銀時に近しい間柄の者達はちょっとした興奮に包まれていた。
「今日だよな、今日だよな、銀時の元に女房が来たのは」
「そうだ、今朝だ。だけど、なんで早朝なんだろうな」
「別嬪って話じゃねぇか、早く見てぇなぁ」
 近所の者は顔を合わせるたびに、そんな会話を交わしていた。桂はぶらぶらと往来を歩きながら、こういった会話を聞く度に「これ、新婚だ。暫くはそっとしておこうではないか」と嗜めていた。だが、桂自身は嗜む気持ちなど微塵も持ち合わせていなかった。桂は当たり前の顔をして、朝五つ半には銀時の長屋の戸を叩いていた。銀時が嫁を取ってから一番乗りの客人である。
 内側から戸を開けたのは銀時だった。桂を見てうんざりした表情をしたが、それでも体を横に滑らせ、招き入れた。
「やぁやぁ、これは初めまして」
 と、部屋の隅で葛篭から衣服を出している最中の銀時の妻に声をかけた。妻が顔を上げると、桂は少し身を乗り出した。妻は紗良紗の布を頭からすっぽりと被っているせいで、右側の表情しか見えなかった。桂を銀時の知人と見て取ると、改めて姿勢を正し、
「銀時の女房になりました。トシでございます。以後、どうぞよろしくお願いします」
 と深々と頭を垂れる。丁寧な美しい所作だった。銀時はこの男の照れた時の癖で耳の上を掻いている。桂は銀時の首に腕を回して「なぜお前にこんな別嬪が」と真面目に不思議がった。銀時は鼻を鳴らし「だから云ったろ、いい女だって」と鼻高々としていた。
 紗良紗から覗く右顔は均整が取れていて美しかった。だが、桂は顔ばかりではないと銀時の妻、トシを眩しい眼差しで再度視た。真っ直ぐに貫くような眦がいい。声のハリも良い。トシを取り巻く雰囲気がなんともいえなくいいのだ。桂は感慨深かった。銀時が共に生きると決めた女はこのような比いの者か。
「お茶を煎れますね」
 銀時を突き飛ばして、姿勢を正し、
「銀時の親友の桂小太郎と申す。以後、お見知りおきを」
 と頭を下げた。
「誰が親友だよ」
「それより、これを」
 桂は横槍を入れる銀時を無視し、持ってきていた平たい桶を差し出した。桶の中身を確認し、銀時が仰天するのを見ると、口元が緩むのを抑え切れなかった。
「鰹! 鰹じゃねーか! どうしたんだ、これ?」
 トシも覗き込んで、手で口元を覆い眼を瞠った。
「祝いにと思ってな」
「どうやって手に入れたんだよ、この時期じゃ二両はするだろ」
「目には青葉、山時鳥、初鰹ってな。トシ殿、捌けるか」
「料理早指南を読んだことあるから、多分……今日の分は煮て、後は干しておけば日持ちもする。桂さん、どうもありがとう」
「てめぇ、まさか盗んだんじゃねぇだろうな」
「失敬な」
「トシ」と銀時が妻を呼んだ。その声には気安い響きが含まれていた。なんとなく桂は当てられたような気がして、足先がむず痒い。「今日きっと、コイツみたいなのが何人も訪ねてくるから、多めに頼むよ」
「はい」と覇気のある返事をして、トシは竃に火を熾すと湯缶を置く。それから、鰹を捌きにかかった。
「人妻は実に良い」と呟くと、銀時の冷たい視線が突き刺さる。桂は苦笑をして、銀時に耳打ちした。「ちょっと出れるか」
「ああ」とトシに伺うように銀時が妻の後ろ姿に視線を向けると、トシが振り返る。その瞬間、紗良紗が翻る。桂はトシの左顔を視た。
「お茶を入れるから早めにお帰りください」
 トシはそれだけ云うと紗良紗を用心深く直し、背を丸めた。
 銀時と連れ立って寺社が連なる通りを歩く。振売りの賑やかな口上が春の陽気に一層の活気を与えているようであった。知り合いに会う度に「後で行くからよ」と銀時は声をかけられていた。「へいへい」と気のない素振りで返事を返している。漸く人気のない神社の境内に入ると、柳の木の下にある岩に腰掛けた。
 二人は先程とは打って変わって、気難しい顔をしていた。銀時が目線で促す。
「トシ殿の左顔だが」
「何かわかったか」
「いろいろ調べてみたが、薬の副作用ではないだろうな」
「違うのか」
 桂は少し考え込み、「毒かもしれん」と呟いた。
「毒?」
「俺の父親は藩医だった。俺にも多少の医学はあるのだ。陽織吽という薬草がある。これを煎じて呑むと心の臓がある側。つまり、左の顔や首が爛れる。髪の毛も抜け落ちることがある。そのまま飲み続ければ死に至る」
「陽織吽」
「陽織吽は薬にもなる。水に浸し、一ヶ月干して乾燥させ、用法用量を守って処方すれば胸や頭痛に効く。トシ殿は美人だ。あれほどの美貌なら妬む者もおろう」
「トシの両親は病で死んでる。だが、原因不明だったらしい。吐血はしたらしいが、労咳ではなかったそうだ」
「そっちはなんとも分からんが、トシ殿が毒を盛られていたとしたら、トシ殿の両親の死因も穏便な話じゃなさそうだな」
「近藤にも訊いてみる」
 桂は立ち上がり着流しの埃を叩く。銀時は考え込むように目を細め、唇を親指と人差し指で掴んでいた。
「トシ殿はいい女子だな」
 春風が花びらを運んでくる。それが、銀時のうねりの強い髪の毛に留まった。桂を見上げた銀時は、何時もよりも若々しく見える。まるで、十代の頃のに戻った気がした。桂は不意に優しい憂いを感じた。桂は浮宕者である。銀時のようにひとつ同じところに住むわけにはいかない。それでも、そこに行けば信頼できるものが必ずいるというのは一つの安らぎになっている。
「戻ろうぜ、トシが茶煎れて待ってる」
 銀時は他人を受容する自分を認めたのだ。何かを吹っ切った幼馴染の表情は、解りにくくとも、確かに変化していた。