近藤勲は門を潜ろうとしたところで、後方から声を掛けられた。
 娘が立っていた。木綿の着物を着て、商家風の愛想の良い表情で「土方様に御用でございますか?」と訊いてきた。彼女の声はまるで風が鳴ったかのようだった。
「いかにも」
 と近藤は答える。
「でしたら、これをトシ様にお渡し願いますでしょうか」
 娘が近藤に差し出したのは何かを油紙で包んだものだった。大きさは手鞠ぐらいで、手に取ると、とても軽い。
「これは?」
「薬でございます。この先の薬問屋の者で、わたくし、みやと申します」
「薬礼はいかほど」
 懐から巾着袋を取り出すと、いえ、とみやは右手の掌を近藤に向けて、
「お代はいいのです。よろしくお伝えください」
 そう云って、そそくさと踵を返した。
 近藤は薬を袖に仕舞い、門を潜る。
 久しぶりに訪れた武家長屋は記憶よりずっと身窄らしかった。振り返るともう娘の姿容はどこにもない。往来は閑散としていた。近藤は一寸、奇妙な気がした。 
 
 江戸から六里離れた関東平野の一角に小さな城下町がある。城下町の東南、拝領屋敷地の大縄地である組屋敷の最端に土方家の家屋があった。
 そしてこの時、代々続いた土方家の家名が途絶えようとしていた。代々続いたといっても、御徒以下の御家人である土方家は下級中の下級武家である。由緒正しいとった御家柄ではない。
 当主、土方隼人は臨終の床に臥していた。打つ手は最早何もないと判断した医者は先ほど帰って往った。傍で看取るのは隼人の一人娘の土方トシと遠い親戚に当たる近藤勲の二人である。近藤はトシにチラリと眼を遣った。
―――――――――――疲労の色が濃い
 トシは事実、その顔色は蒼白であった。眼窩には隈が貼り付き、唇は色を失っている。躰は痩せこけ過ぎていた。数年前の彼女とは別人のような有様である。嘗ての彼女を市井の人々は「肌は氷肌、唇は花唇、指は玉尖、風に揺れるは雲鬢、藩きっての絢爛」と謳っていた。トシは容姿端麗であった。
―――――――――――不幸が重なった。まるで呪われているかのような
 近藤はここ数年に起こった土方家の災難を思い返し、暗澹たる表情で、静かに死を待つ土方隼人の顔を眺めた。四年前にトシの母が突然亡くなり、翌年に今度はトシが原因不明の病に罹った。次の年に快癒したが、後遺症として左の顔半分に醜い爛れが残った。引く手数多だったトシの縁組の話は、その爛れによって水を打つように粛として声が無くなった。悪いことは重なるもので、今度は隼人の病である。しかも、この病は長く、快癒の兆しのない死病だった。医療代や薬代で家財道具はほとんど売り払い、借金だけが残った。土方家の近い親戚衆は金の無心や度重なる不運の飛び火を恐れ、隼人とトシを敬遠した。隼人が昏睡状態に陥った時、トシはとうとう自分一人ではどうしようもなくなり、近藤に書簡を寄越した。それが先週のことである。しかし、近藤は江戸南町奉行のお役目で忙しく、トシの元へ飛んでいくわけにはいかなかった。なんとか都合がついたのがつい昨日で、急いで駆けつけたが、隼人は最早手遅れだった。近藤が来たところで隼人の病が癒えるわけでもないが、トシの負担を減らすことぐらいは出来ただろうに、近藤が到着したその時には全てが遅かった。
 近藤が土方家のここ数年の度重なる不幸を識ったのは、つい今朝のことだ。土方家の事情に精通していた土方家のかかりつけ医に、トシの目を盗んで洗い浚い全てを訊き出し愕然とした。
 近藤は、近藤家の家名と家禄を継ぐ六年前まで、この家屋に頻繁に出入りしていた。その当時の土方家は親子三人で慎ましく暮らしていた。近藤は隼人も隼人の妻も好きだったし、トシの事も妹のように可愛がった。お役目で忙しくなってからは疎遠になっていたが、ふとした時に、あの親子はどうしているだろうかと懐かしく思っていたのだ。
 土方家は零落してしまった。近藤は胸が絞られる思いだった。何よりも気の毒なのが、トシが気丈なことだ。
 トシは凛として座している。隠せない疲労が滲み出ても、泣き言一つ漏らさない底知れぬ強さが哀れだった。昔から男勝りで芯の強い娘だった。限界まで誰の助けも借りず、自身を酷使して乗り切ってしまっていた。看病の合間に細々と内職し、庭の畑を売り歩いてはなんとか切り詰めた生活をしていた。荒れた手がその暮らしの苦しさを物語っていた。
「近藤さん、ありがとう」
 静かな声だった。トシは昏昏と眠る隼人に視線を向けながら、不思議なほど和らいだ微笑みを浮かべた。悲運の渦中に巻き込まれても、黒眸の強さは健在だった。近藤の左隣に座っているため、右半分のトシの横顔は、窶れていても美しかった。
「いや………」
 近藤は、昨日、玄関口で自分を迎えたトシの面相を見て絶句し、顔を強張らせた事を恥じていた。嫁入り前の娘の顔に、その爛れはあまりに痛々しかった。痘痕の方が未だ救いがある。それほどまでにトシの左顔は変容してしまっていた。まるで四谷怪談のお岩のようだとそれが久しぶりに顔を合わせたトシへの印象だった。元が美しい分、一層哀れに感じた。見まいとしても、どうしても左の顔に視線がいく。トシは気が付いていたろうが、傷付いたり不快な素振りを露ほども見せなかった。かえって近藤に気を使わせている事を恐縮している節があった。
「父様、もう頑張らなくていいよ」隼人の命の灯火は次第に細くなっていた。不思議なもので、死の気配が近付いていることを漠然と肌で感じ取っていた。諭すようなトシの声音は優しかった。「父様、今までありがとう」
 その瞬間、隼人の表情は透明感を増し、穏やかになった。抜けた、と近藤は悟った。肉体から魂が抜けた。隼人は今この瞬間に四十五年の生涯に幕を閉じたのだ。眠るように消えた命だった。
 トシは涙を見せなかった。二三度ゆっくり瞬きをしてから、開け放たれた襖から覗く晴れた空を見上げた。口元には寂しさの気配があったが、どこまでも気丈だった。トシは己の身に起こる事すべてを、当たり前のように受け止めていた。近藤はトシに魅せられていた。眼が醒める思いだった。今まで自分は彼女の何を見ていたのだろうか。トシは相変わらず美しい。顔半分が爛れても、そんなものは全く関係がない。トシの美しさはそんな小さな傷で阻害できるものではないのだ。美醜とはかけ離れたところにトシはいる。もっと高尚で気高い女だ。
 近藤はトシの両肩に手を置いた。真正面から見据える。目を細めて近藤は確信する。やはり、トシは美しいのだ。左目が皮膚の爛れによって歪な形をしていても、瞳の色は透き通った黒曜石を彷彿させる。気後れするような事は何もない。近藤は嬉しくなって微笑う。トシは不思議そうに近藤を見上げて首を傾げた。
「トシ、これからの話をしよう」
 借金もあるし、跡取りがいないとなれば跡式相続もできまい。土方家の御家人株は売らねばならない。そうなればトシはもう武家の娘ではない。御家断絶だ。今後の生活を考えなければならない。ここに来る道すがら、自分が引き取ることも考えたが、それでは一生下女で生きねばならなくなる。トシは女として倖せに生きるべきだ。
 近藤の脳裏に浮かんだのは一人の職人の顔だった。彼は年齢も二十九で十七のトシに丁度いい。職業も安定しているし、なかなか見所がある男だと近藤は践んでいる。
「トシ、この先のことを俺に一任してくれないか」
 隼人の葬式や、引越し、その他にやらなければならないことが山程ある。近藤は一度決めたらやり通す男である。無骨の手が覆った細い手は、荒れてもなお、心地の良い温度で近藤の皮膚に染み込んだ。トシの尖った肩先が震えた。
 トシは慣れ親しんだ住処を見回してから、亡き父を一瞥し、諦観したように頷いた。近藤は自分の娘にそうするように、トシの赤く爛れた左頬を優しく撫でた。生涯を通し、この娘に関わることを密かに決めた。