長谷川泰三は満面の笑みで戸を叩いた。
 長谷川は祝事が好きであったし、何より、祝いの酒席が好きであった。詰まりは酒が好きなのであるが、本日の喜悦に一役買っているのは、酒の他に格別な肴があることである。
「銀さん、入るよ」
 長屋の戸を引くと、既に酒盛りが始まっているようだった。お決まりの顔ぶれが揃っている。九尺二間が今日この日は何時もよりも狭かった。空いてる隙間を見つけると腰を下ろす。持参してきた徳利を猪口に注ぎ先ずは気付けの一杯だ。喉を潤す。村雨である。
「時化た酒飲んでくれんなよ長谷川さん」
 そう云って、長谷川のお猪口に違う酒を注いできたのは高杉晋作だ。大地主の放蕩息子で、表店で酒店を営んでいる。長谷川は相好を崩した。普段飲めない旨い酒が飲めるからである。美酒に満足げに舌鼓を打ちながら、それにしてもと、友人に茶化されている銀時を見遣った。それにしても、どうして急に妻を娶る気になったのだろうか。長谷川はなんとなく、この先も銀時は気楽に一人身で生きていくのだと漠然と思っていた。
 何度か共に吉原にしけこんだことがあったし、銀時は女が好きである。だが、奥の深いところで、彼がそういった世俗事に何処か冷めた面を持ち合わせているような気がしていたのだ。それがここにきて唐突に妻を貰うとは。是非とも理由が識りたい。
 長谷川の好奇心を汲み取るように、銀時の隣に陣取っている男が話の流れでいともあっさり「どういう経緯で嫁さんもらうことにしたんだ」と訊いた。長谷川は顔を上げ、全身を耳にする。銀時ははぐらかすかもしれないと勘ぐったが、思いの外照れくさそうにした。
「経緯っていうか、近藤っているだろ」
「近藤って南町奉行のかい? あのお武家さんか?」
「そうそう。ちょっとした事で識り合ってよ。あいつに半年口説かれたんだよ、良い女がいるんだけど嫁に貰わねぇかって」
 長谷川は瞠目した。銀時の友人や知り合いが多岐に渡る事は承知しているが、奉行の知合いまでも拵えていたとは。どうしたら中級階級以上の侍に、嫁を斡旋して貰えるほどの親しい間柄になれるのか頓と見当がつかない。銀時の商売はそこそこ上手くいっているが、彼の性格上、賄賂を渡して昵懇になったという訳ではないだろう。つくづく不思議な男だ、と祝いの席に集まった顔ぶれを見回す。銀時の周囲には何故か人が集まる。そんな長谷川も銀時とひょんなことから知り合いになり、彼に一目置いている一人だった。
 坂田銀時は折り目が正しい人間とは云えない。人を惹きつけるといっても、仙台太郎のようでもない。寧ろ、誠実さからは悉く逸脱している。ちゃらんぽらんでいい加減の捻くれ者だ。偶に、なんで自分はこの人と親しくしているのだろうか、と疑問に思うこともある。しかし、銀時には彼の中で一つの大きな核がある。その核は何よりも強固だ。彼は真っ直ぐに最短距離で目指す場所に向かえる男ではない。回り道したり道草したり逆戻りしたりする。だが、核からは逸れない。信念を曲げることは決してない。それに、彼は人や物事や土地に対する愛情が人一倍強い。旋毛曲りな性格だから、普段は表に出さないが、滲み出るものがある。銀時を取り巻く人々が甲斐性無しの昼行灯な彼を憎めないのは、おそらく本人も気付いていない彼の性質である気の毒なほどの情の深さ故だろう。
「半年ってなかなか凄いな」
 呟いたのは、名前以外の一切が不明の桂小太郎と云う涼しい眼をした眉目秀麗の男だ。腰まで垂らした黒髪に、物腰が柔らかいが性格は堅物で、奇妙な印象を抱かせる。銀時の周囲には一癖も二癖もある者が多い。
「執拗でよ、面倒くさいから貰ってやる事にした」
 投げやりな調子だが、この事を銀時は半年間一言も周囲に漏らさなかった。決断するまで、自分一人の胸の裡で決めた。普段はどうでもいい事柄をベラベラ喋り立てるのに。それがこの男の生き方なのだ。
「どんな女だ?」
「綺麗な女らしい。近藤が云うんだ、確かだろう」
 ぶっきらぼうに云って酒を煽る。その様子に長谷川は、きっと何かがある、と予感した。だが、訪ねても銀時はお茶を濁すだろう。得意の口八丁で話題を逸らす。彼は何時も自分自身を煙に巻いてしまう。誰にも彼の奥底に潜んでいる本音を覗かせようとはしない。損な性分だと思う。もう少し周囲に寄り掛かっても罰は当たるまいに。
 思えば銀時も桂と同様、正体が知れない人物である。いつの間にかこの長屋におさまっていた。まるで昔からここに居るかのように溶け込んではいるが、誰も銀時のそれまでの過去を知る者はいない。長谷川はそれを思うたび切ない気持になったものだった。だが、銀時は嫁を貰う。それは彼が他人を受け入れる準備ができたということではないかと思う。自分の領域に踏み込ませるその覚悟が銀時に出来た――――――――――それは明るい兆しのように思われた。
「銀さん、兎にも角にもめでたいな」
 長谷川が声を掛けると、銀時は照れくさそうに微笑った。