古着を身に着けていたのだ。
「総ちゃん、一流の剣客になるのでしょう」
 総悟が振り向く。諭すようにミツバは語りかけた。
「目指すものがあるのなら、一日も修行を怠ってはいけないわ。行って来なさい」
「でも」と総悟は不安そうな顔をする。
「私はもう大丈夫よ。総ちゃん」
 総悟はおそるおそるといった調子で、だが、瞳が爛と輝く。
「本当に大丈夫ですか」
「本当よ。それに、あんな乱暴な言葉使ってはだめでしょう」
「違います、姉上。戦でいう詞戦の練習です」
 ミツバは一瞬呆気にとられ、弾かれたように笑ってしまった。
 勢い良く駆けていく弟の背中を見送って、ミツバは「剣術」と口の中でその言葉を転がす。弟は本当に剣術が好きなのだ。朝から晩まで、竹刀を握って走り回っている。ミツバには剣術の魅力はわからない。それが一寸ばかし悔しい。思えば試衛館の人達は剣術というまるで実態のないものに惹かれ、そして己の腕を切磋琢磨して磨きながらもあの場所に集っている。実直で豪胆な近藤、寡黙だが喧嘩っ早い土方、人一倍負けん気が強い総悟、萎びた風情だが年長者らしい井上、酒豪で滅多なことに動じない永倉など個性的な男たちは誰一人、群れるような性質ではない。なのに、そこにいる。お互いにおぶさり合うわけでも、手に手を取り合っているわけでもない。単純に愉快だから肩を並べている。
 いつか総悟が興奮気味にこんなことを言った。「姉上、剣術は本当に面白い。今日はじめて組手をしたんですが、木刀を握るでしょう。そして相手に狙いを定める。そうすると、周囲が全く見えなくなるんです。いや、違うな、見えてるんだけど、木刀とひとつになって為すべきことだけが見えるんです。あれは本当に不思議な感覚だった。倒すべき相手との距離がとても近くに感じられて、空気さえも操っているような感覚がするんですよ。何か特別な空間に入りこんだような、自分が動いているのに自分じゃないような感覚もするんです。身体が軽くて、体重なんてないみたいな気がしてくる。終わってみると本当に一瞬で、でもよく視えるんです。身体が直感的に動くんです」
 何も余計なことを考えず、何か一つに心の底から夢中になれることがどんなに素敵なことか、ミツバは総悟を通して、度々考えてきた。男たちは確かに輝いていた。ミツバはそんな彼らを見ているのがとても好きなのだ。
 臥したまま緩慢に両手を持ち上げる。空間で正眼を構えてみる。「エイッ」と木刀を振る真似をして、総悟が体感した世界をなぞろうとした。
「なにしてんだ」
 その声にミツバは慌てた。土方は相変わらずに無表情で、すぐに縁側に腰掛ける。ミツバが彼の表情を正面で見たのはほんの一瞬だった。
「加減はどうだ」
 起き上がろうとすると「寝てろ」と土方が制した。
「我慢すっと身体に毒だぜ。体調悪い時は素直に病人やってろ」
 土方は中庭の柿の木を見ながらぼそぼそ言葉を落とす。土方はいづだってミツバの表情を決して正面から見ようとしない。いつもこうやって用があるときは背中越しだ。だから自然、ミツバはいつも土方を追いかけているような心地がする。
 なにやら懐に手をいれた土方がミツバの手元に何かを放った。緩い放射線を描いて落ちたものを手に取ると包紙だった。
「薬だ。養生しろよ」
 それだけ言うと立ち上がり、振り向かずに歩いて行ってしまう。ミツバが呼び止めても彼は止まらずに半端な高さの石垣をひょいと身軽に飛び越える。忽ち姿形が視えなくなった。慌てて礼を叫ぶが、耳に届いたかはわからない。
 残されたミツバは紙包を胸に押し抱き、夢見心地で眼を閉じた。

 昨夜は霜夜だったが、今夜は雪が舞った。
 病み上がりの身体だが、この日は随分と加減がよかった。近藤、土方、総悟は出稽古の帰りで、沖田家に寄って長話をしていた。その時にちょうど降りだした。総悟が子供らしく、いの一番に表に出て「寒い」と笑い声を上げている。根が純真な近藤も「どれどれ」と総悟の隣りに立って二人は揃って天空を見上げた。こういう時、まず進んで飛び出すのが総悟で、それに続いて近藤が腰を上げ、土方はそんな二人を眺めていることが多かった。ミツバは何気なしに土方の顔を伺うと、思わず声を漏らしてしまいそうになった。すんでのところで口元を抑える、土方は、今まで見たことのないような優しい表情で近藤と総悟を眺めていた。なにを考えているのか分からないところがある青年である。表情は乏しく無愛想で、普段はあまり感情に起伏を感じさせない。そんな土方が、二人を見て微笑んでいた。
 淡雪は地に落ちた瞬間にその姿を透明に変える。そんな清らかさが近藤と総悟を包んでいた。行灯の橙色の明かりが優しく揺れている。暖を取るための火鉢から枝を折った音がした。
 土方は壁に寄り掛かり随分寛ぎながら手酌で酒を汲んでいる。僅かに傾けてゆっくり味わうように、この瞬間に心底幸福を感じているようにも見えた。
「トシも来いよ」
 しかし、近藤が向いた時には土方はいつもの調子に戻っていた。
「やだよ、寒ィ」
「近藤さん、あんなバカはほっときましょう」
 ミツバは土方は何を見ているのだろうと常々考えてた。ずっと遠くを見ていて、いつかここが窮屈になりすべて捨て去り忽然と姿を消してしまうのではと危ぶんでいた。しかし違ったのだ。土方の居場所は案外近くにあった。武州とか多摩とか試衛館とかそういう括りではなく、もっと不動で普遍的な処こそが彼の選んだ場所だった。総悟と近藤の様子を大切なものを見る瞳で見つめている。それは決して揺るがない。きっとそこに自分は入っていないのだと思えば胸が少し傷む。自分ひとりだったら、おそらく土方はここに留まらなかった。俯くと「オイ」と土方がやはりこちらに視線をくれないでミツバに語りかけた。
「総悟は大きくなったな」
 確かに、ここのところ丸みを帯びていた顔付が締まってきている。背も伸び、筋肉も逞しくなってきた。
「男の子は発育が女の子と比べて遅いって言うけど、成長しだすとあっという間ね」
 近藤と楽しそうにしている総悟は、きっとそのうち自分の元から離れていってしまう。ミツバはそれをいつの間にか当たり前のことと思うようになっていた。ほそぼそと農業や内職、僅かばかりの父母の遺産と親類縁者の慈悲で生計を立てている沖田家に総悟は縛られてはならないし、男として職を探さなければならない。その刻はとうとう目前まで迫っている。親戚筋から奉公先の話も持ち上がっていた。
「アイツは剣の天才だが……それ以外、なんも出来ねェだろうなァ。丁稚なんかにゃ生意気すぎて向かねェし、存外手先は器用だが職人っていう性質でもねぇ。やっぱり、刀握ってんのが一番しっくり来るな……」
「近藤さんとどこまでも歩いて行く道を夢見ていて、それ以外のことなんて眼中にないのよ」
 土方は押し黙って何かを思案するようだった。そして、本当に小声で「そろそろ、決めなくちゃなんねェな」と自分自身に確認を取るように言った。
 ついこの間まで秋虫が胸に染み入るような心地良い鳴き声で庭のあちこちに存在していたのに、今は静まり返って森閑としている。あの虫達はどこに隠れてしまったのだろうか。これからは本格的な冬が来る。そして、冬が過ぎれば春が到来する。
 ミツバは春がくるのを何故か怖いと思った。
 冬の合間、気紛れのような小春日和に近藤の義父で元天然理心流の道場主が訪ねてきた。隠居の身の上だが三度の飯より剣術が好きで、よくぶらりと道場に立ち寄っては面白そうに稽古場を眺めている。眺めるだけで、木刀を振ることも、口出しすることもなく、勲が切り盛りする道場を安心して見守っていた。
 中庭からふらりと現れ、ちょうど洗濯を終えたミツバは招き入れて茶を用意した。近藤の義父は美味そうに啜りながら、総悟がいつの間に植えていた中庭の矢竹を見遣っている。
「前に進もうとする若いのをみると、なんだかこっちまで疼いてくるようだよ」
 開口一番そう言うと呵呵と笑った。そしてミツバの体調を気遣うことも忘れはしなかった。
「近藤先生、剣術ってのはそんなに夢中になるものなんですか。女の私にはいつも不思議なのよ」
 剣術で生計を立て生業としてきた者に些か不躾な質問だったが、昵懇な間柄にいつでも胸の裡にあった不思議を吐露した。
「そうさなァ、弾に萬法帰一なんてのがあるが……あれが一番しっくり来るか。ある若い雲水という僧が老僧である趙州に問うたそうだ。「すべてのものは一に帰すといいますが、それでは、その一はどこに行くのですか」と。すると趙州は「わしが青州におったとき、一領の布衫を作ったが、その重さが七斤あった」と答えた。極めたいと励んでも、極がどこにあるか分からぬ。精進しても果たしてそれが正しい方法か分からぬ。何十年修行に励んだとしても、それは全て一に帰してしまう。さすれば無駄なことなのか、そうではない。全ての一刀は無に消え、それこそが無限であり、だからこそ求めてしまう。一はどこに行くのか、考える前に励む。それだけなのだ」
「近藤先生、難しいわ」
 ミツバが笑うと、近藤の義父は大真面目な顔で「そうだな、難しいんだ。だからこそ、奥が深い」と頷いた。
「でも、そうね。好きなものに理由なんてつけるのは野暮かもしれないわ。でも、羨ましいんですよ。あんなに夢中になって、みんなとても楽しそうで」
 実態のない無限なるものが敵ならばミツバは到底かなわない。ミツバは存在していて、彼らの確かだからだ。
「剣術をたまに妬ましく思うことがあるんです。でも、夢中になってる人達が好きなのよ。眺めていると楽しいの。鮮やかに煌めいて。女心って、複雑ね」
 近藤の義父は目を細めた。
「ミツバさん、あんたァ、いい女だね。俺がもう一寸若かったらなァ。修行なんてそっちのけであんたに夢中だったよ。男ってのは全く馬鹿だからね。特にアイツ等はなんだか俺の想像に及ばない至極とんでもないものを目指しているような大馬鹿だから全く、困った奴らだよ」
 何食わぬ顔で笑いながらもミツバは自分の口から出たすべての言葉が真意であって、それでいて虚言のような気がしている。上澄みの綺麗だけの部分を救い上げて、その裏でひどく淀んだものを避けている気がしてならなかった。

 春の息吹はミツバに生気を幾分か取り戻させたようだった。梅が香が匂い立つ。雪が溶けて日差しが柔らかくなった。庭の桜の蕾が日に日に赤みを増してくる。ミツバは縁側で番茶をすすりながら、総悟と土方の喧嘩を愉しそうに眺めていた。春風が髪の毛をなびかせる。小競り合いする声が、柔らかく風にのって悪戯に流れていく。男兄弟のいない総悟にとって、きっと土方は兄のような存在なのだ。土方が現れた当初こそ、近藤の気を殊更引く彼を至極気に入らなかったみたいだが、現在は少し変わってきた。自分には見せない甘えを他でもない土方に見せるようになった。それはとても判かりにくいものだけれど。そして、土方も多少の手加減をしながら相手をしている。度々めちゃくちゃな言い掛かりで突っかかってくる総悟を決して邪険にはしなかった。
 男っていいなぁ、とミツバは思う。一見分かりにくいようで単純で、女では到底及びつかないところで分かり合っているのだ。
 遠くの山々の色合いも新緑に、多摩川の色も透き通る。芽吹きの気配を感じさせる風景は心を浮き立たせる。
 近藤がやってきて苦笑しながらも喧嘩の仲裁をしていたが、結局は自分も喧嘩に加わり、三人の男がじゃれ合っている。ミツバは穏やかにその様子を眺めていた。最近は一つ一つの光景を目に焼き付けなきゃと、そんな事を考えている自分がいる。鮮やかな景色が明日も来るだろうと信じるには、ミツバは病のこともあり猜疑的であるし、実際、いつかはこんなふうに暮らすことができなくなることも理解している。
 日々は無情に過ぎていく。特に春はすぐ移ろう。ミツバもそろそろ準備をなくてはならない。
 暖かくなってくると稽古もより一層気合が入るのか、総悟は頬を上気して夕暮れ時に試衛館から帰ってきては中庭に踊り出て木刀を振っていることが多くなった。剣道に携わっている時、総悟は不思議な光を発する。純真のようで鋭さもある。そして、滑らかだ。総悟と組手したことのある試衛館の門人が口にしていた「アイツは恐ろしいやつだよ。対峙すると空気が凪ぐんだ。なにが起きるかわからない緊張感が漂うんだよ。考え過ぎると一歩も動けなくなるから、下がるか横にいくか、一歩動くだろ、その瞬間にはあっという間に一本取られてる。勝負に感情とか余計なものをいっさい放り込まないやつなんだよ。誰が相手でもなにがあってもそれは変わることがなくて、勝つことしか……いや、違うな。自分の剣を振ることしか考えてねェんだ。あいつとまともにやりあえるのは土方と近藤ぐらいじゃねェのかな」
 剣術の覚えがないミツバでも長いこと稽古現場を見ていれば分かる。総悟の才能は天才的であることを。だからこそ、奉公の話をなかなか切り出せないでいた。親戚からは催促が嵐のようにやってきている。できれば好きなことをして生きて欲しいが、そうも言っていられないのが世の中の摂理である。ミツバが言えば総悟は断らない。将来の道を狭められるという残酷さを総悟はどのように受け止めるのだろうか。
 気合の入った掛け声は将来のことなんて欠片も伺わせない、今だけを見つめる少年のものだった。
 春の午後は強い風が吹く。ミツバは風に煽られながら畦道を歩いていた。両親の残しさ遺産を質屋に入れてきた帰りである。父親は藩士だった。二十二俵二人扶持の下級藩士である。父親が亡くなった時点で、どうにも立ちいかなくなりお家は断絶。それでも、形見の品は少しだけ残しておいた。それを全て捌いてきたのだ。
 少し歩いて息を整えまた歩き始める。そうするのがミツバは癖になっていて、体調が至極良い時でも、悪化することを恐れてなるべく身体に負担のないようにしている。一人でいる時はそうやって自分自身を気遣うのに、誰かといる時は元気に立ちまわってしまったりする。相手に気を使うというよりは楽しくなってついつい体調のことなど失念してしまうのだ。
「あ」
 とミツバは声を漏らした。なだらかに続く畦道と雑木林の合間に土方が見えた。ここから一町歩ほどの距離がある。彼は、五人の童子と一緒にいて、細長い枝で剣術の真似事をしているようだった。はるか彼方には霊峰富士が堂々とした美しい佇まいである。見晴らしの良い景色に、長閑な畦道。雲の切れ間から差し込む陽光は影と日向を随時動かしている。ミツバは近づこうとしている心と、このままここで見ていたいという心の合間にいる。近藤や総悟と四人でいる時ならば場の流れで一緒にいることも会話をすることも出来るのに、なぜか二人きりだといつもうまくいかない。土方がするりと靭やかな身のこなしで滑り抜けてしまうのだ。
 ミツバは結局、そこにいた。ずいぶん長いこと、土方を見つめ続けていた。
 立夏ともなると、試衛館の道場の汗臭さが増す。差し入れを持って行くにもこれには閉口してしまう。道場中の明かり取りを開け放しても悶々としていて、ついつい遠いところで眺めるに始終する。人の感覚では嗅覚が一番順応が早いというけれど、それでも強烈だ。褌一丁で逞しい肉体を晒しているのも多くいる。井戸で身体を流している健康体をミツバは眩しげに見やった。
 これから本格的に暑くなろうかという手前で、差し入れをし、帰途につこうとしたところ近藤に呼び止められた。
「そろそろ蛍の飛び交う季節だろう。ミツバ殿、今宵四人で蛍狩りでもせぬか」
 毎年、花見、蛍、月見などの行事を四人だったり、四人に試衛館の誰かだったりで楽しんでいる。今年もそんな季節になったのだ。一つ返事で了承する。蛍の光は幽玄で、毎年楽しみにしていた。
 宵に出掛けた。空は深く蒼く、星が満点だった。各々の手に提灯が灯っていて、畦道を縫い歩き、多摩川に向かう。畦のあちこちで橙の明かりが見える。ミツバ達以外にも蛍鑑賞に出掛ける人がいるのだろう。
「蛍雪の功というだろう。俺もやってみようと蛍何匹も捕まえてみたけどよ、あれっぽっちのあかりじゃ文字なんて見れなかったなァ」
 近藤が照れて笑い、皆が笑う。多摩川までの道筋だ。昼間はよく識った道である。しかし、夜になると姿を変える。森は黒々とし人の来訪を拒み撥ねつける。だが、彼らとならば怖くないし心細くもなかった。迷ったとしても、新しい道を見つけられる人達なのだ。
 川辺に着くと、無数の蛍火が点滅を繰り返している。柔らかい光だった。芒や丈の長い葉の間を縫うように光が流れていく。光が一筋、ミツバの前に踊り出た。両手を差し出すとそのまま手の中に止まり、発光する。四人はその様子を眺め、ほとんど同時に息を吐いた。
 近くの茂みから「蛍は人の気配が嫌いだからね。たくさん視たかったら静かにするんだよ」という年配の女の潜めた声がする。しかし、蛍のあまりもの多さに、人なんてまるでないものとしてるかの蛍の振る舞いにやがては話し声や笑い声が漏れ出した。
 ミツバは隣で顔を突き出して蛍を眺める総悟の長い睫毛と大きくてつぶらな瞳を見た。幼い頃から偏屈なところがり、負けん気が強い弟だ。弟が生まれてすぐに病弱だった母親は産後の肥立ちが悪くて亡くなった。優しかった母はまだ首も座らぬ弟を抱いて、ミツバの肩を擦りながら静かに息を引き取った。父親もそれから一年と断たず肺病で死んだ。親戚筋の手を借りながら姉と弟の二人で生きてきたせいか、随分と肩身が狭い思いをした。周囲の眼は極端すぎる同情とあからさまな疎意があった。「貧乏」や「疫病神」という心ない嘲弄を弟は受け流せず真っ向から対峙して傷ついた。一言も泣き言を漏らさなかったが、歯を食いしばってる弟の姿をこれまで何度も何度も見てきた。幼い弟は受け流す術をしらなかったのだ。だからこそ、ミツバは総悟を可愛がった。自分が受けてきた両親からの愛情を幼い弟にあらん限り注いできた。総悟はミツバに我儘や弱いところをあまり見せなかった。その変わりか、歪んだかたちで蓄積された鬱憤が周囲に向かった。近所の子どもと喧嘩して傷や痣を拵えて帰ってくることが増え、手頃な枝や石を集めては備えをするようになった。同年代の子どもと比べて背が低くも体躯も細かったから、どうやったら勝てるかを常に考えている様子だった。
 強くなった。総悟は、近藤と出会い、剣術を知り、本当に強くなった。ミツバは去年の晩秋に倒れたとき自分を布団まで運んだのが総悟以外に誰かの助けがあったと思っていた。しかし、ミツバを運んだのは弟一人だったのだ。守ってあげなきゃと思っていたのに、いつの間にかミツバはこの弟からとても守られている。
 ミツバの手の中から蛍が離れた。まっすぐに群れの中に溶け込み、たくさんの光のなかの一つになった。

 ミツバは暗闇の中にいる。
 またこの夢だと、目が覚めれば途端に忘れてしまうのに、夢の中にいるときは何度も繰り返しみていることを覚えていた。四方全てが完全なる闇で、人っ子一人いない。人の気配は皆無だった。
 苦しい、と手を頸に宛がう。とても苦しいの、と声を絞り出そうとしても音にならない。落ち着け、落ち着けと願うのに、身体は震え、感情さえも思い通りにはならない。苦しくて寂しいだけの世界、虚無の世界。この世界は何かの暗示なのだろうか、いつかミツバはここに辿り着くのだろうか。こんな、何もない悲しいところに一人ぼっちで立ち尽くし、苦しい思いをずっとしていかなくてはならないのだろうか。押しつぶされそうな漆黒、圧迫感のある無彩色の場所。ミツバはどこにも進めず絶望的な気持ちでただ立っている。子供のように泣き叫んで、何か大きいものに縋りつきたいのにそれさえもできない。ただ、怖くて苦しくて寂しい。神経が焼けて、自分という存在が曖昧になる。いっそこのまま自我を崩壊してしまえばどれほど楽か――――ミツバは漆黒の世界に一人、佇んでいる。

 いつまでもこのままでいられない事はわかっていた。安穏と生活をしていても、昨日と今日が少しずつ違っていることも理解していた。だが、それはきっと理性だけの納得だったのだ。
 突然だった。つい先刻に稽古に向かったはずの総悟が舞い戻ってきて「姉上! 聞いてください」と息を弾ませていた。目を煌々と輝かせ、希望に燃えていた。ミツバはそのとき、貫かれるような衝撃を感じていた。
「姉上、とうとうです。とうとう、俺たち江戸に発つことになったんです。刀を握れるんです。武士に、父上のような武士になれるんです。これで、きっと、働いて、立派になって姉上に沢山薬を、医者にも頻繁に診てもらうことができるんです。今までの剣術が役に立つ時が来たんです」
 ミツバは頭に霞がかかっていた。総悟にうまく答えることができない。微笑おうとしても、歪な形になってしまう。
「そうなの」
 気持ちの整理がつかない。もう少し待って欲しい、と誰にともなく請う。気持ちがうまく一方向に向かない。四散して、どうにもならない。
「姉上? どうしました、姉上」
 もう、いままでのように会えなくなってしまう。総悟にも、近藤にも、そして、土方にも。それでも、ミツバはなんとか踏みとどまった。身の丈がほとんど同じになった弟の頭を撫でた。
「総ちゃんは天才ですからね、きっと大きな活躍をするわね」
 総悟は頷いて、本当に嬉しそうに微笑った。
「姉上、今夜は近藤さんのところで夕餉をご馳走になりますから、先に食べてくださいね」
 総悟はまた飛ぶように試衛館に向かった。ミツバは気が抜けたようになり、しばらく、ぼんやりしていた。
 いつもの時刻に総悟は帰ってこなかった。代わりに何の気紛れか、日が沈み、夜の帳が降りる頃、土方が一人でふらりとやってきた。
 満月だった。地平線の近くにある時は赤かったが、空に浮かぶにつれ淡い光になる。雲は疎らで、澄んでいった。怖いほどに澄み切っていた。秋の虫の鳴き声がする。紅葉して落ちた葉が西の一角に堆く積もっていた。
 土方は柿の木を見上げ「この柿は渋くて食えなかったな」とまるで独り言のように言う。
「みんな、江戸で一旗揚げるって本当?」
「誰から聞いた」
「総ちゃんが今朝嬉しそうに」
「あのバカ……」
 ミツバは目の前の男が、土方が、試衛館の皆が、近藤が、そして総悟が、前に進んでいることをずいぶん前から知っていた。何かを為したくて、自分の道を探したくて一生懸命だったことを知りすぎていた。ミツバは傍観して、微笑んでいた。
 きっと江戸に出て忙しくなったら武州を、多摩を、この場所を思い出すことは少なくなる。ミツバのことも、ふとした時に懐かしく思い出すだけになってしまう。ミツバは彼らの足跡が色濃く残るこの場所に残され、毎日のように想うのだろう。一緒に行けない事など厭というほど心得ている。付いていけば足手まといになることも理解している。
 何より、ミツバは何もしようとしなかった。なんの志もなかった。与えられている幸福の微温湯に浸かり、自分では動こうとしなかったのだ。そんな生半可で彼らと共に歩きたいなんて口に出せるはずがない。病持ちだから、女だから、そんなのは理由にならない。彼だって何もないところから必死で糸口を探していたのだ。
 だが、ミツバは歯止めが利かなかった。土方に恋い焦がれていた。ずっと好きだった。不器用な優しさも、近藤や総悟と悪だくみする顔も、頑なな後ろ姿も全てが大切だった。
 やめなさいと自分を制するが、もはやそれは溢れてやまなかった。
「私も連れてって。私は総ちゃんの親代わりだもの。あの子には私がいないと……それに……私……みんなの………」
 好きだった。ずっと、好きだった。もっと一緒にいたかった。
「十四郎さんの隣にいたい」
 心臓が張り裂けそうだった。胸から込み上げてくる思いが、涙腺を刺激した。泣かないように踏ん張って、後ろ姿を見続けた。せめて、今は逃げたくなかった。この想いだけは寄り添わせて欲しかった。
 歩き出した背中は頑なだった。
「知らねぇよ。知ったこっちゃねぇんだよ。お前のことなんざ」
 ミツバは立ち上がり、何も言えずに離れていく背中を見送る。今まで何度もそうしてきたように。
 後朝の別れにもなりはしなかった。
「わかっていた、はずなのよ」
 ミツバは溢れる涙をそのままに、もう一度「わかっていたの」と呟いた。
 
 出立の日は快晴だった。万感の思いを込めて男たちの旅立ちを見送り、ミツバは一人で自宅に戻った。しばらく、縁側で佇んで、それから、試衛館に足を延ばした。
 長屋門をくぐり、入り口からひょっこり顔をのぞかせる。道場というにはあまりにも小さくおんぼろで、ミツバは笑ってしまう。主を失い、建物が消沈しているようにも感じた。老いた風情が漂い、まるで、火が消えてしまったかのようだった。
 ここで、彼らは切磋琢磨した。時勢を語り合い、喧嘩をし、笑い、足掻き、ときには憤り、自分たちが何をできるかを必死で探した場所だ。おんぼろで、ところどころ穴が開いて、修復してもしきれなかった箇所がいくつもある。だが、大事に使われていたのが一目でわかる。
「行ってしまったな」
 振り向くと、近藤の義父だ。試衛館の元道場主である。
「ええ……振り返りもせずに、前だけ向いて」
「よかったのか」
 ミツバは苦笑する。胸の痛みは消えないし、寂しさと心細さで張り裂けそうだが、想い出を抱いて彼らの武運を願おうと決めた。それをミツバの矜持とした。
「私、気付いたの。見ているだけじゃダメだってことに。ずいぶん遅くなってしまったけど、気付いたの。女だからとか、そういうのは言い訳で、前に進まないと何も手に入れられないことにやっと気づけたのよ」
 痛みを抱えてミツバは微笑む。歪でもよかった。虚勢でもいい。それが今の精いっぱいだった。
「だから私も、進むわ」
 
 ミツバは暗闇の中にいた。もがくほどの苦しさも、身を焼け焦がすほどの切なさも、凍り付くほどの恐怖も変わりはしない。だが、四方の闇の中、動かぬ身体に鞭打って足を進めようとした。喉が熱く焦げても声を出そうと踏ん張った。無駄な努力でもいい。少しでも挑戦してみることにした。まだ見えぬ光を目指して、ミツバは最初の一歩を踏み出そうとしていた。