悲願



 沖田総悟の腕を握りながら歩く市のメインストリートは、桜並木が鮮やかに満開だ。
 駅を降り南口に出ると、直線が大学通り、右斜めに道が続いているのが光通り、左斜めに延びているのが黎明通り。駅に沿うようにして左右にも通りはあるが、大学通りがこの市では目抜き通りになっている。
 大学通りは四車線の広々とした車道に自転車専用道と歩道がわかれている。日曜日の午前五時を過ぎていない早朝に近いこの時刻では車も自転車も歩行者もあまり通っていない。均等に立ち並ぶ桜だけが緩やかに春を満喫しているようだった。通りの両側で大きな桜が見事なアーチを描く。車道の真ん中を歩ければさぞかし気分がいいだろう。
 少しずつ気温が暖かい日が増え始めているが、四月の中旬だというに例年より冬の名残が溶けきらない。凍みる日が続いていて、総悟も土方十四郎も厚めのコートを羽織っていた。
 緩く握っている総悟の肌は、とても冷たい事を知っている。
「綺麗ですねェ」
 吐息のように総悟が呟く。総悟が形容すると、風景がますます鮮やかになる錯覚を受けるから不思議だった。土方の脳裏に薄い桃色に空が彩られている風景画が浮かぶ。総悟なら、どういった色彩でこの景色を手掛けるのだろうか。土方はそれを見てみたい気がした。
 左隣から総悟が土方の目を覗き込んでくる。物言いたげな視線に「なんだよ」と聞く。
「土方さんは桜よりも梅の花の方が似合ってる気がしやすねェ」
「梅か」
「幹がゴツゴツしてるとことか」
 悪戯に笑う総悟に「なんだよ、それ」と呆れて、そういえば梅は咲き方も散り方もゆっくりだな、と思い出す。馥郁たる梅の香り、というが馥郁という言葉は確か梅の香にしか使われない。梅は水墨画の画材にもよく使われていて、花言葉は、厳しい美しさだった筈だ。
「それにしても、綺麗だなァ」
 感嘆と漏れた総悟の言葉に複雑さと繊細さを感じる。それは土方の勝手な感受だ。
 総悟の感触を皮膚で感じながら、こうすることが本当に正しかったのかと自問自答をする。自分が引き受けると言ったその気持ちに嘘偽りは何も無いのだが、総悟にとっての幸福は遥か遠いところにあるのではないか、とも思えてならない。総悟にとって一番良いという場所を一生掛けても土方には作り出せない気がしていた。
 土方の家は大学を超えて二つ目の交差点を左折し、右の歩道を少し歩いた先に細道が斜めに延びている位置にある。一人で住むには広すぎる古民家風の一戸建てで、車が五、六台停めてもまだ余裕がある庭は裏千家の本格露地だ。雑木林の中に落ちる木漏れ日が印象的で、一年中山野草を愉しめる。一ヶ月に一度手入れの業者が来るのでいつでも整備は行き届いていて、古風を絵にかいたような和風住宅だ。
 総悟には日当たりの良い八畳の部屋を与えた。畳と襖を新調したので井草の匂いが鼻腔をくすぐる。障子を開ければ縁側で、風通しも頗る良い。
 荷物を置いた総悟はこれから自分の自室になる部屋をきょろきょろ見回して「落ち着く」と嬉しそうな顔をした。和造りの家は総悟に馴染みのないものだったから戸惑うのではないかと思っていたが、畳を手の平で撫でては「いいなァ」としきりに呟くので少し安堵した。
「布団は押入れに入ってるから。午後にお前の画材やら荷物やら届くまでちっとばかし時間もあるし、少し寝たらどうだ」
「なんか勿体ねェや」
「ちゃんと近藤さんに連絡しとけよ、着いたって」
 そう言うと、総悟は途端に笑顔を引っ込めて頷いた。土方はその顔を一度じっと見て、何も言わずに部屋を出る。
 どうしようもなく、今の総悟が描く絵が視たい、と思った。心底に溜まっている感情を総悟は言葉にしないで白いキャンバスに描き出す。総悟の描いた絵画はいつも恐ろしいほどに感情や生命、総悟そのものが篭っていて、見続けることがひどく困難だ。胸がどうしようもなく苦しくなる。
 初めて総悟の描いた絵を見たとき、オランダの画家マウリッツ・コルネリス・エッシャーのペンローズの階段を参考に作られた作品「上りと下り」を思い出した。どんなに上っても辿り着けない苦痛と苦悩と虚無感がそこにあって土方は暫し言葉を失った。忘却に押し込んでいた大切でかけがえの無かった筈のものを強引に引き出されていくような感覚に足が竦み、朦朧とした。土方の価値観や世界観、築き上げてきたもの全てが足元から崩れ落ちていくような、不安定な気持ちになった。目を見張る、というよりも寧ろ、背けていたい。総悟の絵は目を逸らしたいものを押し付けられて「逃げるな」と脅迫されている気になるのだ。
 確か、高校二年生の春だった。一つ上の学年の近藤勲に「トシ、どう思う?」と画用紙を見せられたのだ。最初に視覚が捉えたのは紅だった。猩々緋と深緋が渦を巻くような何とも形容しがたい色だった。芸術関係に全く疎かった土方でもその色が発する禍々しさが異質だと本能で感じ取れるほどに。絵自体は無秩序で統一性が無く、風景画のようだが、歪んでいて、何を軸に置いているのか全く掴めなかった。たけど、無性に心臓が抉られた。
 声を失い顔色を変えた土方に「これ、やっぱり、変だよなァ」と近藤は眉を顰めて首を傾げた。「これ、アンタが書いたのか?」と聞くと「いやいや、俺じゃねェよ。近所に沖田総悟ってガキがいるんだが……たまに公園で一人でポツンとベンチに座ってるからよ。この前、声かけたんだ。したらさ、その次の日、公園でまた会って俺にくれたんだけどな」
「不気味だな」無意識に口から零れていた。
「そうなんだ、不気味なんだよ。だけどな…………なんだかよくわからねェけど、懐かしい気がするんだ。味があるわけでもねェし、特別巧いとも思わないんだけど、なんか、懐かしいんだよな」
 近藤の実家は剣術の道場を構えていて、土方はそこに通っていた。稽古を終えて袴姿で、二人で絵に視線を落とし、複雑なものが込み上げてくるのをどうしていいのか分からないまま、ただ、総悟の描いた絵を前にして途方に暮れていた。
 土方が総悟に出会ったのはそれから数ヵ月後の夜だった。稽古に精を出し過ぎてすっかり遅くなってしまい、近藤の家で晩飯をご馳走になった帰途の途中、崖線の少し上に、非常に目立たないお稲荷さんがあるのだが、そこを横切ろうとするとお稲荷さんのある敷地内に人の気配があることに気がついた。なんともなしに視線を向けると、小さな男児がご本尊を眺めている後姿を見つけた。
 なぜ、その時、立ち止まったのか土方は分からない。なぜその時、その男児に近づいたのか、今でも分からない。
 本当に小さなご本尊で、地元でも知らない人が多かった。お稲荷さんを囲むには充分の五本の樹木はやたらと背が高く、キツネの石像とご本尊しかない。それなのに、男児は身じろぎもせずに眺めている。この辺は街灯が極端に少なく、雲の無い夜は星がよく見えた。時刻は二十二時を過ぎている。
「何やってんだ?」
 問いかけると、まるで土方の問いかけを待っていたかのように男児はゆっくりと振り向き「見てやした」と口にした。
「ご本尊をか」
「そうでさァ、でも、それよりももっと遠く」
「遠く……?」
「結局、何も見えなかったけど」
 近寄ると、ぎょっとした。男児は裸足で、短パンから露見している細い足の膝小僧から踝辺りまでにザックリした傷があり、そこから流れたのであろう血が乾燥していた。だが本人は能面のような無表情でそこに立っていた。
 それが、総悟だった。

 総悟とは妙に気があった。
「絵を描くのが好きなのか?」
 度々待ち合わせをして会うようになり、聞いたことがある。
 総悟は土方の質問に首を傾げて「考えたことないですねェ」と笑った。
「でも、ずっと描いてるんだろ」
「紙があって書くものがあったから、残そうと思ったんです。残す……違うな、とじこめるっていうのかな、とにかくそれだけで、あんまり好きとか嫌いとかそういうのは無いなァ」
「俺はお前の描く絵、いいと思うけど」
 本心だった。最初は感じた事も無い違和感にたじろいだが、総悟の絵を見るにつれて、その不思議な世界観とやけに現実帯びているような混濁した深い溝に嵌っていた。それに、総悟の描く絵は総悟の成長とともに変化する。本来の軸はそのままに、総悟の本質は動かぬのだけど、色彩が鮮やかになり躍動感が増えた。総悟が次に何を描くかが楽しみになっていた。総悟を知るたびに募った。
 総悟は土方の言葉に唖然とし、何かを思案して、頷く。そして、心底嬉しそうな顔をした。
「土方さんは分かるんだなァ」
 その時の総悟の首の後ろに、引っ掻かれたような痕を見つけて、土方は言葉に詰まった。
 総悟はずっと嬉しそうに空を見上げていた。
 近藤が少し遅れてやってきて、総悟を膝に抱き、三人で取り留めの無い話をした。近藤も気付いていたであろうが、総悟の傷にはいつも触れなかった。
 総悟の描く絵は、日増しに色だけが明るくなった。専ら描く絵は風景で、神社や空、樹木が多かった。鬱蒼としているものを選んでは、自分の視点と感性で描いていく。その絵に込められたものは変わらずそこにあって、だが、最近、総悟が何かを掴みかけているのだけは何となく分かった。日ごとにそれは核心に近づき、総悟の描く絵が、実態をほのめかせ始めているのを土方は確かな手触りとして感じていた。それを近藤に言うと、
「俺には分からねェな。でも、トシには見えるものがあるのかもしれねェな」
 陽気な調子で嬉しそうに何度も頷いた。
 だが、ある時を境に、総悟と音信不通になった。家に電話をしても総悟の親が出て取り次いでもらえない。総悟の通っている学校に行っても、登校してないのだと言われる。
 近藤と途方に暮れて、総悟の自宅にも何度か足を運んだが、玄関先で追い返された。
 土方は掴みかけていた何かが、まるで空気のように手からすり抜けて遠くへ行ってしまったような、それが永遠に二度とに手に入らないもののような気がしていた。何もかも通り抜けて、何一つ、護る事もできない無力感と虚無に襲われた。それは過去に一度味わったことがあるような、総悟の最初の絵、そのもののような気がして、怖かった。
 何日かして、現状の歯痒さに焦れ、一人で、総悟と初めて出会ったあのお稲荷さんにあの時刻、二十二時過ぎに訪れた事があった。静寂の中、総悟が見ようとしていたものを考えていた。ご本尊の扉は赤く、暗闇では赤黒い。目を凝らしても総悟のみたかったもの何一つも見えなくて、それが何かも分からなくて、不意に孤独を感じた。
 分からない、孤独。
 もしかしたら総悟はずっと、分かる孤独を抱えていたのかもな、と気付いたら溜まらなくなった。
 総悟は偶にとても悲観的だった。
「きっとこうやって描いても、なにも残んないんだろうなァ」と呟くことがあった。「同じように忘れて、ずっと思い出せないままなんだろうなぁ」
 今なら言ってやれたのに、と土方は歯噛みする。残るんだ、と。このお稲荷さんにあの夜、総悟が居た事はずっと土方の中に刻まれている。総悟が立った場所は、たとえごく僅かでも砂が動き、風を遮った。そういうものは消えないで残るのだ。刻まれているのだ。総悟が描いた絵はずっと残る。逆に、跡形も無く消え去ることなどはできはしないのだ。
 失くす事は実はとても難しい。
 だから、総悟は失くさなかったから、完全に忘れ去ることのできない何かを感じていたから、絵を描いていたのかもしれない。記憶かもしれない、夢かもしれない、そういうのを形にして近づきたかったのかもしれない。
 実態のつかめないものを総悟は総悟なりに必死に捜し求めていたのかもしれない。それはやはり、残ったからこその事なのだ。
 風が凪いで、土方の足元を砂が、塵が、動く。ご本尊に上って手を触れる。引っかいて、疵を作る。簡単に、残る。
 簡単に残るのだ。

 暫くして、総悟の居場所が分かった。
 他県の施設に居る。と、近藤が情報を掴んできた。土方も近藤も総悟に会うために毎日のように奔走していたから、その報を聞いて直ぐに二人で、総悟の居るという施設に向かった。土方はその頃、高校三年生に進級していて、学校には内緒で車の免許を取得していた。
 父親の車を勝手に拝借して、制限速度オーバーで高速道路を走っている。カーオーディオからはOriental Windが流れていて、その旋律が美しいほど恐ろしかった。土方も近藤もずっと無言だった。総悟に会う嬉しさよりも、不安のほうが大きかった。
 片側の窓に鉛色の海が広がっている。吹き抜けるような青空と海との境界が遥か遠くで揺れている。随分遠くまで来た。車内には近藤と二人きりで、ここに総悟がいないのが何故だかとても不思議だった。総悟は土方と近藤にどこまでも付いて来そうな気がしていたから。
 インターチェンジを下りて、曲折した道路でスピードを緩める。
「もう直ぐだな」
 土方が呟くと、腕組みしていた近藤が隣で静かに頷いた。
 一般道に降りると、途端に視界が開けた。先までずっと見通せるこの道が総悟に繋がっていると思うと、どうしようもなく切なくなった。左手に海、右手に雑木林、前方は地平線の彼方まで平坦。やがて、右手の雑木林にぽっかりと上り坂が見えてくる。そこを右折し、急勾配を上る。 この辺りはもう施設の敷地だった。斜面の路の両側に松ノ木が並んでいる。
 こんなところに総悟がいる。こんなひっそりとした所に、そう思うと悔しくて仕方が無かった。こんな鮮やかな場所では総悟は絵を描くことができないではないか。なにも拠り所が無いではないか。ここは綺麗過ぎる。清潔すぎて駄目だ。
 アクセルを乱暴に踏めば、車が唸る。
 早く連れ戻さなければいけない。土方の頭はそればかりに埋め尽くされていた。
 建物はコンクリート造りでひたすら白かった。庭は整備されすぎていて、その統一感が行き過ぎで狂気を感じた。施設の玄関の受付で「沖田総悟はいますか」と聞くと四十歳は越えているであろう女性が「どちらさまですか」と素っ気無く聞いてきた。
「沖田総悟の親戚のものです」
 近藤が淀みなく答える。嘘や演技が下手糞な男が、堂々と偽りを口にした。
 女は近藤を上から下まで舐め回すように見やってから「A−20室、ここを真っ直ぐ行った階段を上って三階に。そこに表示があるからどうぞ」と言うと、興味をなくしたように奥に引っ込む。
 総悟の部屋は、突き当たりにあった。四人部屋らしく、入り口のプレートに四名の名前が記入されている。総悟のプレートは真新しく、それを見てほっとした。
 ドアは土方が開けた。
 室内は静かで、空けた瞬間に三名の目がこちらを向いた。どれもこれも、総悟じゃない。知らぬ三人の男の子は共通して肌が青白く病的だった。 一人だけ振り向かない後姿が、見慣れたもので、懐かしかった。
 総悟は部屋の奥のベッドに座って、窓から海を眺めていた。その後姿があの夜と被って、土方は自分でも気付かぬうちに、
「何やってんだ?」と気安く問いかけていた。
 総悟はゆっくり振り返ると「見てやした」と小さく笑う。久しぶりに見た総悟は、不安定で消えてしまいそうに土方の目には映った。
「何を見ていたんだ」近藤が顔に似合わない優しい口調で問いかけると、総悟は途端に顔をくしゃっと歪める。胸が不規則に上下する。唇がわなないて「土方さんと、近藤さん」と震えながら答え、何かが決壊するように泣き出した。
 黄色いカーテンが風に踊る。潮の匂いが強い。波の音が聞こえる。
「そうか」と近藤が笑う。
「ずっと、ずっと見てたんでさァ、一緒にいたから、離れてもずっと、見てたんでさァ」 嗚咽して、それでも訴えかけようとする総悟をたまらずに抱きしめて、土方はただ、唇を噛み締めていた。

 それから数日後、案外あっさりとした手続きで、総悟は近藤に引き取られた。
 土方は大学生になり、薬学部に進んだ。六年で国家試験に受かり、実家を出て薬局を開店した。薬剤師になったのは、総悟の傷がずっと脳裏にあったせいかもしれない。
 経営は順調で、やがて自分の家を建て、休みの日は近藤の剣術道場に通いながら安穏とした日々を過ごしていた。
 穏やかな日々だった。総悟がいて、近藤がいて、それだけで土方はとても満たされていた。道場を見学していた総悟に、
「土方さんは結婚はまだですかィ?」
 と聞かれて「しねェよ」と答えたら「じゃあ、俺が側にいなきゃなァ」とふてぶてしく笑う。
「春になったらうちの子になるか」と聞いた。
 総悟が嬉しそうに笑うから「また、絵、描けよ」と言って、竹刀を振るう。
 総悟はぱったりと絵を描かなくなってしまっていた。画材だけは大事そうに持っているのだが、筆にも触れてもいないのだという。それが惜しくて、土方は仕方がなかった。


 午後になって引っ越し業者から荷物が届いた。
 玄関で受け取り印を押して業者を見送ると、総悟が壁をつたって近づいてくる。目を擦って「来た?」と覚束ない声で聞いてきた。
「来たよ」
 ダンボールを抱えると、総悟が壁から手を離したせいで突然よろける。咄嗟に持ったダンボールを落として、総悟を腕で支えた。がしゃんとダンボールが落下し嫌な音がする。
 総悟をゆっくり座らせて、ガムテープを外してダンボールを開けると、ぐちゃぐちゃに散乱した画材道具が飛び出してきた。「あーあ」と総悟が溜息を吐く。
「お前、いい加減に松葉杖使えよ」
「だって、アレ使ったら、永久に自分の足で歩けなくなりそうで」
 土方は口を噤む。総悟は原因不明の歩行障害で、自分の力で身体を支える事が困難になっていた。ごくたまにある症例らしく、治る見込みは少ないと医者に宣告されている。
 総悟は四つん這いで進み、画材道具に手を触れた。そして、何を思ったのか筆を取り出して、赤い顔料のキャップを開ける。筆に顔料を搾り出して、悪戯に笑い、その筆を床に落とした。そのまま滑らかに筆を走らせる。
 描いたのは絵ではなく、文字だった。だが、総悟が描くと、文字も何かの絵にみえた。一色しか使っていないのにどうしてか総悟の手に掛かると不思議な色になる。
 総悟は「真」その隣に「誠」と書いた。
「土方さん、残りますかィ」
 総悟がゆっくりと顔を起こして聞いてくる。
 掴み損なって、手からすり抜けて、それでも、また戻ってくることもあるのだろうか。
 記憶も思いも傷跡も残るんだから、いつかは、戻ってくるのかもしれない。
 気がつくと、その赤い文字が歪んでいた。どうして歪んでいるのか、今、分かった。ずっと、総悟の絵が歪んで見えた意味が漸く分かった。
「土方さんは泣き虫でさァ」けたけたと総悟が笑う。
 総悟の描いた文字に触れる。それは、どうしたって消えそうになかった。