今までは無作法に入り込んだものだったが、今日からはそうもいかないだろう。伊藤彦助は妙な心持ちで銀時の家の戸を叩いた。
 彦助は三十路を過ぎている独身男で、生業は鳶職である。現場の華と呼ばれる鳶職向きの足と手が妙に細長い身体つきをしていた。性格は短絡的で、思考を巡らす前に態度と口先に真っ先に出る。そのため、江戸っ子らしく喧嘩っ早く自堕落で、遊び人である。刻は昼八ツ半過ぎ、枝豆の束を右手にして、戸の向こう側の音に耳を澄ましていると、すっと音を立てて目の前の戸が開いた。
 戸を開けたのは見かけぬ娘だった。紗良紗を頭から被って、右の表情しか伺えない。部屋の中に居るからであろうか、陰影が深く、彦助はその為、娘がなにやら陰気臭く感じた。娘は彦助にじっと眼を据える。鋭い眼差しは何かを突きつけているかのようで、一瞬間、彦助はたじろいだ。そこではっと思い当たる。もしかして、この娘が銀さんの新妻ではあるまいか。
「あの……銀さんに祝いを」
 枝豆を突き出すようにして云うと、娘は深く頭を下げて、心持ち、表情を和らげ、「銀時の妻になりました。トシと申します」と応じた。彦助は完全に娘に気遅れしていた。女に怯えるなど、彦助にとって在ってはならないことであった。この男は人一倍自尊心が強い。娘に理不尽な敵意が沸いたのは彦助の性質から云って必然の事であった。なんでぃ、銀さん。いい女とかなんとか抜かしておきながら、随分陰気臭い女じゃねぇか。身体の線が細すぎる。右顔は確かに整ってはいるが、整いすぎていて鋭い刃のようだ。彦助は唇をへの字に曲げた。会ったばかりなのに、この娘がどうしても気に喰わないのである。むらむらと沸く加虐心は彦助を次の行動に突き動かした。強引にトシを押し抜けるようにして上がる。すると、部屋中に充満していた煮物の良い匂いが鼻につき、その匂いが一寸彦助の気持ちを和らげた。肩で押しのけたトシの足がもつれたのを横目で見た。
 既に来ていたらしい、この界隈の知人達が「あっ」と叫ぶ。銀時が慌てて立ち上がる。彦助が振り返ると、トシが水瓶に躓き横に倒れるのが随分ゆっくりと見えた。しまったと手を差し出そうとすると、トシの頭から覆っていた紗良紗が反り、左の表情が顕になった。彦助は差し出そうとした手を咄嗟に引っ込める。その瞬間、大きな衝撃音がして、トシが土間に倒れた。水瓶に躓いた事により、中の水が溢れ、トシを濡らした。頭から水浸しになったトシは左の顔を顕にしていた。彦助の顔は引き攣った。陰気臭いどころじゃねぇ、こりゃ化け物じゃねぇか。彦助の眼には、土間に這い蹲り、水に濡れたことにより左顔の爛れが艶を増し赤々としているトシがより一層不気味に映った。
 銀時がトシを抱き起こす。トシは呆然として自分の左顔を抑えていた。
「大丈夫か、トシ」
 水を滴らせ、固まっているトシに銀時が触れている。彦助は鳥肌が立った。なんで、触れられるんだ。感染るかもしれないじゃないか。その女を抱けるのか。そんな醜い女を。
「取り敢えず、拭こうな」
 来客者たちは黙して、銀時とトシの成り行きを遠巻きに眺めていた。場は完全に白けてしまっていた。彦助はそれが自分が蒔いた種だとはつゆとも思わなかった。トシのあまりも醜さに一同が絶句しているのだ。ここは自分が場の空気を一変させるべきであろうと、殊更明るい口調をトシに向けた。
「そんな簡単にすっ転んじまうようじゃ、いけねぇなぁ。女は下半身が頑丈でなきゃ、突かれたり、息んだりできねぇよ。それに、どうだいそりゃ、病気かい。左側の……おっと感染さないでくれよ。俺ァ、感染されんのは親の目を盗んで鼻が落ちるのだけで結構なんでね」
 トシの顔色がみるみるうちに蒼白になった。眼の奥が強い光を宿し、彦助を捉えた。それでも何を言うでもない。唇の端を持ち上げて、彦助を表情無く見上げている。歪だ、と彦助は顔を顰めた。そして、眼だけで責めているのだと気が付いた。この女、底が知れない。
 突然、後頭部に激痛が走った。いってぇな! と振り返ると高杉晋作が拳を握り憤怒を顕にしていた。彦助は凄味を効かせた高杉の表情に蛇に睨まれてように縮み上がった。
「ちょっと表出ろ」
 地の底を這う声音に、瞬間、毛穴という毛穴から冷汗が湧き出た。足を縺れさせて表に出ると、高杉は後ろ手で戸を閉めた。そのまま首を掴まれ、表店の裏の土壁に強く押し付けられた。
「お前、もう帰れ。不快だ」
「お、俺は………ただ………あれ見ただろう、あの女の左顔、膿んだ痕みたいに爛れて、ありゃ直視できねぇよ」
「いいか」と高杉が彦助の掛け衿を捩じり上げた。「美醜の感覚は人によって違うだろう。これは仕方ねぇ。だが、自分の尺度をそうやってあからさまにして相手に押し付けるんじゃねぇ。そういうのを野暮ってんだ」
 高杉は力任せに彦助を突き飛ばすと戻っていった。彦助は屈辱に顔を赤黒くさせて唇を噛み締めた。身体はぶるぶると震え、腹は煮えくりかえっていた。どうかしている、あんな化け物を嫁に貰うなんざ。
「あんな化け物のどこが良い女だ」
 吐き捨てるように云って立ち上がる。嘲笑と嘲りをふんだんに籠めた目で銀時の家を睨み、そのまま木戸を出た。往来を往き交う町娘をじろじろと見物しながら、こっちの方がずっといいじゃねぇか、どうかしてる。と彦助は頭の中で繰り返していた。